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ゲームではなく、各自が自分で考えて生きている現実で――『お前みたいなヒロインがいてたまるか! 3』

またまたお久しぶりですが……
今回取り上げる小説はこちら、アリアンローズの『お前みたいなヒロインがいてたまるか!』3巻です。



 (前巻の記事

さて、本作のWEB版の方は、最近完結したようです(最終回となる148話が2016年10月22日更新。ただし第84~90話と第92話は1話が複数に分かれており、さらに第94.5話があるので、合計160話。また後日譚となる番外編は12月現在も連載中)。
単行本版は2巻が第46話までの収録だったので、この調子だとまだまだ長いかと思いきや、今回3巻はなんと一気に第96話までを収録。
内容的には、ちょうど中等部編3年間を丸々収録した形になります。むしろ内容的にもそれがキリがいいから、ということでこうなったのしょうか。
もちろん、WEB連載1回の字数は特に決まっていないので、話数と字数は必ずしも比例しないのですが、やはりかなりの改稿と圧縮があった模様。この調子だと残り50話ほど――高等部編――が4巻で完結でしょうか。

3巻目にして今更説明する必要もないかと思いますが、本作は今や「小説家になろう」の女性向け作品では定番となった「乙女ゲームの悪役令嬢に転生した」主人公の話であり、しかも作品世界はファンタジーではなく、やはり現代日本の世界です。歴史とか基の世界とどれくらい一致しているのか、細かいことを考え出すと色々気にはなりますが……
とにかく、もはや「悪役令嬢転生もの」としてジャンル名すら確立されている世界ですが、その中で何に注目するかは様々(もちろん、こういうヴァリエーションの付け方がある意味で限られた世界での差別化であることは事実ですが)。
本作の場合、やはりポイントはゲームと現実の違い、でしょう。

ゲームの登場人物は(モノによっては膨大な数の登場人物が設定されていることもありますが)数に限りがありますし、いつどこでどんなイベントが起こるかも決まっています。それに対して、本作の舞台は登場人物や設定がいかにゲームに近かろうと現実の世界であり、プレイヤーとNPCの区別もなく、そこにいる人間たちは皆自分で考えて生きています。

何しろ、本作の主人公・椿がゲームだと死ぬはずだった母親を救うと、その母親が再婚してしまいます。
再婚相手の朝比奈薫やその一族など、ゲームには登場しません。
さらに再婚で従姉妹となった八雲杏奈(義父となった朝比奈薫の妹の娘)は椿と同じ転生者であり、はとこでドイツ人のレオン・グロスクロイツ(薫の母がドイツ人で、その一族)は小学生時代に椿に惚れて、さかんにアプローチを繰り返してきます。
ここは現実の世界、相手の男はゲームでの攻略キャラに限ることはないのだ、と言わんばかりに。

ちなみに、今回3巻では新たにゲームでの攻略キャラも2人登場、ある程度の役割は果たしますが、どちらかというと影は薄め。
ゲームの攻略キャラだからといって重要な役割だとは限らない、製作者によってあらかじめ役割を与えられているゲームとは違うのです。

そんな「生きた人間たち」の中であえて悪役を演じたりすることで上手く人間関係を操作して、自分の地位を築いていくのが主人公たる椿の戦いとなります。
その点、彼女は前世がアラサーのOLだけに経験値が段違い、ある種のチートです。

対して、ゲームでのヒロインでありやはり転生者の立花美緒は、その辺が分かっていません。
すでにゲームとは違っている点があることも、必ずゲーム通りにイベントが起きるわけでないことも理解しておらず、しかも自分にはヒロイン補正があると信じています。

そんな美緒が中等部から入学、どんなにすげなく扱われても恭介が自分に惚れるものと信じてアタックを繰り返してきます。
女性に対して強く出られない恭介の性格も災いすることに。

――とはいえ、裏を返せば美緒は幼稚な人物なので、「厄介なライバル」にはなり得ません。
そもそも、彼女にヒロイン補正があって恭介が一目惚れしたりするわけでもないと判明した時点で、――そして美緒のような強引なタイプは恭介の好みでもないので――恭介と美緒が結ばれて、避けたい事態(椿の母親に対抗心を持っている美緒の母親が水嶋家に権力を持ち、椿と母親が嫌がらせを受ける)に陥る可能性は、ほぼなくなっているわけです。

だから本作は「強敵と戦って窮状をどう乗り切るか」という流れにはなりません。
どちらかというと前巻(2巻)で、美緒の母親に対し椿が(子供の天然発言と見せかけて)痛烈な言葉を浴びせた場面の方が、「嫌な奴をやっつける」痛快さはあったかも知れません。

