教育の逆説

風邪が再発したのでしばらく寝込んでいました。
現在はもう平常通りです。
ただ、あまりにも寒いので動きたくないのですが。それどころか、起きていると暖房をかけない訳にいかず、電気代がかかりそうなのが気がかりです。

さて、「プロ教師の会」の諏訪哲二氏の著作はよく読んでいて、このブログで紹介するのも何度目かになると思いますが、最近出たこれも読みました。



まずは読書メーターに書いたレビューの転載から。
と言っても、本の内容に関してはこれで概ね語っています。

基本は著者のいつも通りの議論。学校教育とは近代的市民を作るためのものであり、まず学ぶ主体を作る強制的なものであるが、そこにおいて教師の力が及ぶ範囲は限られている。しかし日本が「消費社会」化して、学校にも「等価交換」の論理が入ってくるようになった…表題に関して言えば、教師は人間的に優れているからではなく、役割上敬意を払われる必要があるが、社会の変化によりそれが通用しなくなってきたとのこと。今回の特徴は著者の経歴の話が多いことか。概ねは同意するが、理論面では主体を作るという逆説をもっと追究したくなるが…。


やはりポイントは、「主体を作る」ということです。

A:「もっと自分で主体的に考えて行動しろ」 B:「はい、仰る通りに主体的にやります」では、Bは全然主体的でないのは明らかです。
このように、主体を作るというのは逆説を含みます。

もちろん、私が私であり、主体的であり、自由であることは、私自身が主体的に、自由に選んだことではないというのは当たり前のことであって、これは哲学的には自然な帰結です。しかし、神ならぬ人間が他人を形成する「教育」という場面においては、その逆説が表面に出てきます。
実際、諏訪氏は一方では「教育は近代的市民としての主体を作るものであり、強制である」ことを強調し、他方では「子供たちはすでに主体として学校にやって来るのであって、彼らが主体的に学ばなければ教師が何をいくら教えても学べない」と述べます。
それは「近代」そのものに対する両義的な評価に繋がっており、日本では'70年代に「近代化」が完了し、「近代的個人」としての子供たちが登場したことこそ現代の教育問題に通じている、と言う一方で、別の著作では「本当の近代的個人とはこのようなものではないとも思った」と書いています。

もちろん、諏訪氏は「逆説」を強調するわけではなく、ましてやどこかの哲学者のように「現実とは矛盾なのだ」と言って済ませることはしません。そういう撞着表現は便利である代わりに、何でも言える形式に堕しがちですから。
ただ、氏が語ろうとしている事態はやはり、逆説的です。

諏訪氏の議論が何とでも言える撞着表現に陥らないのは、氏の教師としての実感に支えられて、そこから空虚な形式として暴走することがないからです。裏を返せば、ひとたび理論的に考え始めると、微妙な問題は付きまといます。

あるいは、これは外面と内面の区別で説明できるかも知れません。
たとえば、今回の著作にある例ですが、子供たちが喫煙などの悪事を働いて、たとえ叱られても内心では悪いと思っていない場合――諏訪氏によれば、教師はそう思っている子供の内面にまで手を入れることはできませんし、またそうすべきではありません。ただ、外に現れる行為において「そういうことをしないように」と教えるのです。
とは言え、そうした規範を教えることは、やはり究極的には規範の内面化に繋がりますし、またそこを目指さざるをえないように思われます。実際、学びに関して「学ぶ主体を作る」というのは、そういうことでしょう。

ですから、諏訪氏の主張はその具体性においては概ね賛同できるのですが、理論的には難しい問題を残していきます。
(そして、哲学の徒というのは実践の役には断たない理論的なことを気にしたがるものです)

諏訪氏の論の両義性は、ヘレン・ケラーの事例を語る箇所によく現れています。
「外部を持たない」で「野獣のよう」に生活していたヘレンに対してサリヴァン先生が、たとえばナプキンを付けてスプーンでお菓子を食べるといった「不自然」な「文化」を教え込み、そのために幼いヘレンを力尽くで屈服させる過程を、諏訪氏は「教育とは強制である」ことの事例として挙げます。
ただ、氏の語るヘレン・ケラーのイメージはあまり映画『奇跡の人』のイメージに引きずられています。

実際のサリヴァン先生の書簡を見ると、当初のヘレンは「めったに笑いません」し、「ひどく短気で、わがまま」(『ヘレン・ケラーはどう教育されたか ―サリバン先生の記録―』遠山啓序・槇恭子訳、明治図書、1996年改版、p. 13)という記述はあり、またヘレンの成長を語るのに「二週間前の小さな野生動物は、やさしい子どもに変わりました」(同書、p. 24)とも書いていますし、また食事の時に何でも、他人の皿からでも手摑みで取って食べていたこと、そんな彼女に食事を作法を教えるために格闘したこと、まず「服従」を教えねばならなかったことも書かれています(同書、pp. 19-20)。しかし、他方で出会ったその日から「持ち物を片付けるのを手伝ってくされました」(p. 12)という記述もあり、また、うなずくことが「あげる」合図になっていたともあります(つまり、ちゃんと自分と他人の所有権を理解している)。「外部がない」「野生動物」のような生活だなんて、とんでもない。
それまでの境遇を考えれば、ヘレンが例外的に優秀でよくできた子だったことは、間違いありません。

