オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
美術鑑賞における知識について
「絵は純粋に感性だけで見るべし」と言われはじめたのは、いつの頃からだったでしょう。教養主義が「押し付け」と感じられ、反感を持たれるようになったせいか、それとも現代美術家たちによる、「何の先入観もなしに作品を見てほしい」という願いに応えるうち、近代以前の絵画までが白紙状態で鑑賞できると信じられてしまったためなのか……。
知識は決して余計なものではありません。
そのことはたとえば『四谷怪談』のお岩の幽霊画を、自分の「感性」のみを頼りの外国人の目にどう映るか、考えてみればわかるかと思います。「晴れ上がった醜い顔の、浴衣姿の女性」「病気なので両手をだらりと下に垂らしている」「足が描かれていないのは未完成だから」――背景を知らなければ、そう解釈しても不思議はない。それでもなお、色彩感覚やタッチや雰囲気さえ味わえれば十分、と言い切れるでしょうか。疑問です。
さて、芸大の先生が「本に書いてある知識よりも作品をよく見るように」と言う時は、もちろんこれとは意味合いが違います。芸大の学生、特に芸術学であれば、ここで例として上がっている「お岩の幽霊に関する知識」程度のものは当然備えているという前提の上で、さらに「必ずしも正しいと言い切れない知識」が混入していたり、知識に不十分な部分があって、そのこと自体に気付かなかったりするので、一端それを脇に置いて見ろ、ということなんですね。
それはもちろん正しいと思いますが、さらに私の考えとしてもう1つ、積極的に「知識が必要」な理由を挙げておきたいと思います。
専門家として「見識ある人」はやはり「知識がある人」な訳です(もちろん、そればかりではありませんが)。もし「知識が邪魔をして、見識ある人達が気付かないでいた問題」があったとして、まるで「知識のない人」がそう簡単にそれに気付けるとは思えません。
「知識があること」がそのまま「素晴らしいこと」なのではなくて、確かに知識が目を曇らせることもあるのですが、その上で「知識に振り回されないで考えること」を身に付けるためにも、知識は持ってみる必要があるんです。
「今の世の中ではネットで検索すれば情報は手に入るから、知識なんて身に付ける価値は少なくなった」という人は、知識を「人間が身に付けている」ことの意味を軽く見ているのではないでしょうか。
(芸術学2年 T.Y.)
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