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我々はそのような未来を拒否する

新条例と「なぜ」の問いの続きです)

何事も根拠が大切です。
「根拠なんて挙げるまでもない。規制すべきだから規制すべきだ」が通るのであれば、「お前は死ぬべきだから死ぬべきだ」も通るでしょう。
「私の考えでは有害だ」が認められるのであれば、「私の考えによればお前は有害な人間だ」も認められます。

「いかに何でも話が飛びすぎだろう」とお思いの方、犯罪者は生存権も制限されることを忘れてはなりません。「よもや“犯罪者”の枠がそんなに急拡大されることはあるまい」…表現規制の枠は拡大されても?

現に、今や私のような働きもしない若者には風当たりが強く、徴兵したらなどと言われたりする世の中です(軍隊でも仕事をくれるなら悪くない話ですが、すぐに除隊になるところしか想像できません)。
今のまま行くのであれば、我々の行く先がガス室であるというのは、そんなに非現実的な将来像とは思えません。
その場合、真剣に日本を逃げ出す算段をしなければならないでしょう。


もう一つ言っておきますと、無論「ここ定めてある」「誰それが言っている」だけでは、根拠にはなりません。
法廷で議論するだけなら「現行法のどこそこに書いてある」だけでいいかも知れませんが、本来「その法は何のためにあるのか」という「なぜ」の問いが不可欠です。
時々言っているオリジナリティの話とも関わることですが、「自分の考え」を言っても根拠がなければ認められません。しかしもちろん、根拠というのは「他人の考え」でもありません。

たとえば――「まもなく雨が降る」の根拠として「雨雲が空を覆っているから」、これはちゃんとした根拠ですね。
もちろん、ある種の雲と雨が降ることとの因果関係は過去の多くの経験に支えられていて、かつてそれについて述べた人もたくさんいるでしょう。でも、ここでわざわざそれを引用する必要などありません。(ただ、もし「なぜその雲が出ていたら雨が降ると言えるのか」と訊く人がいたら、さらなる根拠の提示が必要になるかも知れません)
これに対して、「ゲタを放ったら裏返しになったから」は、「その説を唱えている人」がいかにいようと、おそらく認められないでしょう。「ゲタと雨との関係の信憑性は?」と言われます。

もし前回の推察通り、本当に現在の新条例のような動きが「なぜ」の問いのないまま動いているのだとしたら、そもそも法を扱うのにふさわしくない人間が法を扱っているということです。これでは法治国家も何もありません
                           (芸術学3年T.Y.)
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テーマ : 芸大・美大・その他美術系学校 - ジャンル : 学校・教育

プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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