『バケモノの子』と擬人化キャラクターデザインの話

映画の本編はどうあれ予告編は面白そうなものと相場は決まっています。
で、今映画を観ると目に付く一つが『ジュラシック・ワールド』の予告編
内容はともかくとして気になったシーンが……イルカショーのような観衆に囲まれたプールの上に吊されたサメ。水中から飛び出してそれを一口で食べていく海ワニ(おそらく)。

いかに何でもこの海ワニ、大きすぎませんか。
40~50mくらいありそうに見えるのですが。


ちなみに当の映画の内容は例によって、大部分恐竜と追いかけっことするだけと思われるので、あまり興味は湧きません。
恐竜が動く映像には若干の興味がありますけれど。

 ~~~

そんなわけで(?)、アニメ『バケモノの子』を観てきました。
さてこの映画、当初ポスター等のこの画像↓を観た時には、どうもピンと来ないものがありました。

バケモノの子

バケモノの子 パンフ表紙2

全景に立っている主役二人の内、左の「バケモノ」――熊轍(くまてつ)――の顔が人間的過ぎるのが主たる要因です。
こういう、あまり人間的な表情を備えた動物の擬人化はコミカルでカリカチュア的な印象が強く、あまり真面目にやるには向かないのではないか、と。

ただ、さすがと言いますか、彼らが生き生きと動いているのを観ていると馴染んできました。

さて、この映画に登場する「バケモノ」たちは皆いわゆる獣人と言いますか、獣の擬人化とも言うべき連中なのですが、彼らの「動物」度合いには結構差があることに気付きます。
いずれのバケモノに関しても、表情を出すため目は一様に人間的なものになるのは皆同じ。
狼のバケモノなどは、少なくとも頭蓋骨の形状に関して言うと、狼の形の頭がそのまま乗っています。
熊轍もその路線に近いのですが、主役だけあってとりわけ口周りなどの表情などは豊かです。

熊轍

猿の多々良(たたら)の場合、猿は元々人間に近いので、問題はあまり生じません。

多々良

他方で豚の百秋坊(ひゃくしゅうぼう)など、鼻と耳以外はほぼ人間です(とりわけ顎の形などに差が出ます)。

百秋坊

豚と近い動物であっても、熊轍のライバルである猪の猪王山(いおうぜん)はより猪に近い頭をしています。
鼻と口の繋がりがポイントでしょう。

猪王山

もちろんこうしたデザインは、それぞれのキャラの人物像との関わりもあったのでしょう。

こんな、これといって結論のない話をしているだけでだいぶ文面を費やしてしまいました。
映画の内容についてはまたの機会にさせていただきます。

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『映画プリキュアオールスターズ 春のカーニバル』/『スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号』

まずは先週末に『映画プリキュアオールスターズ 春のカーニバル』が公開されました。
昨年で『プリキュアオールスターズ』の「New Stage」3部作が一区切りとなったので、『オールスターズ』も新展開を迎えたと言うべきなのか……今回の趣向はミュージカルでした。

妖精の国ハルモニアから春のカーニバルに招待されるプリキュア一同、しかしハルモニアは盗賊によって国ごと盗まれる……つまり王様たちが監禁され乗っ取られた状態に――というのが今回の筋です。
そして、これは盗賊たちによる罠ですが、プリキュアたちがステージに上がり歌って踊ることになります。
あの3DCGでプリキュアたちの踊るエンディング映像にオープニング映像を含む作品のイメージを伝える映像、そして曲はオープニングもしくはエンディングテーマ。これを全プリキュアに関してやるのですから、これだけで結構なボリュームです。さらにこの映画の主題歌も。
加えて、敵キャラ(盗賊の二人組)の自己紹介も歌で、というのがミュージカルと言った所以です。

確かにこれは効果的な「歴代のプリキュア紹介」にもなっているので、オールスター映画としては相応しいのかも知れません。

反面、オールスター映画にあまりストーリーを求めるものでないのは確かですが、今回はとりわけストーリー要素は控え目な気もしました。歌に尺を割いているから、という面は確実にあると思いますが……
何より、敵が全プリキュアを相手取る敵にしてはかなりショボいのです。最後に出てくるラスボスも唐突感がありましたし……
その辺を気にしないのであれば、各プリキュアの味を伝える映画としては良いものでしたね。

そして安定のキュアマリン。決め台詞の途中でミサイルを喰らって吹っ飛ばされるなんて、本編でも見た覚えがないズッコケ方です。