ただ、親の権力を笠に着て取り巻きを作っている美緒はしばしば他の女生徒に嫌がらせや脅しを働きます。
親の権力で勝っている椿自身は問題ないのですが、無関係の女生徒や椿の友人が被害を受ければ、さすがに放ってもおけず。今後のことまで計算に入れて、どう解決を図っていくか……それが今回椿の直面する主な問題になります。

加えて、ゲームと違って現実には「こうすればクリア」という決まりもありません。とりわけ、諦めない相手を諦めさせるくらい難しいことはありません。
その辺の先の見えなさが苦しいところではあります。

そんな中で良かったのは、恭介が意思表示を見せたことでしょうか。
前巻から、(家柄と容姿と…その他すべて揃っているために)女子たちにはよく付きまとわれて、強く出ることができないのであしらいきれず、困ったら従姉妹である椿のところに逃げてきている節のあった恭介。
こんなに頼りなくて大丈夫か、と思いましたが、それがようやく意思表示を…というのはそれなりの感慨があります。

さらに、終盤で椿が嫌がらせで実害を受けて、友人たち皆が集まって怒り、行動を起こす場面も胸が熱くなるものがあります。
人を見下す悪役を演じている椿と、他人に警戒心が強い恭介。どちらも友人は多くなく、しばしば「お前は友達少ないだろう」と喧嘩しては両者ともにダメージを受けている始末ですが、数よりも質で確かな友情を築いていたんだな、と実感させてくれます。

それから、上述のレオンとの関係。
レオンのアプローチは積極的で、さらには椿が恭介に「売られた」格好で無理矢理レオンと会うようセッティングされたりしていたのですが……椿としてもレオンは嫌いではないものの、恭介と美緒に関する問題を解決するまでは自分の恋愛をする気はなく、どう扱おうか困っていた状態。
そんな中、恭介と椿が表向き婚約者となっていることを知られて、一時関係が悪化……といった展開を経て、椿とレオンの関係も少しは進展した感あり、というべきでしょうか。
レオンはその諦めの悪さも含めてなかなかいいキャラをしている男の子なので、頑張ってもらいましょう。

結局、恭介が両想いとなって結ばれる相手が見つかれば一つの「落としどころ」になり、椿も自分の恋愛でも何でもできるはずです。
その「相手」の布石は少しだけ見えてきていますが……はてさて、次巻の高等部編ではどうなることやら。
そして、美緒との戦いはまだ続くのでしょうか。

ちょっと引っ掛かったのは、朝比奈家の使用人にして養護教諭で、学内における椿たちの警護の命を受けている護谷晃(もりや あきら)の存在ですね。
彼は、実は朝比奈の血を引く「お嬢様」たる杏奈にしか忠誠心はなく、連れ子である椿のことは警護対象とも思っていないという癖のある人物だったのですが、今回は終盤まであまり活躍はなく……少なくとも、なんだかんだで椿にとってマイナスになるような動きをしたりはしませんでした、今までのところ。
わざわざ番外編で朝比奈家使用人の不破佳澄が護谷晃に苦言を呈する話まで書かれただけに、これが今後も何か話に関わってくるのか、気になるところです。

上述の通り、次巻辺りで完結しそうな気もしますが、楽しみに待ちましょう。
皆いいキャラ揃いで、会話も楽しく、個人的には割と気に入りです。
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なぜそんな話に帰着してしまう!?

グレッグ・イーガンと言えば、現代を代表するSF作家の一人です。
個人的には、とりわけ彼の短編には衝撃的なものが多かったのを覚えています。

たとえば「しあわせの理由」(同名の短編集に収録)は、少年時代に脳の腫瘍を治療すると同時に、まったく幸福感を感じられなくなってしまった青年の物語。
彼は幸福感を取り戻すため、脳内物質の操作による治療を受けるのですが、幸福も好みも脳内物質次第だとしたら、自分とは何なのか? という問いを投げかけてきます。



あるいは「ぼくになることを」(『祈りの海』収録)は、人格を含めた脳の機能を完全に複製する「宝石」を脳に埋め込むことが当然となった世界の物語。やがて老いて脳細胞が死んでいく脳から人格を完全に「宝石」に移し換えることで、不老不死すら達成できるのですが、やがて生体組織の組織を摘出して、すっかり宝石に入れ替わった時、それでも自分は自分なのか? という



このようにアイデンティティの問いに貫かれているイーガン作品ですが、今の私ならば、これはそもそも問いの立て方に問題があるのではないか、と問い返すこともできます。
つまり、そもそも人格を複製できるという前提から話しを始めるから、そういうことが問題になるのではないか、と。
しかし、仮に人格が物質としての脳の機能だと考えたところで、物質の状態ならば完全複製できるというのは本当か、ことはそれほど自明とは思えません。

