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私とは誰か?

前回妙なものを挟んだ後ですが、そのまま新しいネタもないので、前々回に少々出てきた独我論の話でも。
「物を考えてるのはわたし」であるがゆえに、私が何を思うか他のものに定められていることはあり得ないが、「わたしがまわりの世界を存在させてるっていうならありえるけど」という台詞からです。
大まかに言えばここで言われているのは、私の存在のみは確実であり、何かが存在するとは私にとって現れることである、それゆえに私が存在しなければ周りの世界も存在することをやめる、という考え方です。
これは要するに、「思う」と「ある」の同一性から帰結します(デカルトの「思う」は何かが「現れる」とほぼ同義であったことも思い出されたし。その意味で、「どこにも現れない存在」を仮構しない限り、この「思う=ある」は成立します)。
この考えは一見したほどに不条理ではなく、「私の存在のみが確実であり、私にとって現れるもの以外は存在しないかも知れない」というのは「私にとっては」否定されるべからざることだからです。
しかし問題は、この「私」とは誰か、です。
それははたして「山嶺茜子」のような特定人物とイコールなのでしょうか。むしろ、そのような特定の人物は、世界の中にあるものの一つに過ぎないのではないでしょうか。しかし、世界内の一存在者が他のものを存在させるとすれば、それはやはり奇妙です。

見方を変えてみましょう。
仮に「私」が世界を存在させているとします。
では「私」は「世界を存在させるのをやめる」ことができるでしょうか。
フレドリック・ブラウンの短編「独我論者」はそうやって独我論者が本当に宇宙を消滅させてしまう話ですが、現実にはそれはできないでしょう。
つまり、「私」は「存在させている私」に対して自由ではない、すなわち私は私が「存在させること」をただ受け取るより他ない――とすると、「存在させている」のと「存在させられている」との違いは何でしょうか。
これは明らかに「思う」と「思わされる」の同一性とパラレルです。

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コメント

No title

「存在させている」のと「存在させられている」の質的差異についていちばん真摯に考えたのはウィトゲンシュタインだと思うのですが、彼にしてもそれは「神秘=示されるもの」と考えざるを得なかった(と、わたしは読んだのですが)のは、「独我論が意味を持つとしたら、その前提条件はなにか」という問いに解がないことを示しているのではないでしょうか。解がない(偽問題だ)からといって重要な問題でないというわけではない、というのもまた事実ですし。

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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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