 ~~~

それから、今日は映画『スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号』でした。
春のオールライダー映画が「スーパーヒーロー大戦」になって4年目でしょうか。ただ、2013年の『仮面ライダー×スーパー戦隊×宇宙刑事 スーパーヒーロー大戦Z』で共演の幅を広げる方向は打ち止めになった感があります。昨年からはまた、オールライダー映画を軸にして、スーパー戦隊との共演は+αという感じですね。ライダーと戦隊では撮影現場の習慣がまるで違うので想像以上に大変だった(白倉伸一郎氏の談)せいもあるでしょう。

さて、今回また……というべきか、敵はショッカーであり、歴史を改変してショッカーが世界を支配する話です(「○○ショッカー」を含めるとショッカーは一体何度目でしょうか……歴史改変は『レッツゴー仮面ライダー』以来まだ二度目かも知れません)。
冒頭、1973年2月10日(元祖『仮面ライダー』最終話である第98話の放送日)、『仮面ライダー』第98話のショッカー首領の最期の場面――当時の映像をそのまま――から始まります。
しかし、ここから本来の歴史にはない流れに突入、この直前に完成していたショッカー最強の改造人間、仮面ライダー3号が登場して1号と2号を倒します。
もちろん、'73年当時のTV画面は今の映画スクリーンよりも縦横比で幅が狭いのですが、この3号登場シーンまで画面の形を(ついでに画質も)当時のものに合わせておいて、タイトルロゴの登場とともに画面が左右に伸びるという演出も粋です。

ただ……ストーリーとしては、オールライダー映画の中でも「現役ライダー(今回の場合はドライブ)中心の物語」という印象でした。
突如として歴史が改変され、ショッカーに支配された世界になります。そこでは『ドライブ』の主人公・泊進ノ介が勤める警視庁特状課も仮面ライダー討伐のための部署になっているのですが、当然と言うべきか現状に疑問を抱いた進ノ介は反ショッカーのライダーと共に戦うことになり……

しかも、そんな中でドライブたちを助け、反ショッカーのライダーたちのところへ導く、と言って登場するのが、ショッカーの手先として1号2号を倒したはずの3号。
彼の思惑は、抱えるものは……というのが見所になります。
(普段の『ドライブ』で言うと犯人のポジションですね、3号は)

なぜか、世界改変前の記憶をはっきり持っているのはヒロインの霧子で、進ノ介は当初仮面ライダーを倒すことを当然と思っていたりするのですが、このことの理由説明は特にありませんでした。
まあ、(この話は何度かしましたけれど)歴史を改変した当人以外がなぜか歴史改変前の記憶を持っている話は結構あるので、それを認めるならこれも無しとは言えないのがタイムパラドックス物の難しいところです。
これは――『ディケイド』や『電王』を仕えた過去のケースと異なり――過去改変にもメタにもショッカーにも本来関わりのないライダーであるドライブを主役に据えつつ、この設定を描いた結果のようにも思われます。

そのことのもう一つの帰結として、――今回は歴史が改変された理由が終盤で明かされる形になるのですが――過去改変の理由もかなり強引なものでした。
いや、そもそもオールライダー映画にまともなストーリーや設定を期待するものではありません。
ただ、『ディケイド』や『電王』を引っ張り出せば過去=物語とするメタ設定が成立したのですが、今回はメタとして成立しているとも言えないところに力業を感じるのです。