それでも、イーガンの作品は強いインパクトを与える鋭さを持っていました。

――が、「祈りの海」(同名の短編集に収録)は正直なところ、つまらないと思いました。

「祈りの海」は、地球ではない異星が舞台です。
この短編の主題はつまるところ、宗教です。
舞台となる星の人間は皆、ある宗教的儀礼を行う習慣があります。その儀礼で喩えようもない多幸感を体験し、主人公を含む誰もが「これぞ神の御業」と信じていたわけですが、それがある時、微生物の分泌物による作用と判明。それじゃあ信じていたものは何だったのか、となるわけです。

……
この話は以下のような論法に基づいています。

(1) 多幸感を感じることから、その原因として神があるに違いないと考えていた。
(2) その多幸感が神なしで説明できると分かったならば、神は否定されるのではないか。

さらに突き詰めてみると、(1)のさらなる前提は結局、「多幸感のような一時的な心理状態こそ宗教の要であり、それを得ることこそ宗教的実践の目的である」というものでしょう。

が、考えてもみましょう。
たとえば、スポーツをすると疲れます。辛さもあります。しかし、達成感もあります。
では、疲れと達成感といった心理状態を脳内物質の操作によって再現できるようになれば、スポーツはもう必要なくなるのでしょうか。
スポーツ好きならば、そんなのはお話にならないと言うでしょう。
これは、「疲れと達成感」のような一時的な状態こそがスポーツの存在意義だと考える前提に問題があるからです。スポーツにおいて問題なのは過程です。その過程のあり方によって、様々な競技が分かれているのですから。
「祈りの海」の宗教観はこれと同じです。

そもそも、一時的な心理状態に限って言えば、いくら「神を体験した」と思ってもまやかしでもありうることは、古今の宗教家も説いてきたことではありますまいか。
「化学物質」という知識を挟んだところで事態に何の進展があるというのか、甚だ疑問です。

まあ、あらゆる宗教が一つの本質に合流するといえるほど、宗教が単純ではないのは事実。
一時的な状態を重視する宗教もあるかもしれません。
そして、宗教観が合おうが合うまいが、小説として面白いものはあります。

問題は――
「祈りの海」の主役の異星人たちは、地球人とは異なる独自の生態を持っています。何しろ、セックスすると男から女に性器が移って性別が入れ替わるのです。
そうした、独自の面白そうな設定がありながら、「その設定でこそできること」を掘り下げず、凡庸な問いを投げかけて終わり――これにがっかりしないでいることは難しいことでした。

イーガンの長編は2,3編しか読んでいませんが、同じような傾向を感じることがないではありませんでした。

何も問題はイーガンに限りません。
「その設定でこそできること」を活かさないで凡庸な問いに帰着してしまうのは、駄作の黄金パターンです。

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おぞましき自己の全重量――『いもーとらいふ 〈下〉』

先週末は学会で東京に行って来ました。
8日金曜日はベルクソン哲学研究会(※)、9日土曜日は日仏哲学会と立て続けです。

※ 実はこの会、今回はなかなか世話人が決まらないなどの事情があり、日仏哲学会が本大会の前日に開催するワークショップのために会場として取ってあった教室を利用して「ゲリラ的に」開催するに至ったものですが。

日仏哲学会の会場では機関誌『フランス哲学・思想研究』第21号も発行。
拙論「持続でもなく空間でもなく ―ベルクソン哲学における『アリストテレスの場所論』の位置付け―」も掲載されています。
まあ地味な論文ですが……

