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コミュニケーションの男女差かそれとも……

何やらお久しぶりです。見てみると1年半ぶりの更新です。
こんな久々に更新して誰か読むのかどうか分かりませんが、まあどっちでもいいでしょう。
博士論文の執筆とかいろいろあって忙しいのは事実です。

最近はこんな本を読みました。



上野千鶴子氏はなんだかんだで面白い、納得できるフェミニズムの論者であると思います。
が、今回はその暇もないので書評はやりません。
とある一節を取り上げさせていただきます。

 男にとって女の最大の役割は、自尊心のお守り役である。どんな女にもモテる秘訣がある。それは男のプライドをけっして傷つけず、何度もくりかえし聞かされる自慢話にも飽きずに耳を傾け、斜め四五度から見上げるようにして、「すごいわね、あなた」と子守歌のように囁きつづけることだ。疑うなら、やってみるといい。第三者にはとうてい「すごい」と思えない男なら、こう付け加えればよい、「あなたのすばらしさがわかるのは、わたしだけよ」ってね。そしてもうひとつ、「あならがわたしのたったひとりの男よ」を付け加えれば完璧だ。
 (上野千鶴子『女ぎらい ニッポンのミソジニー』、朝日文庫、2018、pp. 73-74)


言わんとすることはとてもよく分かります。女性に話を聞いて「すごーい」と言ってもらえば嬉しくないわけはありますまい、それは自分で考えても分かります。


しかし――ふと振り変えると、逆に男性向けの「女性と話す時の注意」といった題目の下に下記のような指南を見ることも多いのです。

女性は「理解」ではなく「共感」を求めます。
女性の話に理屈で答えようとしてはいけません。
女性の話に対してはまずじっと耳を傾け、ただ「うんうん」と共感して見せましょう。

相手を持ち上げて自尊心を維持するのか、それとも共感を示すのかの差はあれど、「大事なのは真面目に内容を聞いて答えることではなく、相手を気分良くさせることだ」という点では共通しています。

この手の話は――その理由をどこに求めるにせよ、つまり生得的と言うにせよ社会系に形成されたものと言うにせよ――「男と女はこんなに違います」、「ですから男性のあなたは女性の気持ちが分かっていないでしょうが」といった前置きから始まりますが、こうして見ると、「相手を気分良くさせてやるのが一番無難なやり方だ」ということに何の男女差があろうかと言いたくなります。

もっと言えば、「理屈で答えようとしてはいけない」のではなく、「できない」のではありますまいか。

内心で「何を言ってるんだコイツは、そんな話どうでもいいわ」と思っていたら、無理に真面目に答えようとしても頓珍漢な応答になるのは目に見えています。
そうであるならば、無理なことはせずにただ相手を気分良くさせるのが最善手でしょう。

そして、世の人の大半の会話がそんなものであることも、おそらく事実です。
だから、それでいいのです。


――ただし!!

上野氏は同書の中でこうも書いています。

〔……〕コミュニケーション・スキルや能力というものはたしかに学習や経験によって身につくが、だからといって、他の資源のように計量したり、蓄積したりできるものではない。そして対人関係というものが相手によって変化するように、万人向けのコミュニケーション・スキルがあるわけではない。
 〔……〕
 だが、地位の序列をともなうような対人関係は定型的なものである。三浦〔展〕自身が指摘するように、今日のようにコミュニケーション力が問われるようになったのは、定型かされない人間関係が(家族や男女のあいだでさえ!)増加したからであろう。
 (同書、pp. 79-80)


文脈からするとこれは「もてない男」に対して「コミュニケーション・スキルを磨け」と言ったことの説明なので、もっぱら標的は男性なのかもしれませんが、しかしそう限定する理由のある話でもないはずです。


実際、上の引用でも氏は女が「モテる秘訣」と書いていました。
「モテる」というのは多数の異性に好まれることではあっても、誰にでもとはいきません(当たり前ですが)。

そもそも、氏は「今の(近代的な家父長制が成立して以降の)社会で男女とはどのような形で規定されているか」を論じているのですから、その限りで一般論の形を取るのは自然なことです。でもそれは万能の「コミュニケーションの秘訣」ではありません。
それに対して、一般的な「コミュニケーションの指南」として上記のような言説が出回ることに、違和感がないと言えば嘘になります。