フィクションとしての『奇跡の人』の主人公は、ヘレンに奇跡を“起こさせた人”、すなわちサリヴァン先生です。
その場合、当初の野獣のようなヘレンからサリヴァン先生の教育によってコミュニケーション可能な少女へと成長した姿のギャップが大きいほど、物語は感動的になります。だから演出家も脚色するのでしょう。
しかし、この面を強調しすぎると、まるでサリヴァン先生が材料をこねてものを作るようにヘレンを「作り上げた」イメージになり、かくして「教育はいつもそう上手く行くわけではない」「子供は意のままに育ってくれるわけではない」ことを忘れがちになります。
諏訪氏もそれをよく分かっているのでしょう、ヘレンの事例について紙面を割いた後、

 サリヴァン先生は強固な意志を持つ教育者ではあるが、三重苦の少女がヘレンでなかったら、彼女の労苦は報われなかったかもしれない。(……)
 (諏訪哲二『尊敬されない教師』p. 150)


 もうひとつ考慮しなければならない点は、ヘレンとサリヴァン先生の関係は一対一の「師と弟子」の関係であり、学校の「(たくさん居るなかの一人の)教師と生徒」ではないことである。(……)
 (同書、p. 151)


と二重に留保を付けます。
氏の論点からすれば、ヘレンの事例はあくまで「教育とは強制である」という事例であって、それが「いつも同じように上手く行くわけではない」こととは何ら矛盾しないのでしょう(実際、論理的には何もおかしなことはありません)。
しかし、「これが教育だ」と言わんばかりに一つの事例に頁を使った後で、「この教育的実験はある普遍性を持つが、同時に、一つの偶然性でもある」(同所)と、そのモデルとしての意義に留保を付けられては、読者としては煮え切らない思いでしょう。


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なんともこの雑多さ

そう言えばここ最近、映画を観てもその感想もあまり書いていません。
アニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』も観ましたが、何も書きませんでした(『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』のスタッフ作品、というのが売り文句の一つでしたが、『あの花』の方は観てませんし――まあそれはまた別の話ですが)。

作品自体が良かったかどうかと言えば良かった――と断った上で、以下は作品そのものからすると脇の話にありますが……

ヒロイン・成瀬順の両親には結構な不快感を感じました。
母親に関しては、離婚して一人働きながら子育てをして疲れもあり、あれくらい言いたく時があるのはおそらく世の多くの母親に共通しているのは分かります。ただ、喋らない娘に「人前に出ないで」と言って来客も無視するよう言っているのは、体面ばかり気にしていると思わずにはいられませんでした。

まあ、母親については、最後に娘の想いを知る場面のカタルシスがあるので、良しとしましょう。
最悪なのは父親です。
そもそも話の発端は、この父親が丘の上のラブホテル(城のような建物)に浮気相手の女性と入っていくところを幼い娘に目撃され、その「お城」がどんなところか知らない娘の無邪気なおしゃべりのお陰でそれがバレて離婚にまで発展したことです。
そうして家を出て行く父親が去り際に娘に向かって吐いた捨て台詞が「全部お前のせいじゃないか」――順はこのトラウマで喋れなくなった、という設定ですね。

私は下衆な悪役の類が出てきても、不快になることはあまりありません。それはそういうものだと思っていますし、それに徹底して外道ならむしろ清々しいものがあります。
この父親はそういう突っ切った悪人ではなく、被害者面をしている、しかも大人が子供に向かって、というのが何とも神経を逆撫でするものがあります。

ここで唐突なようですがふと思い出したのが、『鉄鼠の檻』の博行(はくぎょう)和尚です。
彼は幼女強姦魔である上、そんな自分から逃げて暴れる最低の人間です。
しかしだからこそ、そんな彼が問答して自らを語り、榎木津に「僕はあんたみたいな卑怯者が大嫌いだ」と断罪され、そして自分と向き合って悟りに至る過程は心を打つものがあります(もちろん、悟りがどんなものか読者には分かりませんが、悟りというのは基本的に「自己」ですから、彼はようやく自分と向き合って受け入れたのでしょう)。
(『鉄鼠』における倒錯者たちの苦悩を描いたドラマについては、「何ゆえにかくも哀しいか」の記事を参照)