フランス哲学・思想研究21号表紙

近年機関誌が分厚くなっており、著者配本を含めて3冊も貰うとかなり重くなりました。
こちらの機関誌も商業出版ではないので、入手法は日仏哲学会に問い合わせてみてください(欲しがる人がまずほとんどいないと思いますが……)。

 ~~~

さて、今回取り上げるライトノベルはこちら、入間人間氏の『いもーとらいふ』後半です。



 (上巻の記事

上巻では妹が生まれてから25歳までを描いてきて、最後でついに妹は小説家としてデビューしました。
それゆえ、今までしがないパン工場のライン工として心身をすり減らしながら「妹を養うため」の一心で働いてきた兄は、もはや養う必要もなくなり、自分には(妹以外)何もなくなっていることに気付きます。
と同時に、自分は「弱い妹が好き」で、「そんな妹に頼られる自分が大事」(『いもーとらいふ 〈上〉』、p. 280)だったことに、ようやく気付きます。

そんな途方もない空虚に対面して、兄の苦悩は深いまま、この下巻ではさらに妹26歳以降に時は進んでいきます。
とは言え――

下巻の大部分は、何も起こらない、兄妹の甘い日々を描いています。妹が歳月を経るほどに露骨な甘えを見せるように退行していくせいもあります。上巻の最後で突き付けられたあの重々しさと辛さは、むしろ退いた印象。
また今回は妹視点のパートが挿入され、彼女が想像以上の執念を抱いていたことも判明します。彼女には「にーさんの言うことを信じていれば間違いはない」という凄まじいまでの信仰があります(普通は成長に従い相対化していくはずのそうした信仰を彼女は一切揺るがしません)。
たとえば小学校の宿題の絵日記を手伝ってもらって、「小説を読めば」と勧められたのを愚直に信じて実行する一方、

 にーさんが寝転んで、買ってきたまんが雑誌を読み始めます。にーさんはわたしに小説をすすめながらまんがを読みます。にーさんぐらいになれば、きっとわたしもまんがを読めるのです。早くまんがを読めるぐらいになりたいと思いました。
 (入間人間『いもーとらいふ 〈下〉』、KADOKAWA/アスキー・メディアワークス、2016、p. 101)


多分、漫画の方が子供にも読みやすいものであり、また小説の方が高尚であるという世間の評価を、彼女はたとえ耳にすることがあっても理解することは決してありますまい。

しかも兄と違って一切悩まず、兄の都合でさえ無視して、邪魔な全てから兄を奪おうとします。そこには時に、背筋の寒くなる表現がありました。

ですが、この妹視点の存在によって、徹底して兄の自意識しかなかったこの物語がかなり脱中心化されたという印象も。
1巻の重さから身構えて読むと、いささか拍子抜けなところはあります。


が、そもそもそうした甘くほのぼのした日常は、いかにして可能になったのか――そこを見てみることが肝要です。
実のところ、兄妹がお互いだけを求めて共依存的に密着しながら、お互いに求めるものが決定的にズレている――兄に誉めてもらうべく頑張る妹と、庇護の対象となる妹を求める兄――ことも、結果として兄が埋めがたい空虚を抱えることになるのも、何も解消されてはいません。

一つの転機として、主人公たる兄がこれからの身の振り方について迷っている中、かつて通っていた大学のキャンパスに足を運んで、一人の女性(『虹色エイリアン』を読んでいる読者には猿子だとすぐ分かります)と会話する場面があります。
その会話から、一つの結論に至るのです。

 でもやっと、生まれた引っかかりの形を理解する。
 妹を大事にすることとはまた別……いや違う、違うな。
 妹を大事にしたいと願う俺がここにあるまでの道を、疎かにできないのだ。
 たくさんの思い出。
 良かったのも、悪かったのも忘れたくはない。
 決してだ。
 ……なるほど。
 そういうものなんだ。
 けっこう、簡単なことだった。
 (同書、pp. 72-73)


彼がその結果として何を決断したかと言えば、仕事を辞めて妹に養われる生き方は回避した、ということです。
妹が小説家として稼げるようになった今、それも可能とはいえ、これ以上駄目になることを回避した、と見ることもできます。

しかし、務め人としての再就職が難しくとも、仕事を辞めて、務める以外で新しい生き方を求めるという選択肢もあり得ます。
もはやこれ以上得るものも残すものもないと知りつつ、残りの人生もしがないパン工場のライン工として働いて生き続けるという決断は、仕事を辞めるのと比べてどちらが途方もない決断なのか――
それでも彼は、「ここまでの自分」の全重量を引き受けることを選んだのです。

あとがきによれば、老後までの悲惨な流れを描く構想があったとのことですが、おそらくこの下巻が上巻と比べてマイルドな印象になっているのは、そうした悲惨な過程が描かれるか否かではなく、むしろ主人公たる兄の態度決定の問題ではないかと思われます。
ここから先、彼の迷いや悩みの描写が減り、妹との甘い日々になっていくのは、この彼の諦観、あるいはもっと言えば悟りに基づいているのです。