おだてたり共感して見せたりする相槌を打って、それで満足してくれる人間ばかりだとは限りません。
「こういう時にはこうするんだよ」という、定型的で万能の処方箋を求めること自体がコミュニケーションに対する捉え方の貧しさではないかと思うのは、私のようなコミュニケーション下手の杞憂であればいいのですが。

ただ一つ言いたいのは、人の話に相槌だけ打って聞き流す癖を付けていて、肝心なことを聞き逃しても私は知らないぞ、と。


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文芸批評と本質論

碩学・井筒俊彦によれば、「個別的本質」と「普遍的本質」の区別イスラーム哲学の基本、イスラームにおいてはいやしくも哲学者たるものこの両者を混同する過ちを犯してはならない、と言います。
「本質」とは「何であるか」の答え、あるものをそのものたらしているもの、と言えるでしょう。
そして、たとえば(井筒も挙げる)「花」の例で言うと、「個別的本質」とは「この花」の本質であり、「普遍的本質」とはタンポポもバラもユリもひっくるめた「花」全般の本質です。

(なお、「そもそも“本質”など存在しない」という立場もありますが、その場合にしても「そもそもどんな“本質”について“存在しない”と言っているのか」は問題になります。そして、以下で問題にする話題においては、多くの論者がまさに「本質論」としか言いようのないものを展開しているのであって、そのこと自体が正当かどうかは、脇に置いておきます)



さて――と、そこで私は考えます。
文芸批評において、「文芸というものの本質」あるいは「あるジャンル(たとえばライトノベル)の本質」と、「この作品の本質」を区別できている人は、どの程度いるのでしょうか。
それどころか、まず総論として「文芸とは何か」「当該ジャンルとは何か」「物語とは何か」を論じた後、いわば「ケーススタディ」として「個別の作品を分析してみよう」という展開の批評書をしばしば目にします(あえて名指しする必要はありますまい)。まるでそれが「きちんとした」「学問的」スタイルであるかのように!

もちろん、総論が個別の作品分析に当たって導きの糸となる可能性をただちに全否定はできません。
しかし、全ての作品を同じ切り口で切ることで本当に個々の作品の魅力を取り出せるのか、ましてや古今東西(名作から駄作まで)ありとあらゆる作品に共通するような「普遍的特性」を論じることが個々の作品の特徴を露わにするに当たってどう寄与するのか――そういう疑問を抱かないのだろうか、と思います。
さらに、「どんな作品についても言えること」を個々の作品に適用していくのは、ともすれば「何でもかんでも(強引にであっても)当てはめて回るゲーム」に堕してしまう恐れさえあります。

「ストーリーとキャラどちらが重要か」といった類の議論も、この点の混同に起因しているように思われます。
「ストーリーとは何か」「キャラとは何か」「(一般論として)両者は作品に対してどのような地位を占めるのか」と、「この作品においてストーリーとキャラどちらが本質的か」では、別問題でしょう。

中世以来のイスラーム哲学における基本が理解されていないということは、文芸批評はイスラーム哲学より1000年遅れている、ということです。
しかし、それも驚くには当たらないのかも知れません。
イスラーム世界はムハンマド以来アラビア語で連綿を著述を続けてきた歴史があり、「イスラーム哲学」に限っても中世以来1000年以上の歴史があるからです(そして、現在でも生きています)。
対して、「批評」に該当する活動は古くからあったかも知れませんが、そこに途切れることのない歴史があるかどうか、疑う余地は十分です。要するに文芸批評とは、(少なくとも現代日本で見られるそれの多くは)近代的な出来星の分野ではありますまいか。歴史に1000年の差があれば、後発の方が1000年遅れていても不思議はありません。

