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女性への幻想とは何か

作品批評という分野で他人の批評をさらに批判するのも、やりすぎると作品そのものからどんどん遠ざかってしまう恐れもあるのでどうかと思う面はあったのですが、今回はそれだけに留まらない問題もあったので、言ってみることにします。
改めて話題になっているのは最近金曜ロードショーで放送されたからでしょうか、取り上げるのはアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』に関する下記の批評です。

 「花は都合のいい女」細田守が作り上げた童貞文化系男子の欲望的ヒロインに、リアル乙女から非難轟々!?『おおかみこどもの雨と雪』

手短に結論から言わせていただきますと、「非現実的な女性の登場人物=男性による幻想の投影」という安直な(しかしある程度までは便利に使える)テンプレートを機械的に当て嵌めたような評論だ、というのが第一印象です。
人が現実的でないものを描くのには様々な理由があります。
そもそも、「おおかみおとこ」が登場する時点でこの映画が現実的でないことなど分かりきっているではありませんか。
それがなぜ「男にとって都合のいい女の幻想」に全て還元されねばならないのでしょうか。

もう細々と論を繰り返すつもりはありませんけれど、『おおかみこどもの雨と雪』の花は「理想の母」を体現したが如き「スーパーマザー」です。
それが非現実的なのは事実でしょうが、「理想の(異性として)女性」を追求したものとは道筋が異なるのではありますまいか。
その結果がある種の男性の好みにマッチするとしても、少なくとも問題がそこだけに絞られるとは思えません。

論者の稲田氏は、俗に言う「俺TUEE系」というのをご存じないのでしょうか。
花は「母」という分野でのそれに近いものがあります。
「俺TUEE系」の主人公は「理想の強い主人公」ではあっても、作者にとっての「理想の異性」ではありません(男性作家が男性主人公を描いている場合の方が一般的です)。

そのテンプレートを押し付けた評論の無理が表面化している箇所が以下の箇所ではないかと思われます。

 しかも花は、のちに旦那となる男が実は狼男だということを知った夜、彼と初夜を迎える。つまり花は、男の「公には隠したい本当の“醜い”姿」を知っても“引かない”女として描かれているのだ。


これでは「おおかみおとこ」は作者=観客=「文化系男子」の投影ということになります。
あんな、ストーリー上は子供を産ませるために必要なだけであっさり退場する、一番どうでもいい登場人物が。

(花が処女懐胎であっても作品は問題なく成立するでしょう)

だが、そんなことより何よりも気にかかるのは、最後に挙げられる、「筆者の周囲で聞かれた、現実の女性たちによる本作への拒否反応」なるものです。
その中にこんなものがありました。

・花は子供を育てるだけの人生なの? だとすると悲しすぎる。


大きなお世話だ。

この意見はまるで、子育てに人生を費やすことを「損失」としか捉えていないように見えます。

私は別に、誰もが子供を産み育てるべきだ、とは言いません。それをしないという選択もあっていいでしょう。
しかし、自分がいかなる選択をしようが、子育てを「損失」としか見ないという意見には身の毛のよだつものを感じます。

そういう意見の女性が現実に存在したのは事実なのでしょう。
しかし、乙女だか何だか知らないけれど、これが一般的でないことを祈るばかりです。

ちなみに私の知る限りでも『おおかみこどもの雨と雪』は確かに賛否の分かれる作品ですが、それが男女で綺麗に分かれるものとも思えませんでした。

一言で言いましょう。
「男は妄想を押し付ける、女はまとも」という定式を押し付けるのも、もういい加減にしていただきたい。
それこそ女への幻想ではないのか。

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改めてハーレムの話をしよう

一夫多妻制(ポリガミー polygamy)というのは、世界各地に見られます。
複数の正妻を認めるにせよ、正妻は一人で他に非正規の妾を置くにせよ、一人の男性が複数の女性に対する権利を持ち、その女性たのところを回るというのが基本形です。