対して、順の父親は反省とかいう以前に、もうその後登場すらしません。
第一、自分が浮気をしておいて子供を責めて去るような男が、果たして自分の責任や妻と向き合って家庭を復旧する努力をしたのかどうか、かなり疑わしく思わずにはいられません(もちろん、夫婦関係を普及しようとするも妻は聞く耳を持たず、倦み疲れた末にこぼした言葉、という可能性もありますが、そういう可能性を積極的に支持させる要素が一つもないのは事実です)。
まあ話の展開上、順の父親はまさにそのためだけの道具立てなのだから仕方ないのは確かであって、これは作品の是非とは別問題です。

ただ私はここで、特定作品の話にとどまらず、現実のニュースのことを考えてしまいます。
自分のことを棚上げして被害者面で捨て台詞で子供を傷付けて去る父親が、「自分はまともです」という顔をして「あいつらは異常だ」という暴言・差別発言を吐ていく人の姿と重なるのです。

許されぬ煩悩(『鉄鼠』の主題は禅なので、あえて仏教用語で言いましょう)を抱えて、「そんな自分は何なのか」と苦悩し、しかしそれをあれこれと語ること自体がまたそんな自分からの逃避を含んでいるような、そんな博行和尚の姿は共感できるものがあります――たとえ犯した罪は許されぬことだとしても。
対して、「自分は正常で、負い目はなく、相手を貶める権利がある」という顔をしている人間に対して、――たとえその貶めている相手が実際に何らかの罪を犯していようと――それよりも共感できることは決してない、と言わせていただきましょう。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(『嘆異抄』)



 ~~~

それはそうと、折角なので昨日の続きで読書メーターからのレビュー抜粋、今回はもっぱら学術書です。

【人文学】


プラトン、ゲーテ(古典テクスト伝承の問題)、『新約聖書』(聖典)、中世のチョーサーと近代のムージル(元々編集によって多様な姿を取る可能性を持った作品)、シェイクスピアとワーグナー(演劇の上演とテクスト化の問題)、フォークナーのモダニズム文学とニーチェの遺稿編集、そしてカフカという事例による編集文献学入門。各事例のテクスト編纂史は詳細で、オリジナルの現存しない古典から執筆経緯のよく分かっている現代作品までそれぞれに様々な問題があり、「本来のテクスト」を復元するという発想の限界も教えてくれる。良い一冊。


ある人の思想を研究するなら、著作によって違うことを言っていることもあるので、やはり全集で見落としなく読んでおきたいところ。
しかし「全集」といっても実は様々で、網羅的ではない場合もありますし、編集方針の問題もあるので、やはり批判校訂版を、そしていずれの版も十分ではないとなると複数の版を合わせて読んで……、と真面目にやり始めるとキリがないのですよね。



数々のユーモラスな画で知られる禅僧・仙厓義梵の作品を読み解く。全体にくだけたトーンの語りで、しばしば完全に筆者の創作で制作の背景を想像する、果ては後で「これは嘘である」と言う等自在だが、それが仙厓の作風によく合っているし、技法分析は的確で、その深読みには一定の説得力もある。簡潔な伝記という点でもちょうど良い。タイトルは○△□のみを描いた、仙厓を代表する1枚から。考えると難解だが親しみやすいのが彼の絵の特徴。各頁の隅に仙厓画に基づいたイラストを入れる仕様も凝っている。


これも随分昔に買った覚えのある本ですが、今になって読了したのは「禅」繋がりで、下記の『十牛図』が授業の演習で扱われて読むことになった、というのが一つのきっかけです。



前半は上田の論攷。禅の悟りに至る道程を描いた十牛図を、悟り=真の自己ということで「自己の現象学」として、西田に淵源する京都学派の哲学的に解釈、著者独自の「自己ならざる自己」を読み取る。ブーバー、エックハルト、ニーチェ等西洋哲学との比較、そして第八~十図を一つの境地として、哲学の主題としてはいずれかに偏しやすい自己・自然・他者を同列とする贅沢さ。後半は柳田による十牛図の序・偈頌の解説、そして十牛図の歴史的成立を含む解題。こちらも資料として満足の出来。図版も冒頭の周文画と後半の廓庵版画で見比べてみる価値も。


上田閑照先生は私の所属する研究室の元教授、つまり大先生ですが、字数制限により敬称略。
ちなみに私の《十牛図》との出会いはたしか中学時代、まさに上述の『鉄鼠の檻』でした。
色々と思い出深いテーマです。

上田先生は参禅経験はあるものの禅者そのものではなく、まさに哲学者。
本来言葉にならないとされる禅を哲学(京都学派の哲学自体が、半ば西洋哲学の言葉に独自の概念を加えたものですが)の言葉で解釈したもので、多少の哲学知識がある人向けでしょうか。
もちろん禅本来の文脈からすると独自解釈も多いのですが、哲学の難しさに付き合う気のある人にとっては行き届いたなかなか一冊だと思います(ちなみに《十牛図》で調べてみると、この京都学派流解釈が結構な影響力を持っていることに気付きます)。



