文芸批評と本質論

碩学・井筒俊彦によれば、「個別的本質」と「普遍的本質」の区別イスラーム哲学の基本、イスラームにおいてはいやしくも哲学者たるものこの両者を混同する過ちを犯してはならない、と言います。
「本質」とは「何であるか」の答え、あるものをそのものたらしているもの、と言えるでしょう。
そして、たとえば(井筒も挙げる)「花」の例で言うと、「個別的本質」とは「この花」の本質であり、「普遍的本質」とはタンポポもバラもユリもひっくるめた「花」全般の本質です。

(なお、「そもそも“本質”など存在しない」という立場もありますが、その場合にしても「そもそもどんな“本質”について“存在しない”と言っているのか」は問題になります。そして、以下で問題にする話題においては、多くの論者がまさに「本質論」としか言いようのないものを展開しているのであって、そのこと自体が正当かどうかは、脇に置いておきます)



さて――と、そこで私は考えます。
文芸批評において、「文芸というものの本質」あるいは「あるジャンル(たとえばライトノベル)の本質」と、「この作品の本質」を区別できている人は、どの程度いるのでしょうか。
それどころか、まず総論として「文芸とは何か」「当該ジャンルとは何か」「物語とは何か」を論じた後、いわば「ケーススタディ」として「個別の作品を分析してみよう」という展開の批評書をしばしば目にします(あえて名指しする必要はありますまい)。まるでそれが「きちんとした」「学問的」スタイルであるかのように!

もちろん、総論が個別の作品分析に当たって導きの糸となる可能性をただちに全否定はできません。
しかし、全ての作品を同じ切り口で切ることで本当に個々の作品の魅力を取り出せるのか、ましてや古今東西(名作から駄作まで)ありとあらゆる作品に共通するような「普遍的特性」を論じることが個々の作品の特徴を露わにするに当たってどう寄与するのか――そういう疑問を抱かないのだろうか、と思います。
さらに、「どんな作品についても言えること」を個々の作品に適用していくのは、ともすれば「何でもかんでも(強引にであっても)当てはめて回るゲーム」に堕してしまう恐れさえあります。

「ストーリーとキャラどちらが重要か」といった類の議論も、この点の混同に起因しているように思われます。
「ストーリーとは何か」「キャラとは何か」「(一般論として)両者は作品に対してどのような地位を占めるのか」と、「この作品においてストーリーとキャラどちらが本質的か」では、別問題でしょう。

中世以来のイスラーム哲学における基本が理解されていないということは、文芸批評はイスラーム哲学より1000年遅れている、ということです。
しかし、それも驚くには当たらないのかも知れません。
イスラーム世界はムハンマド以来アラビア語で連綿を著述を続けてきた歴史があり、「イスラーム哲学」に限っても中世以来1000年以上の歴史があるからです(そして、現在でも生きています)。
対して、「批評」に該当する活動は古くからあったかも知れませんが、そこに途切れることのない歴史があるかどうか、疑う余地は十分です。要するに文芸批評とは、(少なくとも現代日本で見られるそれの多くは)近代的な出来星の分野ではありますまいか。歴史に1000年の差があれば、後発の方が1000年遅れていても不思議はありません。

しかし――私はもちろん、「個別的本質」と「普遍的本質」の区別というのは、普遍的な説得力を持ちうる話だと思ってここまでを書いています。上では井筒という権威に依拠する形になってしまいましたが、そこはそれ、権威に頼らずとも論じられることです。「花一般を花たらしめるもの」と「この花をこの花たらしめるもの」では、違うでしょう。
が、それがただちにどこででも理解されるものかどうかは、少し話が別。上述のように「まず何らかの普遍的本質を論じ、ついで――前半からシームレスに繋がって――個別の作品分析を行う」スタイルの批評本が多く通用しているということは、文芸批評の世界ではそれが「正しい」ということかも知れません。
私のような者が「いやしかし、その根底にある論理はどうなんだ」と異議を唱えても、「そんなことをごちゃごちゃ言うより、一つでも多くの作品を読んで資料を増やすべき」と言われるかも知れません。
業界ルールあるいは慣例が優先するというのも、よくあることです。