もう一つ気になるのは、ショッカーに支配された世の中では何が問題なのか、という描写の弱さでしょうか。
まあ、今日日『北斗の拳』みたいに暴漢が支配する荒廃した世界、でも芸がないのであって、むしろ人々が積極的にショッカーを称えている、という描写が必要なのは分かります。
でも、「子供たちの夢を守るため」と称する仮面ライダーに対して、自ら「ショッカー・ユーゲント」に憧れ志願しているのを邪魔された子供たちが「僕らの夢を潰しているのはお前の方だ」と言うのは当然なのですよね。
それに対して、ショッカーの悪を示す場面が(仮面ライダーが子供たちをかばうことを見越して)「子供たちを撃て」という場面だけなのは弱いのではないでしょうか。悪いのはそんな指示を出すブラック将軍だけかも知れないだろう……などと穿ったことも考えてみたくなります。
ポイントとなるのは、ショッカーに反対し仮面ライダーを称賛する一般市民への特状課メンバーへの弾圧描写でしょうか。私としては、その他一般市民に対する弾圧描写があった方が話が分かりやすいかと思ったのですけれど……


出演する先輩ライダーは

南光太郎(演:倉田てつを)――声の出演だけなら他にもありましたが、生身で「南光太郎」を演じるのは『ディケイド』以来6年ぶり。最初はBLACKの方に変身するのですが、ではRXはどうなったのかと言うと……ある意味では(両者を別人とした『ディケイド』の時とは別の形で)両者の関係を活かした演出と言うべきでしょうか。
乾巧(演・半田健人)――仮面ライダーファイズ。昨年に引き続いての登場。
桜井侑斗(演:中村優一)――仮面ライダーゼロノス。何と、しばらく俳優を休業していた中村氏、今回が復帰第一号出演です。
橘朔也(演:天野浩成)――仮面ライダーギャレン。『仮面ライダー』への出演は『フォーゼ』の校長役以来。良くも悪くもやっぱり橘さんという感じで。ちなみに『ブレイド』の残り3人のライダーも声は本人の出演です。

そして、この映画オリジナルの仮面ライダー3号・黒井響一郎を演じるのは及川光博氏。

それから、敵幹部としてはブラック将軍を演じるのが高田延彦氏ですが……ブラック将軍も『レッツゴー仮面ライダー』以来役者を変えて二度目ですしね。
ショッカーの幹部はもう使い切ったし、彼らが変身する怪人はオリジナルの設定を踏襲せねば……ということなのか、何と今回は『ドライブ』のレギュラーでコメディリリーフ的な役回りの「ゲンさん」こと追田現八郎(演・井俣太良)がショッカーの幹部となり、オリジナルのショッカー怪人にまで変身します。
まあ、ショッカーに支配された世界ならば、体制に忠実な警察官である分こうなっていても不思議はないのですが……
いや、これは良かった。


そして、最後にもう一つの衝撃が。
元々、オールライダー映画と本編の整合性など深く考えるものではないと思っていましたが、まさかのレギュラーキャラ退場。(もちろん、本編では「彼は映画の時に死んだ」等と突然言えるはずはありません)
ストーリー上はまったく必要ないこの展開と、エンディング後の思わせぶりな引きを合わせると、どうやらWebで配信される「dビデオスペシャル 仮面ライダー4号」へと続くようで……
これはアリでしょうか……?

 「dビデオスペシャル 仮面ライダー4号」の配信はこちら(配信は3月28日から)

ちなみに、来場者には「dビデオスペシャル 仮面ライダー4号」の第1話DVDが配布されるのですが、「仮面ライダー4号」は全3話予定なので、このDVDではまだ序章です。


追記ではネタバレを少しだけ。

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『烈車戦隊トッキュウジャーvsキョウリュウジャー THE MOVIE』

今日は映画『烈車戦隊トッキュウジャーvsキョウリュウジャー THE MOVIE』を観てきました。

来場者特典は小振りのノートです。

トッキュウジャーvsキョウリュウジャー

『キョウリュウジャー』の最終回で、デーボスは実は星々を滅ぼし作り変えるために送り込まれた存在、ということが明らかになっていたので、案の定と言うべきか、デーボスを送り込んだ創造主デビウスが敵として登場します。
それから、トッキュウジャー夏の映画で登場したギャラクシーラインと車掌のレディも(冒頭と最後で少しだけですが)再登場、ギャラクシーラインのステーションがデビウスに乗っ取られるという形で、両作品が出会うことになります。
旧戦隊の最終話の引きと現戦隊の夏の映画を利用して繋げるとは、『VS』シリーズの中でも割と上手い設定だったのではないでしょうか。