「悟り」とはいかにも大袈裟ですが、しかし全く的外れとも言えますまい。
仏教で言う悟りとは平たく言えば「真の自分」ですが、自分の実態などというのはだいたいロクでもなく、気持ち悪くて、見るのも嫌なものです。しかしそんな凡俗たる自分に向き合わねば、修行も悟りもありません。だからたいていの人は自分から逃げ出そうと(虚しい努力を)するのです。
本編の主人公はそんな自分を「今ここでこのまま」引き受ける決断をした。凄まじいことです。

以下の箇所もご覧あれ。

 でも、こうするしかないんだよな。
 妹と一緒に、上手く生きていくためにはこれが最善だった。
 だから妹は正しい。
 皮肉でもなく、冷静に事実だけを拾い上げていけば、正しいのだ。
 親を裏切るようなことでさえ、前向きになればこうだ。
 俗世の理(ことわり)を捨てた!
 本当の自分と出会えた!
 真実の愛を見つけた!
 (同書、p. 182-183)


なお「真実の愛」については「真実の愛は人生を変えるのか?」でも語った通り。
(まあ本来の仏教の場合、妹への愛欲も捨てるべきなのでしょうけれど)

今巻の冒頭には

 捨てられれば楽になるとは分かっていた。
 無理に捨てないでいたら辛くなるばかりだとも身に染みていた。
 だけど捨てなくて良かったって思ったことは一度や二度じゃないから。
 だから、俺はこれでいい。
 (同書、p.9)


という文言が題字のように掲げられていました。
これがどんな文脈で意味を持つ文言だったのかは、最後まで読めば分かります。

加えて本作は作者にしては珍しく、あとがきで執筆の動機を物語っています。
それは、どんな身近なことでも大切な想い出でも、遠ざかれば次第に記憶は薄れていくことです。
忘れるのは寂しく哀しい。けれど持ち続けるならば、その分重くなり、辛くなります。

そんな、重荷であり辛いものであると知りつつ、そこまでの道程の全重量を含めて自分を、自分にとっての「真実」を引き受けるならば――
本作はそんな話です。
それが「正しい」かどうか、誰が言えるでしょうか。少なくとも社会的には誉められず、両親からも理解されませんでした。
けれども一度踏ん切りが付けば、後から振り返る時に確かに幸福たり得たのです。

最高に気持ち悪い歪な生き方、しかもそんな自分と直面する人間の姿を描いてくれました。傑作です。

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第2の長編、シリーズの転機か――『幻影の手術室 天久鷹央の事件カルテ』

今回取り上げる小説はこちらです。

幻影の手術室: 天久鷹央の事件カルテ (新潮文庫 ち 7-32 nex)



 (前巻の記事

『天久鷹央』シリーズとしては6巻目になりますが、長編『事件カルテ』としては2冊目です。
『推理カルテ』は毎回3~4本の短編からなり、ナンバリングがされていて4巻まで出ていますが、『事件カルテ』はナンバリングなしの模様(ただし、時系列的には普通に『推理カルテIV 悲恋のシンドローム』の続きです)。また、『推理カルテ』と違ってクライマックスを冒頭に先取りで描くことはないなど、フォーマットも異なります。

話の都合上、毎度毎度よく病院で事件が起きることですが、今回の事件の舞台は鷹央たちの務める天医会総合病院ではなく、清和総合病院という別の病院です。
この病院の、手術直後の手術室で、麻酔医が「透明人間と格闘」しているかのような映像が撮影された上、その直後にメスで喉を切られて死んでいるのを発見されました。
さらに、現場の手術室はその麻酔医と手術を受けた直後の患者しかいなかった密室。そのせいで患者に嫌疑がかけられます。しかもその患者というのが他でもない、鷹央や小鳥遊とも馴染みである天医会総合病院の研修医・鴻ノ池舞(こうのいけ まい)だということで……

今まで何度も難事件を解決し、警察を助けてきた鷹央ですが、今回は被疑者が鷹央の知り合いであり、捜査の公平性を保つためということで警察が鷹央の捜査への関わりを拒否。
調査のため、小鳥遊がレンタルで異動させられるというとんでもない展開も。

例によって病院の人間模様も色々、人格に問題のある医者もいて、そういう事情を上手く利用することになったり……

まあ個人的には、メインの密室殺人に関しては、真相の大枠は比較的読みやすかった印象です。
疾患や薬物に関する医学知識を絡めた謎、という今までのパターンへの慣れもあります。

とは言え、短編だと「真相は病気であり、人為による事件はなかった」というパターンもありましたが、さすがに長編でそれは弱いでしょう。
一体どこまでが人為で、誰が何をしたのか、それがポイントです。
その解明に向けて、全編通してバラ撒かれた伏線が最後に収束する様は、さすがに見事な出来でした。
もっとも、情報が不足している部分もないではありませんでしたが。たとえば――これがヒントであるということ自体、若干のネタバレですが――マグカップに「リスのような生物がプリントされ」(p. 198)ているという箇所、その記述だけだと写真なのか絵なのかも分からないんですよね。