レヴィナス『存在の彼方へ』。全体に繰り返しが多く間違い探しの気分。自我の成立から他者との出会いと一応道筋立てていた初期著作~『全体性と無限』のような体系性にも乏しく、そうした他者の受け入れを可能にする自己の構造をひたすら遡って記述している。主体は他者との対話関係において成立する「言うこと」として捉えられ、意味の成立も「可傷性」として感受性に遡って記述される。起源を遡った到達点は自律した始原ではなく他者に召喚されて成立する主体という逆説的「無始原」……総括しづらいがようやく後期レヴィナスの概要は押さえた。


最近色々あって、レヴィナスに関する論文を書くことになったので慌てて勉強していたり。
邦訳は下記↓




ポアンカレ『科学と仮説』。ポアンカレの科学認識論集第1弾で、数(代数)、空間(幾何学)、力(力学)、自然(物理全般)の4分野に分けて収録。直観的次元からの高度に抽象化された科学的認識の発生を論じつつ、その成立に当たって「慣習」に大きな役割を認める。数学基礎論における直観主義の代表とも言うべきその思想や非ユークリッド幾何学に関する議論は実に参考になった。終盤の電磁気学論や最終章「物質の終焉」は相対性理論とちょうど同時期だけに議論中途な部分も多いが、それだけに当時の科学の状況を生で感じさせ興味深い。


これまた最近の研究テーマと関係があり。あくまで論集であって個々の論攷を別々に読んでもある程度までは通るので、過去に部分的に読んでいたこともありましたが、この機に読了しました。
邦訳は下記↓




ポアンカレ『科学と仮説』の註釈書。まず当該書が特定の哲学を体系的に主張せんとするものではなく、あくまで科学論のエッセイを集めたものであるという性格を確認の上、もっぱら幾何学と物理理論という二大トピックに分けて論点を丁寧に示す(代数論はあまり扱わず)。ポアンカレの鍵概念「慣習(convention)」の多義性と射程、伴う難点についても明瞭に解明。後半の主要テクストを引用しての註釈と用語解説も有難く、優れた手引きだった。なお最近書いた関連するテーマの論文に大きな影響が無さそうなのは私には幸いであったのか。


で、その註釈書も合わせて。
実は著者のデューリング氏が近々来日予定なので、話を伺えるといいのですが。



ちょうど相対性理論に関わる研究課題があったので読んでみる。アインシュタインが一般相対性理論を完成した1915年当時の私生活にまで立ち入った理論の誕生秘話、彼の思索の特徴と射程、現代的意義、そして第統一理論の現在等。ヒルベルトとの関係とか興味深いトピック多し、関連資料の案内も良かった。偶々冒頭のノーベル賞特集がニュートリノの質量の発見という、大統一理論の先に関わる話題でいいリンク具合。陽子崩壊が観測できなかったこともあり、標準理論から先は大幅見直しを求められる時期なのだろうな。物理以外の記事も興味深かった。


ポアンカレは傑出した数学者・物理学者でしたが、上の『科学と仮説』はあくまで科学論で、哲学の視点からも読める著作。
それに対しこちらは純然たる科学誌です。
最新号がちょうど相対性理論という、関連性もないでないテーマだったので(ポアンカレもアインシュタインと同時期に、相対性理論のアイディアそのものには到達していた人物です)。


【生物】


クモに寄生するクモヒメバチの研究。その生活史、網を張っているクモを襲撃するやり方、クモがすでに寄生されていた場合の排除(子殺し)、通常通りに活動しているクモの(体内ではなく)体表に幼虫が張り付くメカニズム、クモを操って蛹化のための網を作らせること、そしてインドネシアでの分布研究…このシリーズの例に漏れず著者の研究歴や研究の苦労、論文投稿の過程等もあって面白い。途中の寄主たるクモの分類と紡績腺の説明も手頃なまとめ。後はやはり、クモを操るメカニズムの解明が期待されるところ。


やはりこの「フィールドの生物学」シリーズはいいですね。生協で東海大学出版局の本がセールになっていたこともあり買ってしまいました。
獲物を麻痺させて巣穴に運び込む「狩りバチ」に関してファーブルの『昆虫記』で馴染みがありましたが(もちろん、ファーブルの字だから100年以上経って多くの研究が進んでいますが)、麻痺させずに体表に帰省する寄生バチについては(図鑑で存在は知っていた覚えがあるものの)研究書を読むのは初めてです。

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我ながら何を読んでるんでしょうか

本ブログは普段、外国語を読める読者を想定して書いてはいないので、邦訳のない本を紹介することも控え目にしてきたのですが、結構面白いものを色々と読んできましたし、どうせ他に書くネタも不足気味なところですので、ちょっとこの機に取り上げてみることにします。
ただし、特定の哲学者に関する研究書(いわゆる研究における二次文献)は、専門家以外興味がないと思われるので割愛。

本の下に引用形式の囲みを付けて載せたのは私が読書メーターに書いた感想。
その下が今回ブログに書くに当たっての補足です。


まずは英語から。