作中時期としては現在放送中の話からいくぶん遡って、まだネロ夫人がいた頃です。

そして、今回の特徴的な設定として、トッキュウジャーの力はデビウスの配下には通じず、キョウリュウジャーの力はシャドーラインには通じない、ということがあります。
それぞれの使う力がイマジネーションとブレイブで、違うことが原因の模様ですが、それ以上の詳しい説明はありません。そもそもイマジネーションもブレイブも、薬のように特定の相手のみに有効な力だなんて設定は聞いてない……とは言いっこなしです。
とにかく、これが理由で、トッキュウジャーの乗り換えシステムを応用し、烈車と獣電池を交換して戦うことになります。と言っても、それで両戦隊の姿が変わるわけではありませんが。

それから、敵のクロックシャドーの能力により、トッキュウジャーが子供の姿に戻ってしまって、子供のまま変身する展開があります。「子供になってるんじゃない、これが本当の姿だ」と。

――そもそも、トッキュウジャーの5人に昴ヶ浜で過ごしていた小学校時代の(それも断片的な)記憶しかないことは最初から触れられていましたが、それが(10年分くらいの記憶を失ったのではなく)、彼らは小学生として街ごと闇に飲まれ、そこから弾き出された時に大人の姿になったのだ、ということが明言されたのはいつだったでしょうか(私が今作の設定や展開はあまりきちんと追っていないことを露呈しています)。
今回の映画パンフレットを見ると、レインボーラインの総裁が「本来は子どもであるライトたちの肉体を大人へと変化させた張本人である」と書かれていて……そうだったような。なら、総裁が登場した頃には説明されたことになりますね。
TVシリーズ本編では、いよいよ彼らの街・昴ヶ浜の行方も明らかになりましたが、街が元に戻っても、今の大人の姿では家族にも分かって貰えないでしょう。彼らは子供に戻って家族のもとに帰るのか……これも気になるところの一つです。

それはそうと、今回の映画で彼らが子供になるのはあくまで敵の能力によるもので、彼らが本来子供であることと直接関係はないのですが、ただ「本来は子供」であり、そして子供であるからこそ強いイマジネーションを持つ(肉体の強さは関係無い)ということを再確認するという点では大きなエピソードでした。

それから、キョウリュウジャーは合計で10人いるというのが大きな特徴の一つですが、レギュラーはあくまで6人。
この映画も新旧戦隊の6人と6人の出会いをメインにしていたので、残り4人は出ないかと思いきや……最後でちゃんと出番がありました。そして、最後で味方になって生き残ったキャンデリラとラッキューロも。いや良かった。

ついでながら、6人目は除いて初期メンバー5人同士を比較すると、キョウリュウジャーにはイエローがいなくてブラックがいるのが大きな色の違いですが、道北が存在するメンバー同士でもグリーンだけは色の違いが顕著(キョウリュウグリーンは青緑に近い)というのは視覚的には印象に残りました。

そうそう、次の戦隊である『手裏剣戦隊ニンニンジャー』もゲスト出演します。しかも今回は割と前半で登場。ただ、あそこであの敵を彼らが引き受けなくてもプロット的には問題なさそうという意味で、活躍の仕方としては微妙な気もしますが。
「忍者」がモチーフの戦隊も『忍者戦隊カクレンジャー』『忍風邪戦隊ハリケンジャー』に続き3作目でしょうか。
しかし、敵が妖怪という点まで『カクレンジャー』と同じとは……今妖怪が流行りだから?
でも「忍ぶどころか、暴れるぜ」というキャッチコピーは割と気に入りました。フィクションにおける忍者の核心を衝いてもいますし。
後、女性陣のスカートとタイツの色が違うのが何だかセクシーです。

