オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
「君達ゃ、こんなことも知らんのか」
後で振り返ると、力説したはいいけれど「そこまでして勉強したがる奴いねーよ」と冷笑されるかとも思ったんですが。学習環境の話にはもしかして、需要があるんでしょうか。まあ「拍手」ボタンがクリックされたというだけでは実情は分かりませんから、皮肉で拍手がついてるという可能性も考えられますが。
とは言え、折角そういう状況で、先日は同級生の勉強を見ているという話をしましたから、その続きでもします。
まあ文法的知識からして不足してはいて、「私はパーです」とか言ってる子もいますが、そこはそうとも言い切れないんですね。その度言うのが「『たとえば「人称」「文型」「品詞」などといった基本的な文法知識のない者もいるし、三人称単数現在の場合の動詞につくSと名詞の複数のSとの区別がつかない者、発音記号の読めない者、辞典を引くのに時間がかかりすぎる者(アルファベットの順番をちゃんと把握していない)など、おそらく英語の知識が本当に中学一年生並みの学生がゴマンといる』と法政大学教授の川成洋氏がボヤいていた」という話です(『大学崩壊!』宝島社新書、2000年)。私はそこまでの事例をまだ直接見たことはありませんし。
とは言うものの「分詞」という言葉とかその使い方辺りになるとかなり怪しい、どころか本人も「よく分かりません」というケースが出てきます。今日日ちょっとやそっと「知識がない」ことには驚きませんが、それでもある種不思議なのは、「それで、今まで語学の授業がどういう風に聞こえていたのか?」ということですね。
ここに来て、今回のタイトルにした「君達ゃ、こんなことも知らんのか」という、しばしば耳にする年輩者の嘆きも少し分かる気がします。つまり、単に「知識があるのは良いことなのに、無いとはけしからん」と言っているのではなくて、それだけ知識のあり方が違えば世界の見え方もまるで違う、そこが想像できなくて驚いているんではないでしょうか。
人間というのは身勝手なもので、ものの見方・考え方が変わると、変わる以前のことは遠い世界、もう分からないことになってしまううんですね。
とは言え、「教える」にはそこにある種の「通訳」を成り立たせないといけない訳です。実際やっていると、「この様子だとここは分かってなさそうだな」というのが少しは見えてきて、事前にイメージを持って臨めるようになります(授業で扱ったテキストの追加解説なので、授業で人が「分かっていなさそうだったところ」を見ているお陰も大きいんですが)。こうして見ると、特定のポイントをよく試験に出す出題者と「ここは試験に出るから」と強調する予備校の先生の心境もある程度分かる気がします。
一学生ながらにすっかり教育者気取りで書いてしまいましたけど、いいんでしょうか。
(芸術学2年 T.Y.)
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