しかし――私はもちろん、「個別的本質」と「普遍的本質」の区別というのは、普遍的な説得力を持ちうる話だと思ってここまでを書いています。上では井筒という権威に依拠する形になってしまいましたが、そこはそれ、権威に頼らずとも論じられることです。「花一般を花たらしめるもの」と「この花をこの花たらしめるもの」では、違うでしょう。
が、それがただちにどこででも理解されるものかどうかは、少し話が別。上述のように「まず何らかの普遍的本質を論じ、ついで――前半からシームレスに繋がって――個別の作品分析を行う」スタイルの批評本が多く通用しているということは、文芸批評の世界ではそれが「正しい」ということかも知れません。
私のような者が「いやしかし、その根底にある論理はどうなんだ」と異議を唱えても、「そんなことをごちゃごちゃ言うより、一つでも多くの作品を読んで資料を増やすべき」と言われるかも知れません。
業界ルールあるいは慣例が優先するというのも、よくあることです。

だから私は、いわゆる学問性の基準というやつが普遍的なのかどうか、疑っています。
学際的な研究というやつの難しさもここにあります。
ある分野でその分野の基準に従った研究を重ね、他の分野でも同様にして、二つを合わせればいい――とは限らないのです。
一方の基準で「きちんとした」研究は、他方の基準では評価されないことがありうるのです。

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本を「読む」とは何か

そう言えば、今年度の『このライトノベルがすごい!』は例年通りの投票の他に、「どんなジャンルのライトノベルが読みたいか」「紙と電子書籍どちらか良いか」等のアンケートも付いていました(結果発表は巻末の総括の所に)。

私としては実のところ、前者の質問に関しては、「あまりライトノベルで流行っていないジャンルが出てきても、クオリティに期待できるかどうかは分からない」という思いがありました。私と同様に考えた人がどれくらいいるのか分かりませんが、だからこの手おアンケートで「ファンタジー」のような流行りのジャンルがなおも人気であっても、「まだこれが求められている」「飽きられていない」と考えるのは早計だということです。
そして、後者に関しては当然、私は紙推しです。
電子書籍は読みにくいし、不便だから……と言うと、下記のような記事がありました。

 まだ電子書籍で消耗してるの?--電子書籍が嫌われる3つの理由を考えてみた

この記事の著者は、「読みにくい」理由を「液晶画面は目が疲れるから」ということに見出し、液晶ではなく「電子ペーパー」ならばその問題を解消できるのではないか(電子ペーパーが目に優しいかどうか、結論は出ていないと断りつつ)、と述べています。
ところが問題は、この後。

 あと、液晶と比べた決定的な弱点は、表示・反応速度が少し遅いこと。タッチ操作に一瞬遅れて画面が切り替わったりするので、マンガなど、ページ送りを頻繁にするようなコンテンツには向いていないといえます。


表示が遅いものをどうやって“読む”のか、と激怒しそうになりましたが、まあここで画面に向かって怒鳴っても始まりません。
この続きを見ると、どうもこの著者は、単に順番通りにページを繰って進んでいくことを「読む」ことだと考えているようです。

 ただし、文芸、評論など、文字ものを読むときは、この「鈍重」さが逆に功を奏する感じもあります。スマートフォンなどと違って、SNSやゲームなどができないのも美点です。


私に言わせれば、「文芸、評論など、文字ものを読むとき」こそ、前に戻って確認したりすることがあるので、ページを繰る頻度は上がります(下線を引いたり書き込みをしたりという可能性を考えた場合、電子書籍はさらに根本的な問題を抱えていますが、それを度外視しても、です)。
0.3秒で100ページでも200ページでもめくることができ、特定のタームが載っているかどうかを確認数だけなら1秒に5ページくらいのペースで目を通すことができる、これは必要条件です(本の装丁や文字組みによって数値に多少の差異はありますが)。
前者の「多くのページを移動する」ことに関しては、電子書籍のスクロールバーでも可能ですが、手先でページを繰る感覚は、スクロールバーよりもはるかに精妙です。ページを開いて手で持った時の感覚で、どのくらい読み進めたかもすぐに分かります。
上の記事では「慣れ」も問題にしていますが、これは明確な利便性の問題であって、「慣れ」だけではありません。