――とまあ、細部で気になるところはあるものの、巧みな構成の医療ミステリとして評価できる作品でした。
人の情が分からず論理で武装し、どんな残酷な真実でも突き付けてきた鷹央が、知り合いの鴻ノ池に嫌疑がかかった今回は「助けたい」という感情で動くのも見所の一つ。
次巻からは統括診療部に新メンバーが加わることになりそうで、今巻はシリーズとしても一つの転機になりうるのでしょうか。今後も楽しみです。

 ――

本作『天久鷹央』シリーズはコミカライズの1巻も今月発売予定、こちらも楽しみです。

天久鷹央の推理カルテ (1)


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それぞれの王への道――『魔弾の王と戦姫』13~15巻

気が付けば12巻を最後にしばらく放置していましたが、今回は久々に、先月15巻まで発売されたライトノベル『魔弾の王と戦姫』を取り上げてみようかと思います。
何しろ最新15巻のあとがきで、ついに「あと2巻で完結」と明言されました。最新巻の展開を見ているとそれだけで終われるのか、と想うところもありますが、しかし大詰め間近なのは感じられます。






 (12巻の記事

12巻はザクスタンと決着した後、最後のわずか3行ほどで「月光の騎士軍〔主人公ティグルたちの率いるブリューヌ・ジスタート連合軍〕は敗れ、ティグルとエレンは行方不明となった」旨が書かれるという、衝撃の引きとなっていました。
敵はガヌロンの部下、グレアスト侯爵です。
かくして13巻は、捕らわれのエレンを救出するべく単身動くティグルの活躍とグレアスト軍との対決でした。

合戦よりも単身潜入してのゲリラ戦(ただし、ティグルの特技である弓の技を見せる場面は少なめ)ということによる見所も色々あったのですが、やはりポイントは、この巻においてついにティグルとエレンが結ばれたことでしょう。
捕虜や人質としてではなく自らの欲望のためにエレンを捕らえ、嬲りものにした(話としての都合というべきか、陵辱の本番には至っていなかったようですが)グレアストの変態ぶりも、それによってエレンが傷付くという道程が、ティグルと結ばれるために必要だったのでしょう。

――とはいうものの、二人の前には依然として社会的な問題が立ちはだかります。
ティグルはブリューヌの領土アルサスの領主、エレンはジスタートの戦姫として公国ライトメリッツの公主を務める立場で、どちらも相手のところに嫁や婿に行くわけにはいかないからです。
それどころか関係を取りざたされること自体、問題になります。
エレンは「自分が愛妾でもいい」等と言っていますが、愛妾というのは男が囲うもの、公国の公主という立場のある女性をそう扱うのも、無理があるでしょう。

そんな未解決問題を抱えたまま、14巻ではティグルが、侍女のティッタにも想いを告げます。
まあ彼女の方は愛妾で決まりのような扱いで、むしろ社会的問題は少ないのですが……
どちらかを選ぼうにも「選べない」というティグルの言い分は率直ですが、誠実であり、そしておそらく、それほど妙なことでもありますまい。
というのも、「愛される側」から見れば嫉妬と独占欲があるので、愛は自分に全て注がれるものであってほしい。しかし「愛する側」から見れば、「一度に愛することができる相手は一人だけ」と限る理由は、それほど明瞭ではないのです。それはやはり愛される側の願望ではないでしょうか。

とは言えもちろん、嫉妬は現実的な問題です。幸いなことに、エレンとティッタは仲も良く、お互いを受け入れているようですが……
こういう本作の状況は、「ハーレムを実現するには何が必要か」を示唆しています。

(1) 複数の女たちを「娶る」ための男の度量と、社会的ハードルのクリア
(2) 女たちが互いに仲が良く、嫉妬による争いを引き起こすどころか、ハーレムに協力的であること

この条件は、本作に限らずハーレムエンドを実現するような作品では多くの場合満たされていることであり、そして実はきわめて現実的なものです。
(1)の社会的ハードルというのは、一夫多妻が認められている社会でも存在します。
複数の妻を娶ることができるのは、やはり相応の社会的地位や財力etc.のある男に限られるでしょうし、そのような男であればこそ、その妻となる女性には様々な条件が求められます。誰を娶るも自由、とは行かないのです。
嫉妬も問題です。ハーレム内部での女たちの争いが大きな火種になることは少なくありません。

正妻と愛妾の区別も、別に「いずれが愛されているか」ではなく、まずもって社会的な区別――より正確に言えば、子供が生まれた時に後継ぎとして誰を優先するか、という問題なのです。(これは女系相続では起こりえない問題です。女にとって生まれた子が自分の子であることは疑いのない事実で、「どの男の子供か」を問題にする必要はないのですから)
まあこれは本作中でもしばしば言われていることで、貴族の結婚は政略結婚が重視されるから、本当に愛する女性を愛妾にするといった事例もあると、再三説明されていますが。