ニンニンジャー

ただ、TVでの予告映像でも見ましたが、巨大化した敵が電車ごっこというのはどうなんでしょう……
これでもこの映画の敵幹部の巨大化した姿であり、そもそも主な巨大戦はこいつとの戦いだけです。

サラマズ巨大化態

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後日譚、そして次世代へ――『仮面ライダー×仮面ライダー ドライブ&鎧武 MOVIE大戦フルスロットル』

本日は朝から雪で、起きると一面真っ白でした。
しかも昼近くになるまで結構な量が降り続いていました。
雨に比べると濡れにくいだけいいとも言えますが、寒い上に道路の状態が悪くなると交通機関が遅れやすいので、あまり出かけたくはありませんでした。

それでも、映画『仮面ライダー×仮面ライダー ドライブ&鎧武 MOVIE大戦フルスロットル』を観てきました。
授業のない曜日として今日を逃すとまた週末になってしまいますし、だから予約も取っておいたので。

前半の『鎧武』パートですが、通例通りTVシリーズ後日譚として、異星に移住した紘汰と舞のところから始まります。
脚本はTVシリーズ最終回と同じく鋼屋ジン氏ですが、案の定、綺麗に終わってアーマードライダーもインベスもロックシードも存在しない世界になっていたので、続きを書くのは苦労されたようですが、新たな敵メガヘクスが襲来するという形になりました。
彼らは地球人と同じくヘルヘイムの侵略を受け、全生物を機械化して全ての個体を一つのシステムへと統一することで生き延びた存在です。
まあ設定上、過去にヘルヘイムの侵食を受けた星は他にも多数存在するはずですし、黄金の果実を手に入れて神にも等しい存在となった紘汰の敵としては同等の相手として、同じくヘルヘイムの侵食を乗り越えた存在、というのは妥当な設定でしょう。

まあ個体性なき存在というのは、(本編が虚淵脚本だけに)『魔法少女まどか☆マギカ』のキュウべえを思い出し、ある種オーソドックスな敵設定ではあります。まあそれ以上の捻りを加える場面でもないということでしょう。
それに対して、個々の意志が異なる方向を向き、対立し失敗もする人間の可能性を対置するというのも古典的ですが、さんざん互いに対立してきた『鎧武』の主要メンバーが共闘してそれを言うと感慨深いものはありますね。
ついでに、機械の敵で本体は惑星、等々の点は(懐かしいですが)『ドラゴンボール』の映画のメタルクウラを思い出したり。

紘汰も一度は敗れ、そして紘汰たちの移住先の惑星から地球にも侵略してくるメガヘクス。迎え撃とうにも、地球でアーマードライダーに変身できるのは光実だけという状況ですが……色々あって、斬月も復活します。
最終回で光実・貴虎兄弟に救いは与えられたものの、兄弟揃って変身しての共闘はついになかっただけに、これまた感慨があります。
さらに、戦極凌馬と戒斗も一時的に復活。二人とも基本的にブレません。相変わらずです。


後半『ドライブ』パートでは、ドライブのライバル? 怪盗アルティメット・ルパンが登場。仮面ライダールパンにも変身します。
本作は元々、主人公のライバルにして敵側レギュラーの「悪の仮面ライダー」的な存在として(ライダーの名こそ付いていませんが)魔進(マシン)チェイサーが登場していました。自動車を駆るドライブに対して、チェイサーの方がバイクに乗っていますし。
「悪のライダー」というのはしばしばありますが、(『龍騎』や『鎧武』のように元々ライダー同士が争っているのでない限り)レギュラーというのは珍しいケースです。それがさらに、劇場版では新たな敵ライダーとは。
しかもこのルパン、「強盗紳士」ルパンのイメージに忠実に、人殺しは嫌うという人物で、そこまでの悪党ではありません。
ひょっとすると今後の復活を匂わせる様子もありましたが……