19世紀から20世紀前半にかけての数学と、その基礎付けに関する思想の動向を辿り、哲学や心理学にも言及、数学を形式的・自律的に捉える「数学的モダニズム」を浮き彫りにしつつ、そこに生きている「数学的プラトニズム」の実態の示す。モダニズムを規定する複数の項目全てが登場する主要な思想家に当て嵌まる訳ではもちろんなく、そこに問う余地のあることも多いし、芸術等他分野との関係については最初に軽く触れただけの感。しかしこの時代の数学に関わる主要な思想家をコンパクトに紹介しており、非常に優れた手引きとなる。力作。


大学のとある先生が授業で紹介していた本。紹介されたのは数年前ですが、ようやく読了しました。
著者のジェレミー・グレイは現代を代表する数学史家であり、本書も基本は数学史の研究書と言っていいでしょう。
もちろん、歴史研究においても研究者の史観はつねに問題になるわけで、「モダニズム」という史観と数学の基礎付けにおける「プラトニズム」への注目が著者の独自の視点と言えましょう。
ただそれ以上に、この時代の数学思想に関わった厖大な思想家に関するガイドとしても、きわめて優れた一冊です。

なお「数学的プラトニズム」というのは、(かつて私も「二つの現代的プラトニズム」で少し触れたことがありますが)大雑把に言えば、数学的対象が物体などと同じように――あるいはそれ以上に――客観的に存在しているという思想、とひとまずは言えます。
数学者には実際そういうことを言う人がいますけれど、一般には、素朴な意味でも哲学的意味でも、現代においてこうした考えが文字通りに受け入れられることは少ない、と考えられています。
しかし著者は、ある意味でのプラトニズムが根強く生きていることを指摘、これがタイトルの『プラトンの亡霊』なわけですが、これまた非常に興味深い論点でした。


以下はフランス語の本です。


現代フランスの哲学者ジャン=ルイ・ヴィエヤール=バロンが、エマニュエル・トゥルプとの対談で語る、家とルーツと家名の由来から哲学との出会い、そして魂、神という哲学的問題を巡る思索。ベルクソン、ヘーゲル、ラヴェルに大きな影響を受け、プッサン等の芸術にも強く傾倒する彼の思索は、そこまで独自ではないものの割と面白かった。マイナーな哲学者であるルイ・ラヴェルの思想に関する解説も興味深い。それと、知己のある相手として歴史上から現役まで(素人でも知ってるほどではないにせよ)そこそこ知られた次々名前が出てきて衝撃。


それこそフランス哲学研究者以外にはそれほど縁がないかと思いますが、著者は今のフランスではそこそこ有名な哲学研究者のようです。
著者の本はいくつか読んでいたものの、氏自身の思想に特別興味があるというわけではなかったのですが……気が付けば一気に読んでしまいました。
少年時代にベルクソンの直弟子であるジャック・シュヴァリエ(↓)と出会ったことから始まり、ゲルー、それに下記のフィロネンコといった20世紀を代表する哲学史家の講義を受けたといった話が出てくるのですが……やはりちょとマニア向けの話ですねこれは。



「テクノサイエンス」とは何か、現代思想が科学・技術を論じるに当たって多様な意味合いで用いられるこの概念についての論攷。第一部では「認識論的観点」での理解、一つの「世界観」としての捉え方、そして「形而上学的射程」という三つの意味を区別。第二部では「ゲシュタルト」としてのこの概念が担う肯定的・否定的両面の含意を扱う。著者独自の論は少ないが、もっぱらフランスにおける現代科学・技術論の案内としては手頃な一冊か。補遺に数学基礎論に関する話も出てきたがさほど掘り下げがないのが惜しかった。


これも結構以前に買ってあったものですが、国際シンポジウムで著者のセバー先生ご本人とお会いしたのを機に読んでみました。
むしろこの本の内容に近いテーマでセバー先生が行った発表(私の研究分野にも近いものあり)は東京で行われたので聞けなかったのが残念ですが……。



モハメド・アリの評伝……と言うには彼の生涯を網羅的にカバーしたものではなく、当時のアメリカにおけるボクシングの位置付け(アメリカ的暴力の発露の一つ)という社会的背景から始まり、フレージャー、フォアマンとの熱闘、そしてパーキンソン病で締める。目に付くのは彼のイスラムへの関わり、もっと言うと宗教的・社会的コミットメントへの論究で、学術書に比べると「私」の出たエッセイ的スタイルであるものの、確かにこれは哲学史家によるアリ論だ。ただ読むにはアリの生涯について予備知識があった方がいいかな。仏語での拳闘用語は覚えた。


著者のアレクシス・フィロネンコは有名な哲学史家で、カント研究から始まり、近代ドイツ系ではショーペンハウアー、ニーチェ、フランス系ならばルソー、ベルクソン、さらには古代のプラトン、アリストテレス、プロティノス、中世のマルシーリオ・フィチーノまで実に多様な哲学者に関して数多くの研究書を出しています。
さらにボクシングファンらしく、『スポーツと人間』『ボクシングの歴史』などの著作も出しています。前者はまだ哲学的テーマとも言えますが……

そんなわけでのモハメド・アリ伝です。
哲学研究よりはまだエッセイ的なスタイルが混じりますが、しかし確かに「モハメド・アリとは何者だったのか」を論じた研究書という雰囲気がありました。

