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大学改革という狂気

そろそろ漫画かライトノベルの話にしようかと思っていましたが、気が変わりました。
まずは以下のリンク先の記事をご覧下さい。

 G型大学とL型大学

執筆者名(池田信夫)である程度は察するべきなのかも知れませんが、実のところ問題なのは、ここで取り上げられている、冨山和彦(株式会社経営共創基盤代表取締役CEOとのこと)氏の「プレゼンテーション」で提案されていることです。そこに池田氏が賛成しているか反対しているかは二の次でも構いません(確かに、賛成しているのも問題なのですが)。

それによると、「極一部のTop Tier校・学部以外はL型大学と位置付け、職業訓練校化する議論も射程に」とのこと。
そうすると「L型大学」の教育内容は以下のようになるそうです。

G型大学とL型大学
 (クリックで画像拡大されます)

……呆れてものも言えない、と言って済ませたいところですが……

使い古された言い回しだけれど、大切なことなので言いましょう。
新しいものほど早く古くなります。
すぐ役に立つことほど、すぐ役に立たなくなります。

「最新鋭の工作機械の使い方」なんて学んだところで、もっと新しい別種の機械が登場したらどうなるのでしょうか。
機械工学の基礎を学んでおいた方が、後々汎用性が高いと、思わないのでしょうか。

第一、「簿記・会計、弥生会計ソフトの使い方」も、「大型第二種免許・大型特殊第二種免許の取得」も、片手間で習得する人もいますし、仕事で必要になれば皆身に付けます。外国語で特定の内容を話すことに関しても然りです。
他所でも学べる、すぐに役に立たなくなる可能性も高いことを大学4年間も使って教えて、学生の人生4年間と教育機関のコスト、両面で莫大なリソースの無駄遣いだと思わないのでしょうか。
正気の沙汰とは思えません。

さらに言うと、実用的なことと言うのは基本的に、必要に迫られて覚えることです。
外国語会話でも仕事道具の使い方でも、必要がなければやる気にもなりませんし、覚えません。
しかし学生というのは定義上、仕事の必要に追われて学んでいるわけではないのです。
結局、何を教えようが、試験をギリギリで通過するだけで実用にはならない水準の学生を量産するだけの可能性が高いでしょう。
そしてまた「大学教育は役に立たない」「何を教えてるんだ」の繰り返しです。

本当に実践を教えようと思ったら、ほとんどの授業でインターンをやるしかないでしょう。
受け入れ先がないでしょうし、あったとして、それはもう「教育機関」ではありません。

それでいい、4年間インターンをやっていればいい、という声があるかも知れません。
曰く、いつまでも学校に行ってフラフラしてるからバカになる、まともな人間になるためには早く社会に出て働くべきだ、と。
しかし、そのように主張する「有識者」で、「自分の子供は是非とも中卒で工場労働者にしたい」と言う人がいるでしょうか。聞いたこともありません。

別に今回問題の論者がそうだというわけではありませんが、世の中にはやたらとプライドが高くエリート意識があって、当今大学が大衆化してレベルの低い学生まで自分と同じ「大卒」を名乗るのが許せない、という人がいます。
そういう人が自分の履歴書に名前のあるような「エリート」大学とそれ以外とを分けようとして過激な大学を唱えている、というケースがありはすまいか。

まあ、上記の点については、単に具体例がおかしいのだ、と言うこともできます。
ただ、もっと根本的な問題として、まずここで冨山氏が主張している「G型」と「L型」というのは、「グローバル」と「ローカル」の頭文字なのです。
この分け方は要するに「グローバリズム」という経済の問題であり、プレゼンテーションのタイトルから「我が国の産業構造と労働市場のパラダイムシフトから見る~」です。