対して一妻多夫(ポリアンドリー polyandry)というのは聞きません。そもそもそんな言葉からして、(日本語でも英語でも)一夫多妻に対応させて作ったように見えます。
社会学者の上野千鶴子氏によると、(1980年代当時で)一妻多夫の制度が確認されているのは「チベットとネパールの奥地ぐらい」とのこと。

(……)そこは非常に貧しい山岳牧畜民の社会です。そこでは結婚するための婚資に二、三十頭の家畜を花嫁の親族に渡さないと嫁がこないのですが、数十頭の家畜を殖やすのに最低三年ぐらいかかります。そうすると、兄に一人嫁を取ると、次の弟に婚資を用意するまで最低三年待たなければなりません。それでも飢饉などがあったらそんなにたくさん家畜を用意できるわけではありませんし、貧しいですから、弟が我慢しなければいけません。兄が嫁を取ったときに、弟は兄嫁と同衾することができる、というのがポリアンドリーの実際の規則です。ただし弟が嫁を取ったとたんに弟は兄の妻に対する権利を失います。だからそれは、婚資との関係で弟に忍耐を強いる代償としての花嫁使用権のようなものです。
 妻を共有していても、共有のルールにはいろいろあります。牧畜民なので家畜と一緒に移動しますから、妻を残して玉の上に行って数ヶ月間帰ってこないときがあります。兄の妻に対する弟の使用権はそうした兄がいないときだけに限るとか、そういう形でうまく競合を避けています。
 (上野千鶴子『スカートの下の劇場』、河出文庫、1992、pp. 116-117)


ここから上野氏は、男を共有する女性同士のシスターフッドに比べ、女を共有する男同士の「ブラザーフッドは対立的構造を持つ」と結論しています。

そもそもこの直前に氏が論じているところによれば、「女同士の関係でいちばん理想的なタイプの関係は、男を共有した女性との関係」(同書、p. 114)だというのです。

 その逆に、関係した女同士が反目しあうというのは、男による性の分断支配の一番都合のいい形です。女たちが「女部屋」の連帯をなしとげてしまったら、男にとっては一番脅威でしょう。
 シスターフッドがちゃんと確立したら、不倫の果ての愁嘆場などというのもなくなるかもしれません。不倫というのは、いまのところまだ独占型の性愛というのが幅をきかせているから成り立つ概念であって、たとえば妻持ちの男と私が関係を持ったら、その妻と私が、一番理解しあえるような気がします。原理的にはそうなのですが、実行はむずかしそうですけれど。
 (同書、p. 115)


「実行はむずかし」いのであって、そう上手く行くかどうかは別にして、上野氏の理屈は、男性側の理屈からすれば概ね正しいと思われます。
ブラザーフッドが対立するというのも、「忍耐を強いる代償として」弟に「花嫁使用権」を与えるというのも、男性側の問題です。

しかし、女性中心で考えた場合どうかというと、そもそも一妻多夫というのは制度として必要ないのではないか、と思われるのです。

つまり、男の立場からすると、女が他の男と関係を持っていたら生まれた子供が誰の子供が分からなくなってしまうので、女を「自分のもの」として「囲い込んで」おかねばならないのです。
それに対して、女にとって生まれた子供はつねに100%自分の子供です。
男を囲い込む必然性がないのです。

「女が婚外の、場合によっては通りすがりの男の種を受け入れる」という社会習慣ならば、一妻多夫よりもずっと広く存在するのではないでしょうか。日本にもそうした習慣はありました。
先日触れたライトノベル『魔弾の王と戦姫』でオルガが語る「騎馬の民」の習慣という設定も、そうしたことを踏まえているのでしょう。