さらに、ティグルの進むべき道の示唆として、かつて三つの国に仕え、それぞれで爵位を賜った「北海男爵」なる人物の逸話が作中世界にあることが14巻で語られ、15巻ではティグル自身もそれを聞きます。
つまり、ブリューヌ貴族であると同時にジスタート貴族にもなれば、ジスタート貴族が戦姫と結ばれることに問題はない――という。
これが西洋中世封建社会の特徴で、「二君に仕える」のは不可能なことでも悪いことでもないのです。
……まあ問題は、一介の「貴族」で話が収まるのか、目指すべきものはその先にあるのか、でしょうけれど。

実際、15巻でティグルはレギン王女から告白を受けます。
ブリューヌの王になってほしい、という要請と、一人の女性としての告白と、二段階で。
最初はそんなことは頭になかったティグルですが、次第に自分が王になったら何をしたいか、何ができるか、考え始めます。
まあそこでもまずは自領アルサスのこと、それに狩りのことが出てくるのが彼らしさで、まだいささかスケールが小さい感はありますが……彼が最終的に何を見出すのかは楽しみにしておきましょう。

今更のような話ではありますが、作者の川口士氏は筋金入りのハーレム作家です。
それも、「途中過程として主人公が複数の女性にモテる」だけではない、到達点としてのハーレムエンドを目指し、そのために上述のような社会的課題を描く作家です。
しかし、それは言うまでもなく、長い道のりです。
俗に「チート」と呼ばれる、反則的に強い能力を持つ主人公が活躍するタイプの話もありますが、社会的課題を「チート」でクリアするわけにもいきません(したとして、それで面白くなった先例を聞きません)。
男の度量を見せようと思ったら、成長プロセスも不可欠でしょう。
ですが、それだけの長い道のりを踏破するのは、それだけの間、読者と編集部に認められ付き合ってもらわねばできないことです。

実際、氏の作品でそれだけの長い道のりを経て円満完結に至った作品は、一迅社文庫の『千の魔剣と盾の乙女』(全15巻)だけです。
まあ、もっと短い巻数で終わった作品の事情も必ずしも一様ではありますまいが、たとえば『銀煌の騎士勲章』のような作品を見ても、ハーレム形成に向けてまだまだ長い道を行く構えはできていたように思えるのです。
ですから、(いささか気の早いことではありますが)『千の魔剣~』に続いて2作目で、それを上回る巻数で完結する大長編となることが見えてきた本作は、やはり祝福に値するものでしょう。


さて本作のストーリーに戻ると、大陸情勢も激動。13巻でグレアスト侯爵軍と戦っている時には同時に、「赤髭」クレイシュの率いるムオジネル軍15万が南からブリューヌへ進軍を始めていました。
14巻は全編、圧倒的多数を誇るムオジネル軍との合戦になりました。
今までは毎回どこかで魔物や竜との戦いがあり、戦姫の竜技、それに竜具とティグルの弓との合体技も使われる……というのがフォーマットでしたが、この巻ではもはやそれがありません。
今まで「恒例の魅せ場」として必ず入れていたものを外すのは、「それがなくてもこの作品は読ませられる」という信頼がここまでの巻で形成されていればこそ、でしょう。

かつてない大軍の侵攻を前にして、ブリューヌ軍は(ジスタート軍を合わせて)国中からかき集めて計6万。その他に装備や練度の低い民兵が4万という、数的には圧倒的劣勢です。
王都ニースは過酷な籠城戦を強いられます。籠城で兵たちが消耗していく描写はまことに厳しく、集団の合戦の中では今までと比べてもとりわけ厳しい戦いであることが伝わります。

もちろん、ただ王都に籠もって守りに入るのではなく、ティグルとしても逆転の策を練っているのですが、相手のクレイシュも名将と名高い人物。こちらの策が見破られていることも早い内に示唆され、いっそうの緊張感を煽ります。
最後はもう裏の掻きあいではなく、ティグルが矢の射程内に接近できるか、大軍を巧みに組織して距離を取るクレイシュが上回るかのせめぎ合いとなり、ティグルの弓のさらなる絶技が炸裂します。

それでもクレイシュを討つには至らず、もう一度攻められれば絶体絶命というところでの、向こうの国の事情による撤退。
魔物ではなく敵将ではここまでのところ唯一ティグルと再戦した相手にして、最後までティグルが完全に「勝利する」には至らなかった相手、という強烈な印象を残していきました。
とは言え、向こうの国の事情が事情だけに、どうやらこれで退場してくれそうではありますが……

そしてブリューヌに平和が戻った15巻では、ティグルが特使として、ふたたびジスタート王のもとに赴くことになります。
第3部では周辺国相手にブリューヌの厳しい戦争を続きましたが、アスヴァール、ザクスタン、ムオジネルといった周辺国についてはそれぞれ「当分ブリューヌに侵攻することはない」という状況に持ち込んだ上で、ようやく物語はジスタートに帰ってきた格好です(なおアスヴァール編は第2部でしたが、その時のティグルとタラードの縁が生きて、アスヴァールはザクスタンとの戦いに専念することになった形です)。