だから私は、いわゆる学問性の基準というやつが普遍的なのかどうか、疑っています。
学際的な研究というやつの難しさもここにあります。
ある分野でその分野の基準に従った研究を重ね、他の分野でも同様にして、二つを合わせればいい――とは限らないのです。
一方の基準で「きちんとした」研究は、他方の基準では評価されないことがありうるのです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村 人気ブログランキングへ

テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育

フィクションを書く意味

現在執筆中の論文、一応は哲学の論文であって、圧倒的に引用の多いメイン文献はやはり哲学書なのですが(というかいつも通りにベルクソンの著作です)、サブ文献としてはほとんど哲学研究書を引くことなく、物理学者の著作ばかりといういささか特異なラインナップに。
これが野心作となるかただの馬鹿の仕事となるかは、結果次第ですが。

まあ、結論部の候補を二つ書いて選んだりしているのを思うと、やはり馬鹿なのかも知れません。

 ~~~

さて先日、「異世界で言葉が通じる」ことの問題について少し書きました。
この件についてもう少し考えてみましょう。

まあフィクションの世界には、途方もなくハイスペックな天才主人公が溢れているのも事実。
そんな天才ならば、先人の手引きもないまま未知の言葉を話す人々の中に入り、ゼロから言葉を習得していける――という話なら、どうでしょうか。
確かに、そういう設定であっていけない理由はありません(転生ものですが、『転生少女の履歴書』などは実はそれに近い設定です)。

しかし、未知の言葉を習得していく過程というのは、なかなか描くのが難しいものです。
「未知の言葉」についてある程度詳しく設定するのか否か……
さらに言えば、いくら天才であっても、なかなか外国語を母語を同じ感覚で使いこなせるようにはなりません。それでは、言葉遊びや冗談を駆使した会話をするに当たってもマイナスなのではありますまいか。
あえて「カタコトの主人公」を設定する意味があるなら、ともかく。

そうやっていくつかの困難を乗り越えて話を書いたところで、さて、そもそも現実に未知の地で未知の言葉を話す人々と出会い、ゼロから交流を築いた探検家やフィールドワーカーのドキュメンタリーはすでに存在しています。
それをフィクションで反復して面白いのか、ノンフィクションの迫力に勝てるのか、そこを考えないといけません。

「リアリティの追究」と言いますが、現実にあることを写すだけでは、フィクションを書く意味がないのです。

現実的な感覚を備えているのは大いに結構、しかし問題は、どう「フィクション」へと踏み込むかです。
(なおこれは、別に「現実は厳しく思うようにならない、フィクションの世界は優しくてご都合主義」といった安易な対比とは限りません。踏み込む方向は様々に考えられます)
そして、おそらくそれこそが、「創作の才能」に関わる部分なのです。取材して細部を作り込むとかいうのは、言ってしまえば、その上に乗せる装いです。

まあつまり、繰り返しになりますが、フィクションの筋に大して重要でないことはこだわらずに片付ける、それもテクニックの一つです。「説明もなくなぜか異世界で言葉が通じる」であっても、それは一つの手法です(ただし、「それが許される雰囲気の作品に仕立てる」ことこそが一番重要なテクニックになってくるでしょうが)。

――結局、これだけ分析をやってきてようやく分かってきたことの一つですが、「その筋ならば何が重要で、何をスルーすべきなのか」、あるいは逆に「その作風ならばどんな筋が活きるのか」、この見極めこそが肝心要であり、難しいところです。
商業出版作品にも、その辺がちぐはぐに見えるものは珍しくありませんし……

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村 人気ブログランキングへ

テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育

余計なことを気にしない/させない才