「しかし、それだと父親のいない子供になるんじゃないか? いまの話を聞くと、父親となる者が全員そこに留まってくれるとは思えないが」
「もちろん、そうして生まれた子はたいていの場合、父を持たない。でも、一族の子として祖父や祖母、叔父やオバにわけへだてなく育てられる。父がいないからといって蔑まれることはない」
 (川口士『魔弾の王と戦姫 11』、KADOKAWA、2015、p. 62)


現代社会において、シングルマザーというのは大変な生き方の代表のように扱われていますが、それは核家族を基準にして「そこから父親を引いたもの」を母子家庭と考え、その場合には母親が両親二人分の責任を背負わねばならない、と考えるからではありますまいか。
子育てが「共同体や親族の皆でやること」と認知されているならば、その数いる「共同体や親族」の中に父親一人がいなくても、負担という点での影響は随分と小さくなるのではないかと。

まあ、すでに機能していない制度や習慣を懐かしんでも始まらないのであって、現代を嘆くのは程々にしておきたいと思いますが、何でも親だけで引き受けるのが「親の責任」だと思うことは、推奨できません。

それはそうと、誰の子供か問題になるのは、家や財産の相続に関する場面ですから、つまるところ事態は相続が男系か女系かにかかっています。
男系と女性の対立は、社会の根本に存在する対立軸の一つなのではないか、と。

この点に関して興味深い話として、京極夏彦氏は『絡新婦の理』の中で、『古事記』の天孫降臨の神話にある一エピソードを「女性原理を男性原理によって読み解いたもの」と見なしています。

『古事記』において、天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘・木花佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と出会い、彼女を娶ることにします。
木花佐久夜毘売は姉の岩長比売(いわながひめ)と一緒に輿入れしてくるのですが、岩長比売の方は醜いからといって返されてしまいます。
その後、木花佐久夜毘売はすぐに子供を身籠もるものの、邇邇芸命は「佐久夜毘賣、一宿(ひとよ)にや妊める」と、自分の子ではないのではないかと疑う。対して木花佐久夜毘売は「吾が妊みし子、もし國つ神〔=佐久夜毘売の地元の神、つまり他の男〕ならば、産むこと幸(さき)くあらじ。もし天つ神〔=邇邇芸命〕の御子ならば、幸くあらむ」といって、家に火を放ってその中で出産する……という物語です。

『絡新婦』における京極堂の解釈によれば、木花佐久夜毘売の側は女系社会の原理で、尊い客人と一夜を共にして種を受け取ればそれでいい、ところが男系社会の邇邇芸命側からすると、娘は嫁にくれなくては困る、ということになります。
大山津見神にとって、姉の岩長比売は跡継ぎなので余所にはやれない、しかし邇邇芸命からすると価値の高い姉を「貰えなかった」のは屈辱なので、――歴史を書き残しているのは邇邇芸命側の立場ですから――貰ったけれど醜かったから返したのだと言い訳をした、というのです。

確かに、火を放ってその中で出産した、というエピソードには、征服民である邇邇芸命と土着民である木花佐久夜毘売との緊張関係がはっきりと窺えます。


――今回はかなり強引に話を締めておきますが、私はかねてから、ハーレムというのはこうした婚姻制度という社会的問題に絡んでくる面があると考えています。
ただ、そうした社会的面を描くことは恋愛と必ずしも相性がいいとは限らない、さらに言えば、そうした大きな社会的な問題は急に話を畳める類の事柄でない、というのがネックになりそうですが。

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一体いかなる方向で「キャラを立てる」のか

今日はあまり時間もないので簡潔に行きますが、先だって『姑獲鳥の夏』の話をしたので、それに関連して少々。
本作における「エキセントリックで強烈なキャラ」である京極堂や榎木津と、深い狂気を孕んだ凡人である関口の差異、そして物語の要もその描き分けにこそあることは、「まともでない/エキセントリック/キャラ立ち」の記事で論じました。