これは私が学術書基準で考えているせいかも知れませんが、少なくともそういう入念な読みに馴染みのある人は少なくはないわけで、論文はWEB上でオープンアクセスになっていても、印刷しなければ読む気にならないという人はたくさんいます。

こういうことを言うと、「紙だって歴史的にはそう古いものではなく、それ以前には羊皮紙等が使われていた。紙もまた新しいものに取って代わられるのは当然だ」といった主張により、紙にこだわる私のような者が「守旧派」だと見なされることがありますが、そうした議論は全て電子書籍が「新しい」ことを前提しています。
しかし、上述のように、紙の綴じ本を「めくる」ことの利点をわざわざ手放すのは逆行であって、少しも「新しく」はありません。スクロールバーを見ていると、巻物を思い出してしまうのですが。
そもそも、しつこいようですが、電子書籍の購入というのは閲覧権を買うだけで、出版社が引き上げてしまえば読めなくなります。
これでは、本を量産することで多くの人が本を「所有する」ことができるようになった活版印刷以前への退行ではありませんか。
グーテンベルグの革命の意味は、未だ理解されていないと実感する次第です。

これで改めて思ったのですが、「読む」と言いつつ紙面を「眺めて」いるだけの人が結構いるように思われます。

だから、「活字離れは起きているか否か」といった議論は、根本的に無意味なのでしょう。
ある人が本を「読んでいる」かどうかなんて、客観的に確認できることではありませんから。
いや、仮に一人の人については検証可能だったとしても、大量の人について調査して統計を取るのは無理です。

まあ、とりあえず電子ペーパーの電子書籍端末など買わなくて本当に良かった、と分かっただけで収穫としましょうか。

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転生考

特定作品の話をしようかと思っていましたが、気が変わりました。

今や、ライトノベル(文庫サイズではない単行本作品も多いのですが)において「異世界」は過飽和と言ってもいいくらいの量産ぶりを見せています。
これは「小説家になろう」系のWEB作品によるところが大です。
該当するモチーフそのものは新しくないとは言え、タイトルからして「異世界」を関したものが目立ちます。内容はともかく、いささかタイトルの時点で見飽きた印象があるというか、工夫がないというか……

そして、(編集者による煽り文句は別にして)タイトルからして「異世界」の名を冠するというのはほとんどの場合、現代世界に生きる主人公が異世界に召喚される・もしくは転生する話です。
つまり、現代世界から見ての「異」世界ということです。

ここまでの論理は一見明晰なようですが、よく考えると疑問はあります。
「異」世界とは、一体“どこに”あるのでしょうか。
多くの場合、魔法の類が存在していますが、それ以外の物理法則や生物はほとんど変わらず、人間は「この(われわれの)世界」の人間と同じのようです。
ということは、並行世界のようなものをイメージしているのかも知れませんが、多くの場合そうしたことは全く問題になりませんし、多くの点が「この世界」と同じであることに作中人物が驚いたり疑問を抱いたりすることも稀です。
しかし、少なくとも読者と、異世界に召喚されるもしくは転生した主人公は、「この世界」と「異世界」をまとめて見る視点を得ているわけです。二つの世界を一まとめに包括して一つの「世界」と呼んではなぜいけないのか。「世界」概念は何をもって画定されているのかは、甚だ不明瞭なままです(この辺は『涼宮ハルヒ』関連で言った覚えがあります)。

それはそうと、「召喚」と「転生」の違いはやはり、「転生」の場合、

1) 元の世界とは別の身体を得る
2) 物品を直接は持ち込みえない
3) 一度死んでから転生しているので、「元の世界に戻る」ことは問題になりえない

といったところでしょうか。3)は、最初から主人公の異世界での活躍を主題としている話において、「帰る方法があるのか」云々といったことを問題にしなくて済む、というメリットがあります(作品においては、余計な問いを立てないことも大切です)。
他方で「召喚」の場合、召喚される側の都合を考えずに呼び出す傍迷惑な奴として召喚者を描き、それに物申す(場合によってはぶちのめす)ことが主題になる場合もままあります。
(思えば、竹本泉氏の漫画『ねこめ~わく』は、まさに召喚される側の被る迷惑という点に目を付けた先駆的な作品の一つだったわけですが)