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ああ過剰反応

相変わらず今一つ物事の進まない日々で……洋書を読むのを中心に転換を図っているということもあるのですが。
そんな中で、こんなニュースを見ました。

 ツイッター:頭蓋骨模型にたばこ 投稿した学生処分へ

歯学部の学生が頭蓋骨模型にタバコを加えさせて写真を撮影、ツイッターに投稿したので処分された、というニュースです。

正直なところ、私にはさっぱりわけが分かりません。
ものは献体ではなく模型であり、しかも学生が各自で購入したものであって、大学の備品でもありません。しかも、タバコをくわえさせたところで模型に何かが起こる訳でもありませんから、授業に差し支えるようなことをしたわけでもないでしょう。
なぜそれに「厳重な処分が必要」が必要なのか。

 同大は投稿発覚後、2年生約70人の頭蓋骨の模型を回収し、「模型などのインターネット上への投稿を控える」とする旨の誓約書を書かせた。


学生が各自で購入した模型をあたかも違法物品のように「回収」までするとは、なぜここまで大騒ぎしているのでしょうか。
まるでこれでは学生が模型を持っていること自体が拙いかのようではないですか。だったらそんな模型を買わせるなと言いたい。

さらに、今回は「タバコをくわさせる」という「悪ふざけ」の要素があったことが問題かとも思われるのですが、「“模型などのインターネット上への投稿を控える”とする旨の誓約書」であれば、それは関係無いようです(まあ、「悪ふざけとは何か」と問われると難しいことになりそうですが)。
しかし、だとすると単に「大学ではこういう模型を使って授業をやっています」という投稿をしてもいけないことになりますが、それで何か拙いことがあるのでしょうか。
ならばまずはオンラインショップに抗議していただきたい。



学生がこういうことを軽い気持ちでやっていると、その内表に出すべきでないものまでネットに晒すようになる……という判断に基づいた予防措置なのかも知れませんが、それについて学生に釘を刺しておけば十分であって、この程度の投稿に対し予防措置で「厳重な処分」はいかにもやりすぎです。

大学の先生というものが雑務に追われて忙しいという話を日々聞いている身としては、こんなことを教授会で話し合いさせられる先生方が憐れでありません。

まあつまるところ、「医療従事者たるものわずかな悪ふざけも許されない」という確固たる教育方針を以てやっているのなら、それでもいいのです。
この場合、どうも「ツイッターを見た市民からの問い合わせ」があったから、対応としてやっているのではないかと思われて、それに何とも呆れてしまうのです。


ちょうどこのニュースを見たのが、この本↓を読んでいる最中だったのは何の巡り合わせでしょうか。



本書の目次は以下の通り。

第1章 過剰反応社会を象徴する現象
第2章 身近にもいる過剰反応な人々
第3章 過剰反応の心理構造
第4章 過剰反応を生み出す社会
第5章 過剰反応を防ぐために


第1章では、「子供が昆虫写真が嫌でノートが持てない」といったクレームによりジャポニカ学習帳の表紙から昆虫写真が消えた、といったニュースにもなった事例が取り上げられています。
第2章では特定の事例というよりも、そこかしも見られる類型的な事例――人為ではどうにもならない天候や事故による交通機関の遅れで駅員に対して声を荒げる人など――が取り上げられています。
著者の本職は心理学ということで、第3、4章の分析が本業なのかも知れませんが、――心理学にはそれを言い表す様々な固有の用語があるにしても――私にはいささか凡庸なことを言っているように思えてしまったのも事実。第5章の処方箋は簡潔なものですし、具体例の第1章が一番面白かったですね。

さて、確かにジャポニカ学習帳の表紙は気が付けば花になっていました。



「一人でも嫌だと感じる人がいるのであればやめよう」ということでこうなったそうですが、だったら誰かが「花なんて気持ち悪い」と言ったら花もやめるのかと言いたい。
こういうことに声高にクレームを付けるのが著者の言う「過剰反応」ですが、それにいちいち対応するという企業側の「過剰対応」も一連も問題として著者は扱っています。

これはちょっと(かなり)おかしいという点に関しては、私も完全に榎本氏に同意します。

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『このライトノベルがすごい! 2015』

今年も『このライトノベルがすごい!』の時期がやってきました。

このライトノベルがすごい! 2015このライトノベルがすごい! 2015
(2014/11/21)
『このライトノベルがすごい!』編集部

商品詳細を見る

 (前年号の記事

昨年から表紙にランキング一位作品の名前を載せるようになりましたが、これがネタバレであることを問題視したのか、今年は書影のその部分が白抜きになっています。