それから、内容的にも本編の現在放送中の箇所としっかりリンクしていて、TVシリーズ本編でも先日(14日)明かされたばかりであるベルトさんの正体(元は人間で、ドライブシステムおよび敵のロイミュードを運だ科学者)も触れられました。


――と、大きく雰囲気の違う二作品が最後で合流し、両ライダーが手を取り合って戦うという「MOVIE大戦」のフォーマットは変わらず、むしろ今回は「MOVIE大戦」初期に近いオーソドックスな形に回帰しています。
映画では新フォームが先取り的に登場したり、映画オリジナルフォームが出たりとありますが、今回は何と鎧武とドライブがお互いの力を交換したオリジナルフォームになります。
ただこのフォームが凄く奇抜であるとか、そもそも(去年に引き続き)夏の映画にドライブが出演していないので両者が初対面であるとか(だから自己紹介も難しくなります)いた理由で、『鎧武』TVシリーズ本編の初期を思わせるコミカルなノリになっていますが……

それから、『ドライブ』の2号ライダーである仮面ライダーマッハも登場、ドライブたちと直接顔は合わせませんが、苦境にあるドライブを影からアシストするような活躍を少しだけします。
「MOVIE大戦」における放映中番組の方の2号ライダーは、そもそも2号どころかもっとたくさんのライダーが登場する『鎧武』は別にして、『W』のアクセル、『フォーゼ』のメテオ、『ウィザード』のビーストは最後で存在を仄めかすだけでしたし、(エピローグではなく)映画の中で登場するのは『OOO/オーズ』のバース以来でしょうか。バース程に出張ってはいませんが。

まあ「MOVIE大戦」のクオリティとしてはいつも通りでしょう。
最後の「MOVIE大戦パートがかえってコミカルで気の抜けたノリになっているのはご愛敬で。


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『思い出のマーニー』と西洋人コンプレックスの話

スタジオジブリ映画『思い出のマーニー』を観て来ました。

私は普段、ことさらに「ネタバレ」として追記に書くのでなければ、ネタバレは興を削がない範囲に……と考えてはいるのですが、しかし「興を削がない範囲」といってもどのくらいなのは、判断が難しいことはあります。今回もそうですが――何しろ、私自身はほとんど前情報なしで観ているわけですし――、まあひとまず行ってみましょう。

舞台は北海道
主人公は12歳の少女・奈杏(あんな)。喘息持ちで、両親のいない彼女は、固く心を閉ざしています。
彼女がそんな風になった事情――自分を引き取るに当たってもお金のことで言い争いばかりしていた親族の姿、それと関連しての現在の養父母の愛情に対する疑い、そんなことを考える自分への嫌悪、好奇の目やお節介に対する反発等々――は、読み進めば追い追い丁寧に語られていきます。
そんな彼女は夏の間、喘息の療養のため、田舎に住む養父母の親戚の下に行くことになります。
これがどこか『風立ちぬ』の時代の結核の療養を思わせる設定で、今時そんなことがあるかな、と思わないでもありませんでした(携帯電話等の時代を細かく特定できるものは登場しないので、作中年代は定かではありませんが、「今時手紙なんていいじゃない」という台詞から、もっと便利な通信手段が存在する時代であることは想像されます)。
まあしかし、喘息の発作は精神的なものもあると言いつつ療養を勧めた主治医は、彼女の養父母に対する微妙な感情なども察して、その面でも環境を変えることを勧めたのかも知れません。

潮の満ち干きで大きく様相を変え、鴫(しぎ)や千鳥が姿を見せる自然豊かな湿地帯――そんな湿地の中でも外れの、潮が満ちればボートで出入りするような場所にある「湿っ地屋敷」で、杏奈は白人の少女マーニーと出会い、友達になります。

私は普段、ことジブリ映画に関してはほとんど原作を気にしたことはなく、今回も同様です。ただ、パンフレットにある三浦しをん氏の解説によれば、今作の筋書きはかなり原作に忠実とのこと。
ただもちろん、原作はイギリスの小説ですから、舞台が日本になっているのは改変点です。

