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今回もくだらない話をしよう

今回もまずは引用文から。

 大塚英志さんというフリーの漫画編集者が、ロリコン・アニメの世界は、アイドルを犯す、アイドルを性的に辱めるというのがモチーフですが、そのアイドルが最近は漫画の中のヒロインになってきている、と指摘しています。たとえば「うる星やつら」とか「めぞん一刻」とか、そういうコミックのヒロインをパロディの中で犯す。これがロリコン・コミックのテーマになっているというのです。
 このように、現実の女の子からアイドルへ、アイドルからさらに完全に二次元の世界のコミックのヒロインへ、というふうに移っていく過程で、ますます人工的で、自分に抵抗しないような、自分が操作可能な客体にどんどん変わっていっています。ロリコン・アニメでコミックのヒロインを性的な辱めの対象にする男の子たちが、実際に女の子が目の前に現れたときに彼女を押し倒したりするかというと、本人たちはもっと平和な存在だ、というのです。
 そういう形で、どんどん去勢恐怖に追い詰められた男の子たちの退行という現象が起きています。もうその男の子たちは現実の女の子に対してはすごく無力で無害な存在です。一人でたいへん陰湿なロリコン・アニメを読んでいても、金輪際レイプの犯人になったりはしないような、非攻撃的な男の子たちです。
 ですから、ああいうロリコン・アニメが蔓延すれば子供たちの性的な欲望が掻き立てられる、などというPTAママ的な発想は見当違いでしょう。そこでは、ファンタジーの中で完全に世界が完結しています。はてしなく手続きが延びていって、はてしなく手続きが自立化していくということが男の側で起きています。
 (上野千鶴子『スカートの下の劇場』、河出書房、1992、pp.199-200)


「アイドルを犯す、アイドルを性的に辱める」ものが「ロリコン・アニメ」と呼ばれているのは、現在からすると奇妙な用語法ですが、これは「おたく」の語が普及する以前の言葉をある程度示しています(「アニメ」と「コミック」の混用は単に上野氏がそれに疎いことによるのかも知れませんが)。

もっと大きな問題は、本書が1989年に書かれたものであることです。
1992年の文庫化に当たってのあとがきには以下のような文言があります。

 本書の刊行後に、M君事件が起きた。男性のセックスの現場からの撤退と、フェティシズム化という終章の予測を裏づけるような事件だった。その後、セックスレス・カップルの増加が囁かれるなど、セクシュアリティはたえず変化している。(……)
 (同書、p.214)


「M君事件」とは宮崎勤による連続幼女誘拐殺人事件(1989年8月逮捕)のことで、この事件が「おたくの犯罪」として報道されて、「おたく」の語が世間に広まるのに一役買うとともに「おたく=性的異常者・犯罪者」のイメージも広まりオタク・バッシングに繋がったことは広く知られています(「おたくの犯罪」というイメージ自体、作られたものですが)。

しかし上野氏は、後の用語法で言うところの“おたく(オタク)”が「非攻撃的な男の子たち」であり、それが犯罪に繋がったりすると考えるのは見当違いであるという大塚氏の論を支持しています。
氏は宮崎勤の事件を「フェティシズム化」という自らの理論を裏付けるものと見ていますが、「おたく=危険」といった見解について距離を取っておられたのか、実に気になるところです。

しかも「二次元」への逃走、「人工的で、自分に抵抗しないような、自分が操作可能な客体」を求める傾向はオタクの特徴と考えられると同時に、幼女を狙う性犯罪の動機と目されやすいものの一つでもあります。宮崎勤の事件を上野氏の論を裏付けるものと見なした場合、見方によってはその論は「オタクが高じて犯罪に走った」論を支持するものでもあります。
「見方によっては」というのは、「いつの時代にもある凶悪事件の起こり方が“フェティシズム化”を反映している」といった読み方もできるからであって、この場合、問題なのは「おたく」といった特定のカテゴリーの人間の事柄ではありません。「社会全体の傾向を論じた」というトーンを考えればこちらの方が適切でしょうか。

※ そもそも宮崎勤の事件が「性犯罪」なのかどうかも議論の余地はありで、これも結局結論が出ているとは言い難いのですが。

さて、『スカートの下の劇場』は代表的な下着論の一つですが(しかも、エロティックな図版の多いこと)、「たえず変化している」セクュアリティを歴史的にではなく現代の問題として論じていることから、20年以上も経つとまた状況が変わっているのではないか、と思われることも少なくありません。
たとえば、母親あるいは妻による男の下着の管理はすなわち「性器の管理」である、というフーコーを思わせる論はいかにも社会学者らしいものですが――

 そうすると、とりあえず男の下着のオプションはブリーフとトランクスの二つしかなくて、女性支配と女性支配からの離脱という両極のあいだを動いていることになります。女性支配の側はいつもブリーフの側にあります。これは容易に理解できます。ブリーフは確かに包み込む働きをします。一般に女性は男性がトランクスの中で性器をブラブラさせているというイメージを嫌いますから、包んで隠してサポートしてという方向に向かいます。
 (同書、p.74)


これは今ではどうなのでしょう。
「男性に求める下着はブリーフかトランクスか」と調査すれば分かることですが……

スカートの下の劇場 (河出文庫)スカートの下の劇場 (河出文庫)
(1992/11)
上野 千鶴子

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なお「歴史的にではなく」と言ったのは、より歴史的なアプローチを取った以下のような下着論を念頭に置いてのことです。

パンツが見える。―羞恥心の現代史 (朝日選書)パンツが見える。―羞恥心の現代史 (朝日選書)
(2002/05)
井上 章一

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パンツの面目ふんどしの沽券 (ちくま文庫)パンツの面目ふんどしの沽券 (ちくま文庫)
(2008/04/09)
米原 万里

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井上章一氏は建築史家として培った歴史考証でもっぱら日本近代の膨大な文献を綿密に参照し、米原万里氏はロシア語通訳者らしく英語・ロシア語文献を参照しつつ、古代(聖書や各種神話)から自分の経験談まで幅広いネタを扱っています。いずれも大変に面白いものです。
「十字架にかけられたイエスはどんなパンツを穿いていたのか」を論じた人は米原氏の他に思い当たりません。

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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