異世界とはそもそも何ぞや……という話も時々してきましたが、そういう根本的な問題はひとまず脇に置いたとしても、私のような理屈っぽい人間は、「異世界に召喚される」という一事についても、色々と気になります。
たとえば、異世界人とすぐに言葉が通じるのはなぜか。

その世界での人生を赤ん坊からスタートする「異世界転生」の利点は、こういう問題をクリアしやすいことかも知れません。
(とは言え、少し形を変えつつ似たような問題は生き残るのですが……「転生考」の記事参照。というか今その記事を読み返すと、すでに話題が被っていたり)

もちろん、説明を色々と考えることはできます。

曰く、もともと言語・地理など多くの点が共通していて、そこに少しだけ違いが加えられた世界である
曰く、召喚者あるいは非召喚者の「言葉が通じる」相手を求める心理により、そういう世界(相手)が引き寄せられた
曰く、翻訳の魔法のようなものが働いている

竹本泉氏の漫画『ねこめ~わく』では、当初はそんなことはまったく考えられていなかったにもかかわらず、連載が始まって十数年経ってから気付いたように説明が与えられました。
さらにこうした設定がひとたびつけば、さらに色々活かすことも考えられます。
たとえば3番目の「翻訳の魔法のようなものが働いている」に該当する作品で、『義妹が勇者になりました。』では、読唇術を備えた登場人物が実際に発声されている言葉と翻訳されて自分の耳に届く言葉の違いに気付くばかりか、さらに「翻訳を経る必要なく、異世界の人間が口にしている地球語の単語」の存在から、かつてこの世界に召喚された人間の影響を推論したりもしています。
あるいは『巨竜城塞のアイノ』では、召喚と同時にあらゆる言葉を理解する能力を与えられた主人公は、その異世界でも人間とコミュニケーション不可能であった存在とも心を通わせます。

このように、設定は何とでもなるのです。
しかし、そういうことにばかり力を入れていて本筋を疎かにしたのでは、本末転倒です。
問題はその辺のバランスを考慮して、どうするかなのです。

私のような人間が話を書こうとすると、そういうところばかり気にして、そのくせストーリーを作る創造性はないので、だいたいそこで「ああ、これじゃ“話”にならないな」と気付いてしまうのです。

ですから、「何の説明もなく異世界で日本語が通用して、そのまま話を進める」というのは、一つの立派なテクニックです。
むしろ、「どうでもいいことを問題にせず、読者にも自然とスルーするよう仕向ける」ことこそ、物書きのもっとも重要な才能と言ってもよろしい。これはおそらく、フィクション以外にも当てはまります。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村 人気ブログランキングへ

テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育

真実の愛は人生を変えるのか?

しりあがり寿氏の漫画に『ヒゲのOL藪内笹子』という作品がありました。
結構あちこちの媒体に掲載され、単行本もいつかの版が出ているので、全部でどれくらいのエピソードがあるのか、詳しくは確認していません。
ビームコミックスから「完全版」が出ているようですが……









本作の主人公藪内笹子(やぶうち ささこ)はOLですが、タイトル通り、真実の愛を見付けるまではヒゲを剃らないと誓って、ヒゲを生やしています。
「ヒゲを剃らない願かけ」というのは時々ありますが(スポーツ選手などがやっているのを見ることも)、女性がそれをやっているのが実にシュールです。
彼女がそんな誓いをした理由そのものは一応語られますが、そもそも彼女の「女でありながらヒゲが生える体質」については、ツッコミすらほとんどありません。

展開としては、笹子は毎回様々な男性と巡り会い、「彼となら真実の愛を見付けられそうな気がする」と思うものの、ギャグmながのフォーマットに忠実にと言うべきか、結局は破局します。(私も、読んだのは結構以前のことでもあり、個々のエピソードについてはあまり詳しい記憶はないのですが)

とは言え、本作にはギャグとしてのバカバカしさが前面に出ているとも限らない、独特の雰囲気があります。何しろ、愛を求める笹子はどこまでも真剣ですし。