米林宏昌監督は『借りぐらしのアリエッティ』に引き続き、西洋小説の舞台を現代日本に移し変えた作品を作ってきました。2本であれこれ言うのは早計かも知れませんが、これは作風でしょうか。

内容に戻りますが――杏奈とマーニーの出会いは非常に幻想的です。
そもそも今は誰も住んでいないはずの湿っ地屋敷に明かりが灯っているのを見た、という描写に始まり、やがてその屋敷でマーニーの一家が豪華な舞踏会を開催していたりするわけです。さらには、直接マーニーと会うまでに夢の中でその姿を見ていたり、マーニーと遊んでいたはずが夢落ちのごとくに湿地周辺で目を覚ましたりする(これは、穴の中でトロロと出会ったメイが庭の藪の中で目を覚ますのと同質の描写です)描写があって、マーニーがこの世の存在でないことは割と容易に察せられます。その点、本作の伏線は割と読みやすいものです。

思えば、『アリエッティ』の時にも「全ては翔という少年の妄想」説は見た覚えがあります。
その上で、たとえ妄想であろうと現実であろうと、「一人の少年が生きる勇気を得た」いい話として成立しているところが素晴らしいところなのですが。その点では今作もそれに通じるものがあるのかも知れません。
ただ『アリエッティ』の場合、そうした読みを積極的に示唆する要素もほとんどなかったのに対し、今作『思い出のマーニー』はもっと明瞭です。それはやはり、原作の設定が明確にそうだから、なのでしょう。

さて、素敵な家で家族に恵まれたマーニーのことを羨ましいと思う杏奈。
けれども、マーニーにも辛いことがあったのを知り、一方が他方を羨む関係は逆転し、お互いをかけがえのない相手と思う二人。杏奈が表情豊かになっていく様が生き生き描かれている――のですが、しかしマーニーの存在の非現実性を考えると、これはかえって現実逃避であり閉ざされではないか、という思いも芽生えます。
しかし、ここで重要なのが、杏奈を「あなたマーニーでしょ」と呼ぶ少女彩香(さやか)の登場。
マーニーを接点としての杏奈と彩香の友情――つまり、夢と理想の世界の友情から現実の友情への帰還を描くところが、本作の素晴らしいところです。
その意味で、終盤、彩香と楽しそうに笑う杏奈の姿を見るのは、本当に感慨深いものです。

しかも三浦氏の評によれば、その辺の繋がりは原作よりも巧みになっているとか。

 原作は、イギリスの児童文学『思い出のマーニー』(ジョーン・G・ロビンソン/松野正子訳・岩波少年文庫)だ。一九六七年に出版された小説だが、いま読んでもまったく古さを感じない。複雑な家庭事情と感じやすい心を持つアンナが、田舎へ療養に出かけ、「湿っ地屋敷」に住む不思議な少女マーニーと出会う。映画版も、舞台を日本に移してはいるが、展開やセリフは原作に比較的忠実である。
 だが映画版には、細心の注意を払って、非常にうまく原作を改変した点ももちろn存在する。原作でプリシラ(映画版の「彩香」に相当する人物)が本格的に登場するのは、物語の後半だ。それゆえ原作は、「アンナとマーニー」「アンナとプリシラ」と、構成的には大きく二つのパートに分けることができる。映画版は、この分断を生じさせない構成を取っており、物語は観客の心をつかんだまま、ラストまで一息に走り抜ける。
 (三浦しをん「「いま」を生きるすべてのひとに」、映画パンフレットより)



映像の素晴らしさは言うまでもありません。
人物の生き生きとした動き、湿地の自然描写、廃屋の洋館に現れる人々というホラーじみた舞台設定で描かれる美しい舞踏会の有り様、そして終盤の本当に怖い嵐の日――いずれも圧巻です。