ただ一手遅く、白抜きになっていない書影が出回った後で慌てて差し替えられたのですが……
(差し替えられる前の書影を私はたまたま保管していました↓)

このライトノベルがすごい! 2015




実は私、今年は「協力者」枠で参加したため、一週間ほど先に献本を頂いていました(なので、当ブログの名前とURLもちゃんと載っています)。ただ、「ランキング内容については11月21日まで外部へ公開しないように」という話だったので、本日まで先送りさせていただきました(ランキング内容に触れない話に留めてもある程度の記事は書けますが、まとめてやりたいですし)。

実のところ、協力者参加の依頼が来た当初はどうしたものかと思いました。そもそも『このライトノベルがすごい!』についてもあれこれ批判してきたので声はかからぬものと どうも、書評サイト・ブログの類を持っていて、それをHP投票で申告すれば、翌年には声がかかる可能性が高いようです。
忙しい中、ライトノベルに限れば大した量を読めていないという思いもありますし、第一私の好みと立場が偏っていることは言うまでもありません。そもそも、私の長ったらしいブログ記事を読んでいる人間が果たして何人いるのか……だから、オタク系のコミュニティから相手にされたこともありません。
しかしまあ、そういうひねくれ者が参加することにも意味はあるかも知れない、と思ったわけです。だから、参加しつつ、小言も言わせていただくことにしました。

その結果は……私の投票した5作品の内、60位入りは2作品、20位以内はゼロです。去年を下回っています。
これで良かったのかも知れませんね。
「自分が言わねば誰が言う」という思いこそ、こんな長ったらしい語りの原動力ですから(あえて奇を衒って人と違うことを言う、というのでなしに)。

さて、私のことはともかく内容に入りますが、ランキングを見ると、4位まではアニメ化もされた有名作品ですが、5位からは一部にカルト的人気のマイナー作品がいくつも見られます(当然、ほとんどが協力者票)。
ただ、「好きなライトノベルを投票しよう!!」のような Web 上での人気投票で上位に入っていた作品が多いことを考えると、ある意味では予想通りとも言えます(投票者層が協力者と被っているので、当然と言えば当然なのですが)。

今年は『このライトノベルがすごい!』11年目でリニューアルらしく、投票・集計方式は変わっていませんが、記事の形態にはいくつか変化がありました。
まず。総合ランキング30位までの作品には作品紹介がありますが、これは昨年まではほぼ投票者コメントの寄せ集めのみだったのが、今回はライターによる紹介文と投票者コメントを分けています。

このラノ2015 作品紹介

書影右の黒字部分がライターによる作品紹介、青字部分が投票者コメントです。

それから、ランキングの総評に当たる部分も、昨年までは無記名のライターによる記事でしたが、今回は勝木弘喜(ライトノベル・フェスティバル実行委員会代表)・工藤淳(まんが王八王子店小説担当)・霜戸真広(東京大学新月お茶の会)の三氏による座談会となっています。
その他、ランクイン作家インタビューも渡航(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』)氏と榎宮祐(『ノーゲーム・ノーライフ』)氏の二本があり、さらにはランキングとは別の特集が「ネット発小説」丸山くがね・蝉川夏哉という Web 出身作家お二人の対談もあるので、インタビューや対談が随分と増えた印象です。

他方で、期間内に登場した新人賞作品に関しては、昨年まではライターによる各作品の紹介文を載せていたのですが、今年は受賞作品名の一覧と主立った作品に触れた「総括」記事があるのみ。
話題にならないものもある新人賞作品に割くリソースは大幅に削減ということでしょうか。

書評家・作家などにお勧め作品三つを挙げてもらう「目利きが選ぶ! 注目の作家&作品」は消えていました。

それから、「書店売り上げランキング」も、昨年までは「とらのあな」と「くまざわ書店グループ」を対象に、文庫のBEST50とノベルズのBEST25を掲載していたのですが、今年はその顔ぶれも大きく変わり、「紀伊国屋書店新宿本店」「とらのあな」「TSUTAYA」「Amazon.co.jp」の四店舗におけるBEST25となっています。
一般書店とオタク向けショップ、ネット通販サイトとバランスの良い顔ぶれではないでしょうか(店舗により文庫・単行本合算できるところと文庫のみの集計になるところがあるやむを得ませんが)。
Amazon では限定版・特装版の売り上げが通常版を上回るという興味深い現象も見られました。

それから、本誌の後半部を占めるジャンル別の作品ガイド。
1ページ4作品でライターによる紹介文が載るスタイルは変わっていませんが、今年からページの下に投票者コメントが入るようになっています。
ランクイン作品以外についても読めるここは楽しみの一つで、ここでも投票者コメントが見られるのは良いのではないでしょうか。よく見ると私のも載っていますし