しかし、そもそも「転生」というのは真面目に考え出すと、転生先で異世界であるか否か以前に、様々な疑問を喚起します。

「前世の記憶を持つ」人はいつ頃から、どれくらいはっきりした形でその記憶を持っていたのでしょうか。
生まれた時から前世の記憶と人格をはっきり持っていた場合、その状態で乳を吸い糞尿垂れ流しの赤ん坊として過ごすというのは想像を絶するくらいに不自然なことのように思われます。一体どうなってしまうのか……

その点をさておいたとして、次に気になるのは言葉の問題です。
人間は6歳くらいまでが言語習得の臨界期と言われ、聞いていることで自然と言語を習得できるとされています。裏を返せば、成長してからの言語習得は、幼児と同じようには行きません。文法を学び、頭から入る必要があります。(「赤ちゃんは自然に言葉を学びます。外国語学習は自然に慣れればいいのです」といった類の謳い文句は、楽をしたい心理につけ込んで商売をするための嘘です)
果たして、前世での言語を習得している転生者は、自然に「異世界」の言葉を覚えることができるでしょうか。それは困難なように思われます。

そもそも、異世界の言語というのがどうなっているのかというと、「召喚」ものにおいては主として以下のパターンがあります。

1. (なぜか)異世界でも日本語を使っている
2. 召喚された人物には異世界の言葉を分かるようになる何らかの補助が働く
3. そもそも異世界では翻訳魔法の類が一般的に使われている

そもそも異世界とは何なのか、という最初の問題をクリアして、「異世界」が「この世界」にかくも酷似していることを認めるのであれば、あながち1.をご都合主義として退けることもできないでしょう(なお中には、「異世界」で日本語を使っている理由が存在する作品もあります)。
「転生」ものにおいては多くの場合、その世界で生まれ育った主人公は当然その世界の言葉を習得しているはず、と思うのか、言葉のことは問題にならない率が高いのですが、上述のような臨界期の問題を考えると、疑問は生じます。

他方で、ある程度成長してから「前世の記憶を思い出す」場合もあります。
この場合、そもそも私達が記憶を持ち得ない乳幼児期の問題はより自然にクリアできます。
ただ、ある時期(大抵の場合、幼い子供)に突然、前世(ある程度長い年月を生きた大人)の記憶と人格が完全な形で蘇るというのは、いかなる事態でしょうか。
それは「その“異世界”に生まれた子供の身体と精神を、突然別人格が乗っ取る」ことに近いのではないでしょうか。

いや、その限りではないのかも知れません。
確かに経験と記憶の蓄積は人格を形作り、それにより人というのは日々変化している(とりわけ幼少時には)ものですが、もしかしたら人格の内には、そうした経験的要素に左右されない部分も、あるのかも知れません。同じ環境で育った双子でも、しばしば性格が違っているのは事実ですから。
哲学者ベルクソンの曰く、「スピノザがデカルトよりも前に生きていたら、彼はきっと実際に書いたのとは別のものを書いたでしょうが、しかしスピノザが生きて書くならば、われわれはスピノザ主義をそっくりそのまま得ることは確実です」(「哲学的直観」『思想と動くもの』所収)。

こういうことを真面目に考え出すと、それはそれだけ一つの作品が書けるような独自の問題系に通じていることを、私は否定しません。そして、話の趣旨によっては、そういう問題に付き合いすぎない方がいいことも。
ただ、考えようと思えば考える余地があることは事実です。


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何にコストと力を注ぐべきか

例年通り、昨年末にも岐阜県飛騨高山市に行ってきたのですが(「こんな気象は初めて」参照)、毎年行っていながら今更のように気付いたことがあります。
やはりあの辺、今や斜陽産業とは言え、林業地域なのですね。