――と、見事な作品なのですが、以下では、英文学の舞台を日本に移し変えたことによって入ってきた、ある美意識に関わる要素に触れたいと思われます。

マーニーは作中でも抜きん出た美少女として描写されています。
杏奈も顔は十分に美少女です。青い瞳を好奇の目で見られることを嫌がるシーンはありますが、「自分が嫌い」という時にことさら容姿のことを考えている風ではありません。それでも、浴衣を「似合うわけないじゃない」という場面もありますし、自分の容姿をあまりよく思っていない気配は窺えます。
髪は短めのくせ毛で、服装はほとんどつねにボーイッシュな格好。「自分には女の子らしい可愛さが足りない」と思っている可能性は容易に想像できます。

思い出のマーニー
 (パンフレット表紙。左が杏奈で右がマーニー)

杏奈のマーニーに対する想いが「友情」という枠に括り切れるのかどうか、原作からの微妙な改変によって導入されたものをも含めたその機微に関しては、これまた解説の三浦しをん氏が論じています。
私と三浦氏の解釈は必ずしも一致しませんが、ここには相当に複雑な心情が読み取れるのか確かです。
杏奈がマーニーの内に、「理想の女の子」を見ていた――つまり一種のナルシシズム――と考えることに、さほどの無理はないように思われます。

そして、現実で杏奈の友達になる少女・彩香は、眼鏡をかけた野暮ったい感じの外見です。年齢は分かりませんが、話している場面を見るとほとんど年齢差はなさそうに見えるのに、身長も頭一つは低く子供っぽい体格です。

思い出のマーニー 彩香
 (パンフレットより)

私個人としては、眼鏡を容姿のマイナス要素だとは思いませんし、動いている彩香の可愛さは映像をご覧になれば分かります。しかし、彩香が――そもそもこんな丸い眼鏡は今時ないだろうという疑問をも振り切って――「地味で野暮ったい容貌」を念頭に置いてデザインされていることは確かだと思われます。

これに相当する要素が原作にどれくらいあるのか知りませんが、ここに日本人と白人の対比を重ねて読み取る“ことができてしまう”のは、舞台を日本にした映画ならではの点のはずです。

かくして、「理想的な女の子」と「現実の友達」の差に、白人と日本人の差が重ねられているのではないか――
まさしく白人コンプレックスです。

ただ本作の場合、杏奈にも青い瞳という西洋人的な要素はあるのですが、それは彼女自身にとっては「普通に生きる」ことを妨げるだけで、プラスの要素と見なされてはいません。
彼女の「普通になりたい」という願望、裏を返せば今が「普通でない」という思いは原作に由来しているようですが、ここでもプラスになり得るものがマイナスに転じるという形で、白人コンプレックスがさらに屈折した形で編み込まれて活用されているように思われます。

日本語において「日本人離れした」というのが褒め言葉になるという、他の国ではあまり見られない現象、そんな「日本人離れした」、つまり西洋人風の女性を求めた谷崎潤一郎らの屈折した美意識については、谷川渥氏が「『日本人離れ』の美学――『他者』としての肉体」(『肉体の迷宮』所収)で論じていました。
アニメ・漫画・ライトノベルでも、金髪碧眼の美少女は人気の備えです。もちろん黒髪の日本人少女に人気がないわけではありませんが、日本人以外の有色人種は稀です(漫画チックな絵だとそもそも、黒人を描いてもカリカチュア的になるか、さもなくば色が黒いだけで黒人らしく見えないことが多い――誰が描いてもとは言わないまでも――という問題もありますが、それはひとまず措きます)。

別に私は「コンプレックス」という言葉を悪い意味で使い「払拭すべし」と主張しているのではありません。
これもごく自然と演出に組み込めるくらいに定着した日本的美意識の一種だと言っているだけです。

そういう意識があるのなら好むと好まざるとに関わらず付き合っていかねばなりませんし、作家がそれを活用するのは当然のことです。

「侘び寂び」とか西洋人に対して自慢できそうなものだけを「日本的美意識」と主張して、こういうことから目を逸らすのはフェアではありません。


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ちなみに、小説『思い出のマーニー』は最近新訳が複数出ているようですが、英語の原作も来年新版が出る予定と知り、また驚きました(Kindle版はもう出ているようですが、紙の版で既成のものは見当たらず…)。

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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
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