ちなみに、カラーページでの「このライトノベルがすごい!」の特集ページは削減……と思いきや、二色刷りページの中程にも宝島社の開催する「第二回エリュシオンノベルコンテスト」の受賞作紹介がさらっと入っていました。

 ―――

ここから小言になります。
まず、ランキング集計法の説明なのですが……

 好きな作品(シリーズ)は1位~5位まで、他の3種は1位~3位まで順位をつけてもらう形です。順位に応じて得点を設定し、それぞれの回答者数によって傾斜をかけ、「ポイント」として算出しております。
 (『このライトノベルがすごい! 2015』、宝島社、p. 37)


これだけ見ると、「傾斜をかけ」るのは「作品(シリーズ)」「女性キャラクター」「男性キャラクター」「イラストレーター」の全部門についてのように見えます。
しかしこの後で、「HP」「協力者」「モニター」という3種のアンケートの傾向の違いについて説明した後、

(……)これらの特性を活かすため「ポイント」を採用しました(「キャラクター」、「イラストレーター」ランキングは従来どおりの得点換算方式です)。
 (同所)


「傾斜をかけ」た結果として「ポイント」を出すこと、この得点換算方式は3年前から採用されたものであることを考えると、「キャラクター」「イラストレーター」部門に関しては「従来どおり」、つまりやはり「傾斜をかけ」ていないと思われます。

HPの投票フォームでも

「作品=1位~5位を5点~1点 キャラクター、イラストレーター=1位~3位を3点~1点」を基本とし、さらに協力者層、モニター層の回答者数に応じて傾斜をかける方式にさせていただきます。


とあって、「キャラクター」「イラストレーター」部門でも傾斜をかけるようにも見えて引っ掛かっていた(事情は協力者用投票フォームでも似たり寄ったり)ので気にかかっていたのですが、本誌を見ても相変わらず混乱を招きました。
そこで試しに昨年号を見てみると、

 3種のアンケートにはそれぞれ【[HP]投票者=現在の人気作品】【「協力者」=これからの注目作、目立たないが良い作品】【モニター=中高生が実際に読んでいる作品、定番作品】に多く票が入るという特質が表れていました。それを活かすために、それぞれの投票者数を「一定値の母数」に揃えるとい方法をとっています。実際の得点を投票者人数と「母数」の比率で換算し、これにより出た数値を「ポイント」とし3種アンケートを合算してランキングとしました(「キャラクター」、「イラストレーター」ランキングは従来どおりの得点換算方式です)。
 (『このライトノベルがすごい! 2014』、宝島社、p. 37)


と、「傾斜」の内容についての説明が詳しいばかりか、「傾斜をかけてポイントを算出する」ことについての説明が一箇所にまとめられ、アンケート方法に関する説明と離しているので、ずっと分かりやすいものになっていました。
ランキングそのものはそれが結果ならばとやかく言う気はありませんが、説明の改悪は理解できません。

それから、新作ランキングです。

このラノ新作部門(新旧比較)

左側のオレンジ色が一昨年の『このライトノベルがすごい! 2013』、右側の緑が昨年の『このライトノベルがすごい! 2014』です。
一昨年の方は、この1ページのさらに半分のみを使って、期間内の新作限定のランキングを30位(総合ランキングでは100位以下)まで掲載していました。

このラノ新作部門(2013)

それが昨年からは、書影と多少の説明文が載って2ページを費やしている代わりに、作品数は20位までに減らされています。これは今年も変わりませんでした。

私はこの一昨年 → 昨年の変化を見て、一瞬の迷いもなく「これまで存在していたコーナーを削減された」と感じました。そして、今もそう思っています。
「Yさんは頭の中が活字なんでしょう」と言われたことがありますが、実際そうなのかも知れません(もっとも、私は文字を読んでいてそれなりにヴィジュアルイメージを思い浮かべる方でもありますが)。
文字情報が増えているか減っているか、それが問題です。そもそもネットでもどこでも見られる書影や見出しなど、私の頭の中では情報の内に入りません。
いや、そこを百歩譲っても、総合ランキングだって書影と紹介文が付与されるのは半分の30位までです。ここだって、後半はそれらを削って掲載作品数を増やす手はなかったのでしょうか――

よく見ると去年も同じことを言っていたので、さすがにこの小言は今年が最後になるでしょう(来年さらに削減されていない限り)。
しかし大目に見る気はありません。

 ―――

ランキングについては追記にて。

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テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育

プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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