オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
実はここ数回に関係する話
ただ、『バイオの黙示録』の場合、いくら人間の言葉のようであっても現実と関係ないことを喋っているだけ(その意味で人工無能と同じ)だったニワトリ達があるきっかけで意味のあることを話すようになり、やがて養鶏場の主に反逆する、というのは何とも言えないホラーでした。
『ビアンカ・オーバースタディ』の場合、ある程度言葉を理解しているカエルを皆が平然と扱っているのが別の意味で怖いのかも知れませんが……
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そこでふと思い出す。『ポケットモンスター』のルージュラは、「人間のような言葉を話すが何を言っているのか誰にも分からない」という設定であったような……
アニメなどのストーリーにおいて、ポケモンはトレーナーとある程度は意思の疎通できる「パートナー」として描かれます。しかし、「ピカピー」とかしか言わない電気ネズミとなら意思の疎通ができても、「人間のような言葉を話すが何を言っているのか分からない」奴は無理なような気がしてきます。
ある程度人間に近いというのは、非常に恐ろしいことです。
さて、物語に宇宙人を登場させるとします。
異なる星で異なる起源をもって発生し、異なる進化を辿った宇宙人が地球人そっくりである、等ということは真面目に考えればあり得ないと思われます。
では、どんな宇宙人なら良いでしょうか。
地球上の人間以外の生物の姿か、あるいはそれに手を加えたキメラの類であれば、その「あり得なさ」と発想の凡庸なることにおいて、本質的には大差ないでしょう。
ではどうするか、というのは大変難しい問題で、宇宙人が地球人との接触のため地球人の姿を真似ていて本当の姿は不明、というのは一つの――実はかなり優れた――解決策ですが、さらに困難なのは宇宙人の精神、あるいは思考法です。
我々とは異質な思考を考え出すことはどこまで可能でしょうか。
だからこそ、『鉄腕バーディー』の大仕掛けは優れた発想であり得たのです。
かなり優れたSFであっても、「宇宙人特有の性格・思考習慣」というものが結局は地球人の性格類型あるいはその延長でしかないということは珍しくない、というより、理解を絶した存在ではなくコニュケーション可能な相手として宇宙人を描く限り、たいていはそうなります。
とは言え、優れたイメージというのはあるものです。
たとえば藤子・F・不二雄氏の短編「ミノタウロスの皿」を見てみましょう。
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宇宙で遭難してある異星に漂着した地球人の男。
ところが、この星で文明を築いているのは地球の牛そっくりの種族であり、その家畜である「ウス」は地球人そっくりなのでした。

(『藤子・F・不二雄[異色短編集]1 ミノタウロスの皿』、小学館、1995、p.168)
主人公がこの「ウス」と間違われて牢に繋がれるという展開もありますが、そこから脱出劇などには向かわず、すぐに理解されて牛人間たちと対等の処遇を受けられる、というのがこの話のミソです。
そして、彼の出会った美少女ミノアは大祭で食べられる予定なのでした。
「ウス」を食用にするという「残虐な習慣」をやめさせるべく主人公は奔走しますが、さっぱり話が通じません。何しろウスを家畜として食用にするのは当然の習慣であり、ミノア自身、食べられることを「名誉」と考えているのですから。

(同書、p.175)
哲学者の永井均氏が「言葉は通じるのに話が通じない」ことと「言葉が通じない」ことはどう違うのかを分析して、少なくとも「残虐」や「名誉」といった言葉の意味は共有していなければならないし、この場合は他にも多くの考え方は共通しているのであって、地球人と牛人間およびウスは「信じられないほどによく似て」いたと結論していますが、これは上述の「理解を絶した存在ではなくコニュケーション可能な相手」を描かねばならないがゆえの必然です。
基本的な部分はそっくりであることを前提として、ある点について地球人の性格類型の程度差には留まらない――あるいは程度差であっても、決定的な隔たりを感じさせる――違いを感じさせることができるか、問題はまさにそこです。
『ミノタウロスの皿』の場合、死ぬことを――食べられることでさえ――「名誉」として喜ぶというのは、あるいは人間においてもある種の信仰に見出される態度かも知れません。
ただ、「ウス」が家畜であるということ、家畜とそれを飼い食べる者との間に共通の言葉でのコミュニケーションが存在するということは、決定的な遠さを感じさせるに十分です。
そしてやはり、この意味において『まどか☆マギカ』のキュウべえは偉大な成功例の一つであったと思うわけです。
彼らは論理においては地球人と共通しています。利益は欲しいし無駄に失われるのはもったいないと考えます。しかし感情を持たず、個体に固有の価値を認めないということがなんと衝撃的であることか。
『涼宮ハルヒの驚愕』にも、宇宙人たち(長門の側も敵対する周防九曜の側も)は多様化よりも等質化の方が良いと考えている、という話(佐々木による分析)がありましたが、キュウべえの後だとインパクトが半減したのが惜しまれます……やはり、書き続けるということは大きいのです。
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また、「地球人と通ずる論理を持っており、それを両者ともに認識している」にもかかわらず、コミュニケーション不能、という宇宙人には、たしかエリック・フランク・ラッセルだったかウィリアム・テンだったかに、地球人の数千分の一という遅さの速度で動き、思考する宇宙人が出てきました。
コミュニケーションひとつとっても、SFはいくらでも書けますな。