「極一部のTop Tier校」というのは例えば東大・京大のようなところと思われますが、そうした大学はグローバル経済への貢献を本義としている、とでも言いたげです。

結局全ては経済の問題に還元され、金(カネ)でしか価値が判断できなくなっているようです。

「何だか分からないもの」を学び、長いスパンにおいて思いがけぬ形で役に立って、人生を豊かにする、教育の本義とはそういうものだと、繰り返し強調させていただきます。


【金が欲しくてたまらない人のチェック項目】
他人の家を見て、自分の家より大きいのは許せない、と思ったら黄信号。
わざわざ他人の家を見に行ってそう思っていたら赤信号。
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自分は何をやっていたのか…

なぜか米を炊くのを忘れます。
研いだ米に水を入れた内釜を炊飯器にセットして蓋を閉めた……ところでスイッチを入れるのを忘れているということが往々にしてありました。
炊く前にしばらく水に漬けておく……等ということは考えていなかったつもりなのですが。
なんとも妙な忘れ方です。

 ~~~

学校というのは毎週決まった時間に授業があるなので、「これから1週間くらい他のことは忘れてこれに集中しよう」と思ってもなかなかできないようになっています。
もちろん、一つのことにずっと集中できるとは限らず、飽きることもありますが、集中してきたところで次のことに追われる、というのもありがちなことです。
そういう意味では、コンテンツを学ぶだけなら学校というのは効率の良いものではありません。

大学は(ところにより、また専門分野により様々ですが)必要な授業を受けるだけなら結構空きがあり、場合によっては履修していようと出席しないという選択もあり得ますが、それでも授業準備やら課題やらがあるとなかなかまとまった形で一つのことに集中してもいられない、と感じられることはあります。
まあ私の場合、あちこちの授業に出て回っているのはほとんど自分で選んだことですが。
縛られるような条件は作り過ぎない方がいいですね。

色々あるので今日はこれのみで。

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凡才選抜試験

おかしい。時間の経つのが早すぎます。
まあ自分の使い方に問題があるわけですが…
とにかく、そろそろ研究会の原稿にもかからねばならないので、手短に行きましょう。

 ~~~

まず今回の話は、大学生もしくはすでに大学を卒業された読者の皆さんに対して、どのような形で大学に入られたにせよ、そこから各自が「良いか悪いか」を言おうとしているわけではありません。なぜかは読んでいけば分かります。

というわけで、前々回「試験への問い」の続きです。
私の父は医学部の先生をやっていましたが、調査と統計の結果、やはり一般入試で入った学生が一番安泰で、留年したり医師国家試験に落ちる学生は、推薦入試組に多かったと言います。
注意すべきは、成績の平均では差がなかった、ということです。
しかしそのことを楯にとって「問題ありません」というのは「統計の読み方を知らないから」だと父は言います。
なぜか。医師国家試験は9割が受かる試験です。しかも一つの医学部はたいてい一学年100人程度ですから、一人受かるか落ちるかで合格率は揺れ動きます。
成績は平均点を中心に両側に均等に分布している(これを正規分布と言います)ものと考えると、こうなります。

成績 正規分布

要するに、平均が同じでも、平均に対するブレ幅(専門用語で言うと標準偏差)が大きいほど、試験に落ちる数が増えることになります。
あえて言ってしまえば、医学部の目的はコンスタントに医師を生み出すことであって、「天才1人とバカ10人を取る」試験はもちろん、「天才1人とバカ1人を取る」試験でさえお呼びでない、ということです。

「合格率という数値にこだわりすぎではないか」という疑問はそれなりに正しいのですが、学生の立場からしても国家試験に落ちるのは重大問題です。
私大の医学部は6年間で入学金・学費合計して4000万円くらいかかるのが標準ですから、それだけかけて医師になるという当初の目的を果たせないのは、かなり深刻な事態のはずです。

つまり、平均値そのものの高低はあっても、平均に近い人間――つまり凡才を取るには、ペーパーテストが一番いい、ということです(秀才というのは言い換えれば、水準の高い凡才のことです)。
ペーパーテストに対するよくある批判の一つが「これではオリジナリティのある業績を上げるような天才は選抜できない」というものですが、それに対しては「そもそも天才を選抜するために試験をやっているのではない」という反論もあり得るのです。