もちろん、表面的なエキセントリックさと深い内面性は決して相反するものではなく、両方を備えることも可能です。

人格の深みと「キャラ」の関係に関しては、過去にキャラ(クター)に関して論じた何本かの記事で色々論じた覚えがありますし、今回長々と繰り返すことはしません。この問題のまとめはまたの機会に。
もしかするとブログの外、実生活の方でこの問題を発表する機会があるかも知れないので、それが実現した際にはまたここにも報告を考えましょう。

さて、『姑獲鳥の夏』による京極夏彦氏のデビューはメフィスト賞創設のきっかけとなったので、京極氏は「第0代メフィスト賞作家」と言われることもあります。
この賞のその後の展開を語るほどに私はメフィスト賞作家を読んではいません。
ただ、良きにつけ悪しきにつけ、清涼院流水氏の登場が残している印象があります。

清涼院氏は、それぞれに(必殺技のような)固有の推理、奇抜な名前etc...の濃厚なキャラ付けを備えた多数の「探偵」が登場する『JDCシリーズ』でデビューしました。
斎藤環氏の『キャラクター精神分析』でも、まさに「キャラクター」という面からエポックメイキングな存在として論じられていました。
ただ私としては、このシリーズが「キャラが魅力」「キャラ人気」と言われるのを見ると、「はて、キャラ立ちとはそういうものだろうか」という疑問があったのも事実です。
今にして思えば、これも上述の区別の問題であって、「キャラ立ち」があまりにも「エキセントリックさ」の方に偏していることへの違和感だったように思います。

エキセントリックさと、人生や生活感の奥行きを備えた人格性と――京極氏の作品は両方について大きな可能性を持っていたのですが、その後、その内の前者のみをもっぱら汲み取った潮流が生じたのではないかということは、時に感じます(私がそれを検証できるほどに関わりのある作品を読んでいないのが難ですが)。

もちろん、割り切ってそれを作風として、魅力あるものを作れるのであれば、悪いことはないのですが。

他方で、後者の奥行きある人格性の方を描きたいのに、「キャラを立てる」道具立てとしてはエキセントリックさの方に頼っているがゆえに、求める味わいが出ず、さりとてエキセントリックな方に振り切ることもできず、何とも物足りない、一応に各登場人物に固有の特徴を持たせて描き分けてはいるもののキャラが立たない――そういう作家もいます。
私の見たところ、どうも扇智史氏(作品に『最終戦争は二学期をもって終了しました』『再生のための創形魔術』等)がそういう難を抱えているように感じられます。

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歴史小説の文法

昨日はまた食事会(あるいは飲み会)でした。
私はそれほど喋るわけでも、アルコールを飲むわけでもないのに、直前に「まだ余裕があります。一人でも多く参加を」と言われるとついつい参加してしまうことが多いですね。
最近は交通費と宴会費が最大の出費になっている気がするので、そろそろ考えねばならないかも知れません。

そんな中、フランス語では subculture と言うとネガティブなイメージなので、culture populaire (ポピュラー文化)の方がいいという指摘を受けました。
しかし、日本語において大衆文学(littérature populaire)はサブカルチャーではないような気がします。

