オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
読書の現象学
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まず、北杜夫がトーマス・マンの作品に夢中になり、マンのことばかり考えていた時期、ある時町を歩いていて「ぎくりとして立ち止まった」、一瞬遅れてその理由は「トマトソース」という貼紙か看板が出ていたからだと気付いた、というエピソードが紹介されます。
(……)話はこれで終わってしまうのですが、これはよく考えるとすごいことなんです。「トマトソース」を「トーマス・マン」と読み間違えるためには、どれだけの手続きがいるか、考えてみてください。二つある「ト」を一つに読み替え、一つしかない「マ」を二度読み、中黒を書き加え、「ソ」を「ン」と読み間違える。これだけの操作を一瞬のうちに、自分で済ませておかないと、「ぎくり」とすることはできません。
(内田樹『街場の文体論』、ミシマ社、2012、p.54)
そして、
ある文字列が眼に入ったときに、その文字列を構成する文字要素の組み合わせを替え、場所を入れ替え、似た持ちを読み間違え、無数の読み方を超高速で「スキャン」している。そのスキャニングに引っかかる単語があれば急ブレーキを踏んで、それから自分がどのシグナルに反応したのかを探す。人間のこのスキャニング能力がどういうメカニズムになっているのか、僕は専門的に研究したものを読んだことがありません。
(同所)
とあり、また画面内に大量の情報が詰められた少女マンガの読み方もこの能力から説明されたりと具体的で面白い話が続きますが、せっかくなのでこれに関わりそうな研究を指摘させていただきたい。
まず、ゴルトシャイダーとミュラーの実験というものがあります。
よく見かける定型句に少しだけ誤字脱字を加えたものを一瞬だけ被験者に見せ、今見えた文字列を言ってください、と言うと、被験者はごく自然に「正しい」(誤字脱字のない)定型句を答えるのです。
この実験結果についてのベルクソンの分析は以下のようなものです。
(……)それゆえ、実際に気付かれた文字は記憶を喚起するのに役立ったのです。無意識的な記憶力は、それらの文字が実現の始まりを与えてくれる定式を見出し、その記憶を幻覚の形で外に投影しました。被験者が見たのは書き文字である以上にこの記憶なのです。要するに、通常の読みというのは予見の仕事ですが、抽象的な予見ではありません。それは記憶の――すなわちたんに想起されただけで、したがって非実在的な知覚の――外化です。この知覚は全面的に実現されるために、あちこちに見出される部分的な実現を利用しているのです。
(Henri Bergson, Œuvres, Paris, PUF, 1959, p.889〔アンリ・ベルクソン「夢」『精神のエネルギー』収録〕)
上の例で言えば、「トマトソース」をきっかけとして投影された自分の記憶の中にある「トーマス・マン」の文字を北杜夫は見たのです。
ただし注意しておくべきは、この「記憶」「非実在的な知覚」というのは実現された知覚のような形あるものではない、ということです。
そのような形あるものであれば、現実の知覚と同様、限られた数しか意識中に収めることはできないでしょう。それでは、様々な文字列を見て、それぞれにふさわしい読み間違いを瞬時にすることはできません。
そうではなく、全てが溶け合った形でつねに現前していて、きっかけを見出すとその一部がただちに形を持って「投影」される、と考える方が良いでしょう。
思い出せないことも、順次思い出していたらいくら時間があっても足りないことも、すべての記憶が「溶け合った」形でそこにあるからこそ、それをどこかに探しに行く手間など一切かけずに、その場に応じたものだけが形を持って出現することができるのです。
(……)よく見れば、(……)われわれの性格はつねにわれわれの決定に現前しており、まさにわれわれの過去の諸状態すべての現実的総合であることが分かるだろう。(……)
(Henri Bergson, Œuvres, p.287〔アンリ・ベルクソン『物質と記憶』〕)
「超高速でスキャンする」というと、やはり形のあるものを順次検討していく操作であってその速度が極端に速い、というイメージですが、おそらく問題――いわゆる意識と無意識との差異――はたんなる処理速度の差ではないでしょう。
実際、内田氏ももう少し後の箇所で「『これから書かれるはずの文字』が「今書かれている文字」を呼び起こしている」という「『ストカスティック(stochastic)』なプロセス」(内田樹、『街場の文体論』、p.93)について語っています。
「針の穴に意図を通す」という作業を思い浮かべてください。このとき、「針の穴めざして糸がじりじりと接近してゆく」という経時的な進行に即して動作を遂行しようとしたら、まず糸は針の穴には入りません。僕たちは実際に裁縫のときには、「針の穴をすでにくぐり抜けた糸の先端を指でつまんで一気に糸を引いている自分」を想像的に先取りして、その「未来の自分」に同化して、「今の仕事」をしているんです。
(同所)
「想像的に先取り」された「未来の自分」なるものが今の自分や眼前の光景とまったく資格で現前していたら、邪魔になるだけです。少なくとも、両者を統合するさらに別のものがなければ、「未来の自分に同化して、今の仕事を」することはできないでしょう。
だから、先取りされた目的は“形のない、溶け合ったもの”として存在していて、もっと言えば、それがまさに形を取ってくることがなされつつある行為なのです。
すると、以下の箇所も多少別の解釈を施すことが可能です。
「トマトソース」の話のところで、「スキャンする」ということを申し上げましたけれど、マンガの場合もそうなんです。高速度でスキャンしている。マンガは文字列処理よりもっと速いですね。画像がほとんどだから。だから、頁を開いた瞬間に、一瞬で見開き二頁全部読める。全部読んでから、それらの要素をどういうふうに解釈するか、その文脈をまず決定する。文脈を決めておいてから、まるではじめて読むようなふりをして最初から読む。
実際にそういう複雑な操作を済ませてから読んでいるわけえです。でも、本人はそんなこと自覚していない。でも、考えればわかります。街の風景を見たくらいで「ぎくり」とすることができるくらいの高度なスキャニング能力を備えている人間が、見開き二頁、たかだか二〇くらいのコマを一瞬のうちにスキャンできないはずがない。僕たちはマンガを読んでいるとき、頁を開いた瞬間に、二頁分のコマを読み終えている。そして、読み終えたことを忘れて、まるではじめて読むように読む。四コママンガなんで、見た瞬間に四コマ目のオチまでもう丸見えなわけです。それを「まだ見ていない」ふりをして、オチで笑う。
(同書、pp.69-70)
上記の論を踏まえて考えれば、「読んでいないふりをする」というよりも、“形のない溶け合ったもの”で瞬時に捉えていたものを、順次形にしつつ改めて読んでいく、と読み替えられることが分かるでしょう。
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