実際、「天才を選抜する試験」は不可能ではありません。

 本書に度々登場するK予備校の教務部長は、その後ある私立大学の客員教授として教壇に立つことになるが、そこでAO入試に関して大変な経験をした。
 その大学はいわゆる入試難易度でいうと偏差値55.0から60.0あたりに位置するそこそこの難関で、入試の形態はペーパーテストの一般入試から公募推薦、AO入試と、なんでもありで有名なところである。
 教務部長はその大学の講義を通じていろいろな学生と親しくなった。そしてその中に時々鋭い質問をしたり、異色のレポートを書く学生を何人か発見したのである。それとなく聞いてみると、何と彼らはほとんどがAO入試で入ってきているのだった。もちろんペーパーテスト組にも優秀な子はいる。しかし、その学生たちは普通のペーパーテストの勝ち組で、凄みのある突出した感じはしない。
 その学部は新設の若い学部で、聞いてみるとAO入試では先生方は模擬講義をして、論文を書かせ、それを巡って受験生と夜を徹して議論をするという大変手間のかかることをしたらしい。「あんなしんどいこと、もう御免だ」とおっしゃった先生もいた。
 このように、AO入試は手間がかかるものなのである。しかし、手間をかけたからといって合格者全員が異能というわけでもない。人柄は面白いけれど、レポートを読むと「なにこれ」という子が多いのも事実である。研究者の卵を見出そうとした場合、一種の優れたやり方だが、五人合格させてひとりお目当ての子がいれば、成功なのである。だが、本気で取り組めばすごい子がいる。そのことを教務部長は実感したのであった。
 (丹羽健夫『予備校が教育を救う』、文春新書、2004、pp.175-176)


しかしそれでも「お目当て」は一部です。
しかも、仮に5人合格させて1人天才が取れた試験で、合格者を15人出せば3人天才が取れるかと言うと、それは分かりません。天才は一人しかおらず、いくら定数を増やしてもそれ以上は獲得できなかったかも知れません。
現にどんな入試にしろ、定数をあまり増やしてしまうと「目立って優秀な人間が取れる」とは行かないと言います。

「天才を選抜するための試験」をスタンダードにする必要などないのです。

……と、ここまで書いて問題点に気付きました。
この理屈だと、私も凡才でなければならないはずですが…………天才ではないにしても、人間的には偏りすぎているよなあ、と。
まあ試験は人間性を図るものではないので当然と言えば当然ですがね。

予備校が教育を救う (文春新書)予備校が教育を救う (文春新書)
(2004/11)
丹羽 健夫

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                           (芸術学4年T.Y.)

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試験への問い

今日はこれといったことはなかったはずなのに何も進んでいませんね。
やはり大学に行った方がリズム的にもいいのか、あるいは数日分寝ていたのか…
まあ余計なことで時間を潰しもしましたが…

就職関係で、公務員試験の勉強をしている人達が周りにもいます。
試験科目は多岐に渡りますが、各科目の内容は少し見たところ、基本的には高校(大学入試)レベルかな、という感じです。
が、この手の教科書的記述というのは、専門的なことにこだわり出すと「おや?」と思うことも時にあります。
いや、大抵は本当に瑣末なことなんですけどね(ちなみに、私が気にするのはやはり、まずは専門の思想系ですね。高校の「倫理」に当たるところでしょうか。ただ、公務員試験でのウェイトは小さいとのこと)。
試験問題はともかく、参考書の解説が(まったく間違っているとは思えないものの)これでいいのかな……というケースも。

少なくとも、参考書の極小化されたまとめを見ると「誰が何と言った」というキーワードがあるのみで、何かを理解することは求められていないのは分かります。

まあ、トリヴィアルなことにこだわってばかりで「広く浅い基礎」が欠けているのも問題は大ありですが。
(「歴史オタク」は受験では不利だと言われます)

少なくとも高校生以下の諸君は、私が言ったことを信じて「民主主義は安定していない」「民主主義は政治制度ではない」などと書くと試験では落ちます。
「建前」を学ぶのも学校でやるべきことです(ということにしておきましょう)。