実際、中にはギャグらしくひどいオチがつくわけでもなく、普通に相手の男性と上手く行きかけた話もありました。その場合も結局、相手の男性が死んだりして笹子は独り身に戻り、愛を求める旅を続けるわけですが、それはシリーズを続けるための要請であるという気もします。
そして、さて相手が死んだとしても、少なくとも相手がいて生きていた一時には、「真実の愛を見つけた」とは、言えないものでしょうか。

しかし裏を返せばこのことは、たとえいい男性と巡り逢って上手く行っても、笹子の「真実の愛」を求める流浪は終わらないことを示唆してもいます。

いい相手と幸せになったとしても、それは一時的な状態の変化であり、そして全ての状態はまた変化するものだからです。

哲学者の永井均氏は、不幸な人生の末に「この人生を二度と幸や不幸ではかりません。人生には意味があるだけです」という境地に至った『自虐の詩』(業田良家)の主人公・森田幸江と笹子を比較して、こう書いています。

 だが、笹子の〔ヒゲを生やしているという〕このふざけた態度こそが、より深い絶望を感じさせるのである。笹子は、たとえ真実の愛を見つけてヒゲを剃ったときでも、人生には意味があるなどと言いだすことはないだろう。ただ、そのときの幸福感に酔いしれることができるだけだろう。
 (永井均『マンガは哲学する』、岩波現代文庫、2009、p. 184)


そういう状態をそもそも「真実の愛を見つけた」と言うのはどうか、意見が分かれるところかも知れません。
笹子自身、どうなれば「真実の愛を見つけた」と言えるのか分からないまま、流浪を続けているのでしょう(人生とはそういうものではありますまいか)。

ただ、「真実の愛」という言葉の重々しい字面からすると、何だかこれは人生の意味を決定的に変えるようなものが想像されるわけですが、本当にそうなのか、という疑問は、確かに投げかけられます。


たとえば先日取り上げた『いもーとらいふ』の主人公も、日々「愛ってなんだろう」という疑問を口にしていました。
そんな彼にとって、自分は妹への愛と他の愛を同列に比較した挙げ句、全てに妹を優先してしまう、妹が好きでたまらないだけの気持ち悪い男なんだ――というのは、たしかに彼自身の「真実」ではあったでしょう。ただ、その真実を見出した結果として彼は幸せになったのか、どうか。
何しろ、これは幸不幸の問題ではなく、ただ「そのようにしか生きられない」という業に近いものがありますから。
下巻において彼自身にとっての「真実」に変化が追加があるかどうか、まだ定かではなく、最終解答はその結果次第でしょうが。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村 人気ブログランキングへ

テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育

多重構造の事件の幕引きに向けて

時の経つのは早いもので、今月も『マガジンSPECIAL』の発売日となりました。
『絡新婦の理』コミカライズの第16話掲載です。



当然ながら、前回の続きで引き続き原作第8章の内容です。
前回は益田が京極堂を訪れてここまでの展開を報告していましたが、今回そこに京極堂の妹・敦子、ついで青木刑事がやって来て、それぞれの報告をします。

絡新婦の理第16話1
 (京極夏彦/志水アキ「絡新婦の理」『マガジンSPECIAL』2016年No. 10、p. 427)

青木の方はこれまで木場が当たってきた目潰し魔事件の報告ですが、敦子の方は京極堂から依頼された調査事項があったようで……

絡新婦の理第16話2
 (同誌、p. 433)

無差別連続殺人と思われた目潰し魔事件の被害者について、何とも意外な共通点を指摘します。

青木の報告は、第11話までに描かれてきた木場の捜査結果と、その後に得られた関係者の供述です。
木場の友人である川島新造川島喜市の関係、それに彼らが何を思ってどう動いていたのかが明らかになります。

しかし、これと益田の話を突き合わせると、何とも奇妙な事態に。
益田の見てきたことによれば、目潰し魔の被害者たち(正確には2人目の被害者である川野弓栄、3人目の山本純子、4人目の前島八千代)には、聖ベルナール女学院の売春していた生徒グループ「蜘蛛の僕」によって呪われた――という共通点がありました。