結論: Otaku-culture の代替語はない、ということで。

 ~~~

ところで今更な話ですが、読書メーターなどで他人の『村上海賊の娘』についての感想を見ていて気になったのが、「歴史資料を引用しての解説が多くて取っつきにくい」旨の感想の目立つことでした。
現代の作者の視点から歴史資料を引用しての解説は、歴史小説では割とよくある手法です。司馬遼太郎なんかもっと脱線することもありますよ。
当今、歴史小説というのは(数少ない)人気あるジャンルだと思っていましたが、その歴史小説の手法が馴染まぬ読者が多いとは……?

まあ、馴染まぬ要素があっても「それでも」歴史小説には人気がある理由も同時に存在する、ということも考えられます。
あるいは、手法そのものが馴染まないのではなく、『村上海賊の娘』はかなり詳細に資料を挙げ、原文(当然ながら古文です)そのままの引用が多いのが、エンターテインメントとして軽く楽しめる人物や物語の割に読者の労力を要求するのが問題だったのかも知れません。

『村上海賊の娘』において何が問題だったのかはさておいて、少なくとも、「作者が出てきて作中人物の知らないことを解説する」のは、作品によっては徹底して避けられる手法です。
(だからと言って、本田透氏のようにそれを「タブー」だと思っているのも極端な認識だとは思いますが……)
ただ歴史小説は、基本的に現代語で書かれてはいるものの、時には現代では馴染みのない用語も出てきますし、そもそも後世の視点でなければ知りようもないこともあり得ます。そこを現代の視点から解説するのは、有用であり必要なこともあるでしょう。
それがないと、またそれはそれで面倒なことになるのです。

たとえば歴史小説ではないものの、ライトノベル『マグダラで眠れ』には亜鉛の精錬を行う場面が出てきます。
しかし、亜鉛の精錬法は古代には存在したらしく、その合金である真鍮も作られていましたが、中世には存在しませんでした。
そこで、あとがきにこんな記述があるのです。

 ただ、困ったのは現代の知識をあまり使えないこと。作中で蒸留されている例の金属も、本当は酸化物なのですが、文章上では純粋なもののように記述しています。彼らの知識では知りようもないはずだからです。(……)
 (支倉凍砂『マグダラで眠れ』、アスキー・メディワークス、2012、pp.320-321)


徹底して作中人物の視点にないことは書かず、さりとて読者に不正確な知識を伝えてそのままにしておくのも何なのであとがきで但し書きをした、という印象です。
これはこれで、かなり特殊な形のように思うのですが。

ファンタジーを描くなら、現代人の視点から描ける異世界召還の類が流行るのも、こういう表現の文法的な問題がもしかしたら一因にあるのかも知れません。

ちなみに、『マグダラで眠れ』は、科学史についてはかなり現実のことを精緻に押さえているものの、政治史に関しては少なからず現実と相違がある模様(獣耳というファンタジー要素はまた別にしても、です)。
ただ、その相違がストーリーに影響しているかと言うとそうでもないという独特のバランスで、これもよくあることではないように思いますが、それはまた別の話としておきましょう。


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桃太郎ネタを巡るいくらかの話

日本学術振興会の特別研究員申請は、だいたい今の時期に選考結果が出ます。
しかし、私の申請分野の結果(今年の場合)を見ると、申請者総数の内、

 採用予定者 20%
 面接候補者 5%
 不採用者  75%

くらいになっています。
全部足すと申請者総数になっているということは、「採用予定者」と「面接候補者」は別、したがって前者は面接無しで通過ということになります。
つまり「面接候補」はボーダーライン上ということなのか……

 ~~~

『轟轟戦隊ボウケンジャー』(2006年放送)の第36話に、桃太郎の登場するエピソードがありました。
ボウケンジャーの目的は敵組織を倒すことではなく、古代文明の遺産である「プレシャス」を探索・確保することで、プレシャスを巡って複数の敵組織と争うことになります。
第36話のプレシャスは「山砕きの金棒」であり、その金棒を盗む「鬼」を討伐するために山から送り込まれるのが「桃太郎」でした。
桃太郎の入った桃を拾ってしまったのはボウケンレッド・明石暁とボウケンシルバー・高丘映士。映士が「おじいさん」で暁が「おばあさん」と呼ばれることになります。

赤ん坊から少年の姿に急成長するものの、「鬼と戦うのは怖い」という桃太郎(第一、この度の「鬼」はボウケンジャーの敵であるクエスターで、金棒がなくても強大な力の持ち主です)が勇気を見せる物語は、少年の成長を描いた王道でした。

映士はボウケンジャーの仲間たちを犬・猿・雉ときびだんごに指名、そして「今回はおじいさんとおばあさんもお供する。時代が変わったんだ」と言い放ちます。
ボウケンジャーとしては、他のメンバーがお供なら暁と映士も同行するのが当然ですが、それ以前に育ての親として、子供を一人で危険な戦いに送り出すわけには行かないというのがあったでしょう。