ところが、ジスタートでは心を病んで8年間も幽閉されていたルスラン王子の帰還により、新たな政変が始まろうとしていました。
エレンからの評価は低いものの、その治世の業績を見れば名君と言っていい現王ヴィクトールでしたが、最後に後継者問題で火種を残した格好です。
ルスラン王子を連れ帰ったのは、自ら女王になるという野望を抱く戦姫ヴァレンティナ
「黒幕」の彼女と対決ムードに入る一方、新たな戦姫フィグネリアも、エレンとの因縁により戦いは避けられない気配。
フィグネリアも元傭兵で、エレンの育ての親である傭兵ヴィッサリオンを斬った張本人でした。
とは言え、彼女たちの間には、たんに傭兵としての仕事で敵として相見えただけ――では済まない雰囲気があります。
やはり、――本人たちがお互いにその点を了解しているのではなさそうですが――両者ともヴィッサリオンの「自分の国を持つ」という大きな夢を受け継いでいる、という近しさが問題になりそうです。

傭兵ながら「国を持つ」という大きな夢を持っていたヴィッサリオンに育てられたエレンと、敵として狩りを斬りながら、密かにその夢を受け継いだフィグネリア。ヴァレンティナも独自に「王になる」野望に向けて動き、そしてティグルも王への道を考え始める――戦姫たちが王都に集い、互いに戦うことになりそうなこの展開は、それぞれの「王への道」の交差でもあります。

それから、今後の展開でただちに活躍があるかどうかはともかく、将来的に一つの鍵となりそうなのが、クレイシュの側近であったムオジネル人のダーマードです。
彼は第2部では密偵としてジスタートに潜入していた時にティグルと出会っており、そして14巻の戦いでは敗れて捕虜になりました。かつてのティグルのような立場となったわけですが(今度はティグルが捕虜を取る側)。
改めて本作の主人公ティグルの周りを見ると、ブリューヌの王女レギン、ジスタートの戦姫たちという両国の要人たちが彼に想いを寄せるヒロインとしていて、そんな立場にどう落としどころを見出すかが課題として突き付けられているわけです。
他方、本作はやはりまずもってブリューヌとジスタートの間に関わる物語で、その他の周辺国にまで同様のヒロインは、さすがにいません。
ただ、将来の国同士の関係と、そこにおけるティグルの存在の大きさを示唆するように、ティグルはアスヴァールの実質的なトップであるタラードとも知己を得ています。するとムオジネルに関しても、王弟クレイシュの側近として目をかけられていたダーマードが重要人物になってくるのではないかと。功績次第で彼が解放され、ムオジネルでの栄達ルートに復帰する可能性は残されているわけですから。
ついでに、彼がムオジネルで人気のある話として、「うっかり者」と言われながら臣下に恵まれ良き治世を築いた王の逸話を放しているのも、様々な「王」像を示しています。


――と、政治情勢とハーレムに絡む話をもっぱらしてきましたが、本作にはもう一つ、戦姫たちの竜具とティグルの黒弓、それに魔物たちに関わるファンタジー要素もあります。
黒弓に夜と闇と死を司る女神ティル=ナ=ファが関わっているのは前々から示されていましたが、14巻ではついに魔物たちの目的が「ティル=ナ=ファを降臨させる」ことだと明らかに。それが文字通り「世界を変える」ことであるのも、女神自身の口から語られました。15巻ではこの件について、ティグルと戦姫たちが文献調査に結構時間を割いているのも、地に足が着いた感じが出ていて良かったですね。

15巻では1巻から登場していた魔物のドレカヴァクがついに戦うところを見せ、それにより魔物たちも一気に退場していきました。死んでも蘇る能力を持ち、三度もティグルたちと戦ったヴォジャノーイもついに……
これ以上魔物の新キャラが現れなければ、残るは他の魔物たちとはいささか目的を異にしているらしいガヌロンだけです(もっとも、ドレカヴァクたちもまだ含みありげな退場ではありましたが)。

本作における人間の歴史と神話の関係は、未だに必ずしも明瞭ではありません。
過去にもこうして「世界を変える」ことを巡る闘争、あるいは実際に世界が変わったことがあったという示唆を考えると、神話から歴史へ、あるいはその逆、という一方通行の移行ではなさそうです。
とは言え、最後はやはり、ファンタジー要素に関わる話で締めるのでしょか。
後2巻、神話と政治とハーレムと、全てを綺麗に収束させてくれることを期待しています。

 ―――

『魔弾の王と戦姫』はコミカライズも10巻が今月発売予定。そろそろ原作第1部の大詰めです。
漫画版はこれで「完結」扱いのようで、極めて良質なコミカライズだけに残念なところですが……いつか連載再開で第2部も、とはいかないものでしょうか。



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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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