ふとここで思い出した話ですが、大学で教えられることはそれだけ先端に近い分、研究者間で見解の統一されていないこともあり(分野にもよりますが)、教科書の内容を授業で批判する先生もいます。
基本的に教科書は先生自身が指定しているにもかかわらず、です。批判するつもりで考えの合わない相手の教科書を使っていた先生もいました。
別にこういうのは悪いことではないのです。

さて、予備校の教科書もその予備校の先生達が作っているオリジナルなわけですが、こちらでは教科書作りに参加しないで教科書を批判する先生の授業は、総じて不評だと言います(予備校で教科書を批判する先生もお目にかかったことがありますが、まあ分かります)。

この違いはどこにあるのかと言うと、やはり予備校は「(基本的には)答えの決まっていることを教える」という点にあるのではないか、と。
そもそも試験対策をするのが予備校ですから、試験の答えという基準があるはずです。
どんなスタイルの教科書が学びやすいか、という問題はあるにしても、複数の先生方の間で根本的に意見が割れて教科書ができない、なんてことはそうそうないはずなんですよね。
それに参加せず、しかも「答えに至る道」を教えるよりも人のやることに文句を付けるというのは、何やら自己顕示欲を満たすための批判という感があります(私が上で書いた参考書への小言も然り)。

しかし先端の「学問」については、「そんな幅広く押さえた教科書を書いている余裕はない(そもそも、皆が皆教科書を書いて出版できるはずもありません)、ここは自説として譲れない」というところがあって然りで、それは何も悪くないのです。

あれこれと言いましたが、私は「通り一遍の知識を問うペーパーテスト」にまったく否定的というわけではありません。
今年春の大学入試カンニング事件では「IT化の現代にはもう旧態依然のペーパーテストはそぐわないことが露呈した」という言説も見られましたが、必ずしもそういう見方に与するわけでもありません。
それは一つには、大学教員として入試と学生の成績に関する統計を取ってきた父の話によるところが大きいですね。
その辺の話はまたの機会に。
                           (芸術学4年T.Y.)

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勉強の条件

「小学生では、足の速い子は勉強もできる」という話をどこぞで見たことがあります。
極端に運動の苦手な優等生だった私としては(※)あまり実感の伴わない話ですが、むろん、私のようなタイプ存在することは、「勉強も運動もできる子」が多数いることをなんら否定しません。

※ まあ、学校の勉強が好きとはおよそ言いがたい人間だったと思っていますが、進学校で成績がやや下寄りに入ったくらいで劣等生を気取るわけにもいかないので、あまり言わないでおきます。
今の大学の勉強? あれは趣味です

教育実習で、少し前まで小学生だった奴らを見るに、あの話はやはり本当だったのかと思います。
反応が良くてコミュニケーションを取りやすく、成績も良い方(と思われる)生徒は運動部所属だったりする。いやまあ、数例から法則を導き出すのは尚早なんですが。

それと、どちらが原因でどちらが結果なのか、それとも第三の要因によって結び付いているのかは、分かりませんが。

 ~~~

学ばないというのはストレスフルなことです。
世の中には実には気になることがたくさんあり、知っておきたくもなります。
しかし、大学も4年生にもなると、卒論の研究のウェイトが大きくなります。私の場合も、当面使う予定のない語学に割いたりできる時間は随分少なくなったと感じます。…語学ばかりというのもどうなのかと思いますが。
そして現在、教育実習中は、(帰宅後や休日に時間的余裕はある程度あっても、体力的な問題もあり)大部分も勉強は凍結中ですね。
しかし、学んでおきたいと思うことはなおも増えていきます。

もちろん、あれもこれも広く浅く学んで、「色々なことを少しずつ知っている人」になっても、意義は薄いでしょう。
それでももう少し幅広く学んでおきたいと思うのは、世に知識人と言われる人のレベルを鑑みれば、もう少し「広く深く」学ぶことができるはず、と思うからです。
まあ、遠からず自分の限界にぶつかる可能性は高いんですけどね。
                           (芸術学4年T.Y.)

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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
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