「桃太郎」という童話は英雄物語の一番核の部分だけを伝えていますから、余計な要素はカットされていますし、まして登場人物の心境などという近代的な事柄は問題にすらなり得ません。
しかし、現代の私たちが「桃太郎」を現代的にリライトしようと思えば、戦いに赴く桃太郎の心理や、さらには子供を戦いに送り出すお爺さんとお婆さんの想いを問わないわけにはいかないでしょう。

――人ならざる生まれの桃太郎は、人の世に受け入れられるためには鬼退治という相応の実績を示す必要があったのかも知れません。
――あるいは人里を追われて、やむを得ず出て行った先が鬼退治の度だったのかも……

桃太郎を英雄たらしめる第一のポイントは「桃から生まれた」という特殊な出生ですが、(善良な)人間であるお爺さんとお婆さんに育てられなければ、彼は人間の味方にはなっていなかったかも知れません。

 川の上流から流れてきた桃太郎は、海の向こうの鬼ヶ島に鬼退治に出かける。海をそのまま流れていけば、やはり桃太郎は鬼ヶ島にたどりついたであろうし、桃太郎も鬼も同質の異界の者である。かれが犬やキジと会話が交わせるのは、犬やキジが特殊なのではなく、鬼の仲間としての彼の特殊能力なのである。しかし、桃太郎は川を流れていく途上で、おばあさんに拾われたことで人間の一員となり、鬼の仲間ではなくて敵対者となる。
 (白倉伸一郎『ヒーローと正義』、子どもの未来社、2004、p.184)


だから、お爺さんとお婆さんの存在はやはり重要です。


さて、先日紹介したライトノベル『CtG ―ゼロから育てる電脳少女―』のあとがきに、この作品の当初の構想は「『桃太郎』でとお婆さんが修羅場になる」というネタから発生したものである旨が描かれていました。
つまり、ゲームの世界からこの世に生まれてきた少女ハルハはまさしく「桃太郎」だったわけです。
終盤に彼女が戦うことになるのも、そこから理解できます。
敵も、上述のような意味でのハルハとの同質性を備えた存在でした。

もちろん、こちらの「お爺さん」たちも(上のノートからすると、ハルハの親たる美遙は「桃」なのかも知れませんが)、子供を危険な戦いに送り込んで自分たちは見ているだけ、という立場に甘んじることができるはずはありません。
それは確かに親子の関係というものを問い質す一つの場面ではあります。
また、桃太郎という「特別な生まれ」の存在だからといって戦わなければいけないという運命は当然でもないし、戦えるとも限らないという話になれば(この要素は上述の『ボウケンジャー』にもありました)、それは英雄の立場を問い直すにも十分な力を持ちます。

ただ、『CtG』に関しては、それでもなおテーマ的な相応しさに関して疑問を感じる部分はありました。
ハルハは無邪気で、その分両親や、自分と両親との楽しい時間を害するものには攻撃を躊躇わないといった、倫理面ではまだきわめて未成熟なところを見せていました。
そんな子供を「戦って敵を倒して当然の世界」に送り込むことの問題は、親が加勢したからといって払拭されるものではありません。
つまるところ、問題はゲームの倫理と現実の倫理の違いです。たとえばゲームをクリアする時にはいちいちNPCの命のことまで気に懸けないのが普通ですが、現実ではそういうわけには行きません。
この問題を「ゲームの世界では壺は割るもの」といったありがちネタに縮小してしまうのは、物足りなく思います。
そういう意味でも、クライマックスに戦いを持ってくるのが相応しかったのか、と思ってしまうのです。

まあ、この作品はまだまだ続きがあるはずなので、ハルハの倫理面での成長とそれを巡る親の悩みは次巻以降に期待しましょう。

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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
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