町中(と言っても、田や林の目立つ中にぽつぽつと民家があるだけで、商店はほとんど見当たらないような町ですが)に製材所がありますし、軒下に薪を積んでいる家が結構見られます。
まあ、建物自体は時とともにかなり建て替えられているはずで、薪を使う窯(?)が生きているところがそんなにあるのか、と思いますが、実際に薪を積んでいるということは、あるのでしょう。
製材所が隣にあれば、廃材はかなり安く手に入りそうな気がしますし、そういう活用ができていれば素晴らしいんですが、どうなんでしょうか。

ああいう場所に実際に住むとなると問題は、買い出しに車が必要なことですが……

森林面積の減少やら何やらが問題になっている中、日本の森は高い再生能力を持っていることで有名です。
それを活かし、資源を守り育てて行くことは大切ですが、そのために専門家が知見を動員し、行政が経費を費やすという形になっているとは思われず、林業者の高齢化が問題になっています。

伊勢神宮は20年に一度遷宮を行い、100年後の遷宮に備えて建材を準備するべく木を植えています。それが優れた「伝統」です。
「日本の伝統」を掲げる人で植林と緑化を主張する人をあまり聞かないのは不思議なことです。

 ~~~

気が付けば、小保方晴子氏によるSTAP細胞についての論文が『ネイチャー』に掲載されてからほぼ2年が経とうとしています。
その間に、この論文の捏造問題は、当該論文の撤回に留まらず、上司の笹井芳樹氏の自殺、そして小保方氏の博士号取り消しにまでどんどん話が波及していきました。

この件について今更多くを語りたいとは思いません。
ただ、こんな論文を載せてしまった『ネイチャー』のいい加減さを責めたいかと言うと、必ずしもそうは思いません。
「杜撰でない」査読を通った、「問題のない」「きちんとした」論文であろうと、ほとんど読まれずに埋もれていく学術論文が世に溢れているのです。それらの論文はたとえ内容に間違いや嘘はなかろうと、価値も乏しいものです。
逆に冗談が真面目な議論に発展することもあります。
たまには胡散臭いものが載ったって、いいじゃないですか。

別に私は、学問とは元来当てにならないものだとか、だから私の論文の査読も甘くしろとか言いたいわけではありません。
ただ、「編集者と査読者がきちんとしていれば捏造や盗用は見破って当然」というのはおそらく求めすぎでしょうし、「学会誌に載った」こと自体の意味は限られていると言っているだけです。

――とは言うものの、ここにある種の「商売の問題」が感じられるという問題はあります。
『ネイチャー』というのは商業誌で、とにかく購読料が高いのです。私も興味を持った記事を調べてみたことがありますが(電子版は記事ごとに分割購読できます)、十数ページの記事で1本で3000円以上します。まして雑誌丸ごと定期購読したら、いくらかかるのでしょう。
多くの人は大学の経費による購入に頼っていますが、高すぎて購読を取りやめる大学も増えているとか。
論文のオープンアクセス化も増えている当今、今はまだ権威を持っている『ネイチャー』ですが、今後はどうなるか分かりません。

そして、『ネイチャー』編集者の思惑を究極的には知る由もありませんが、「流行りのテーマを載せれば売れるから」という考えがなかったのかどうか、ということです。
万能細胞というのは、それが本物ならば非常に役に立つことが具体的に分かっているので(再生医療)、人気はあり注目度も高い分野です。
でも、だから……という商売っ気が研究の思惑に入ってくるのは、単にいい加減なのとは別の問題を含みます。
もちろん、これは小保方サイドについても指摘できます。

つまるところ、流行りの分野で成果を上げれば儲かる……ということばら、成果の一つも捏造したくなるのは、ありそうなことではありますまいか。

大学の文系学部の縮小・廃止という話題に関しても、当の文系分野の関係者が反対しても、「自分の利権を守るためだろう」と思われがちです。
私自身、「文系の学問はこんなに役に立つ」などと声高に言いたくはありません。
しかし、これだけは言っておきたい――特定分野への「重点化」というのはつまり、すぐに役に立つことが分かっている分野、流行りの分野に金を出すということであって、それは結局、第二第三の小保方を生むべく経費を注ぐことなのだが、それでいいのか、と。

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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
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