他方で青木によれば、川野弓栄、前島八千代、それに5人目の被害者である高橋志摩子は、川島喜市が母の仇と恨んで復讐計画を目論んだ相手である――というのですから。

もちろん正確に言えば、「蜘蛛の僕」は被害者たちを呪っただけ、喜市は嵌めて復讐してやろうとした(殺そうとしたわけではない)だけであって、実行犯はまた別にいるわけですから、二人の人物が同時に同じことをするという不可能事に陥っているわけではありません。
しかし、同じ事件の一連の被害者たちがまったく別の線によって結ばれ、(実行犯はともかく、背後関係に関しては)別の動機が存在している――などということがあろうとは。
京極堂はこの事態を的確に表現します。

絡新婦の理第16話5
 (同誌、p. 434)

この「現実」とはまさしく、「意味」によって構成されたものと言えるでしょう。
同じ事件が異なる意味をもって、それぞれに成立しているのです。

しかも、そうした異なる「現実」同士はまるで別物でありながら、瓜二つと言っていいほどに重なる構造を備えています。

絡新婦の理第16話6
 (同誌、p. 450)

さらに、そうした構造は一人の真犯人によって意図されたものであり、だからこそそれぞれの意味の層は蜘蛛の巣の横糸に喩えられます。
外側の横糸を回っている者と内側にいる者とは、同じ網に関わりながら交わらないのです。
そして、真犯人は全ての中心にいるがゆえに「蜘蛛」に喩えられるわけですが、残念ながら蜘蛛の巣の上にいる者にとっては、どこが中心かは分かりません。

絡新婦の理第16話4
 (同誌、p. 453)

だからといって、人間を思い通りに動かすことなど、できるはずはありません。
それぞれの関係者がそれぞれの思惑でもって動いている、青木の曰く「無節操な計画」を束ねることが、いかにして可能なのか。
それは、関係者を操ろうとするtのではなく、「関係者が都合良く動いた時にだけ機能する」ように、蜘蛛の糸のごとく仕掛けを巡らせておくことによって、です。

絡新婦の理第16話3
 (同誌、p. 452)

原作だとここに、具体例を挙げての解説がありました。
便所が故障していて、だから家の主人も庭で小便をしていた、と思わせるような行動を取ることによって、来客が庭で放尿するよう仕向け、その人間性に対する評価を貶める――という、いささか品のない例ですが。もちろんこの場合も、来客が思い通りの行動をしてくれなければ放置して、別の機会を狙えばいいだけなのです。
この辺の説明もしていたら原作第8章に3話かかわるかな、という判断でしたが、どうやら説明は短縮する道を採ったようで、今回で第8章分は終了です。

そんな周到な「蜘蛛」の計画に対して、現状では実行犯をとにかく検挙していく以外の道はない、自分の出る幕はない――と言っていた京極堂ですが、そこに今川が訪れて、織作家の「憑物落とし」を依頼するのです。

絡新婦の理第16話7

絡新婦の理第16話8

絡新婦の理第16話9
 (同誌、pp. 454-455)

ただし、本シリーズにおいては今までも見てきたように、「呪い」が解けてそれまでの現実が崩壊すること、それまでの歪みから一気に解放されることは、新たな痛みを伴う、辛いことです。
その結果として崩壊寸前の家族を繋ぎ止め、平和に導くことができるとは限りません。
それでも、「事件の解決」ではなく「憑物落とし」の依頼ならば――ということで、ついに京極堂が立ち上がります。

いよいよ「憑物落とし」の始まり……ということで、次回はまた聖ベルナール女学院に戻るはずです。
と言っても、京極堂の合流前に、もう少し美由紀の様子の続きが描かれるはずですが。
原作第9章の消化には何話かかるか――いずれにせよ、ますます楽しみです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村 人気ブログランキングへ

テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育

プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
カレンダー
07 | 2016/08 | 09
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
参考文献
私が展開している思考の拠り所など(一部)。
スポンサー広告