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続・タイムパラドックスについて

昨日取り上げた『たったひとつの、ねがい。』の内容に関しての続き……ではありませんが、あとがきにもちょっとした面白い話がありましたので。

 それと全然関係ない話なのだが、タイムマシン系というか時間旅行的な映画をぼーっと観ていて、タイムトラベルやタイムパラドックスの描写の場面で『これはおかしい! これは矛盾している!』と言ってしまうことがある。しかし未だ誰も時間旅行なんてしたことないのになぜ、矛盾していると分かるのだろう。そしてそう思ってしまうのだろう。私たちの中には知らないうちに時間への意固地な常識というものができあがってしまっていて、それを取り払えば時間に対する見方は大きく進化していく、のかもしれない。最近、暇なときにそんなことを考えています。意味はないです。
 (入間人間『たったひとつの、ねがい。』「あとがき」、アスキー・メディアワークス、2012、p.250)


これは重要なポイントです。

そもそも「矛盾」にしろ何にしろ、純粋な論理学が扱うのは命題と命題の関係のみです。
たとえば「赤く、かつ青い」ものがあるかどうかは、「赤」「青」という概念の内容によります。「赤」「青」の規定次第では、「赤っぽくもあり、青っぽくもある紫」があるかも知れませんし、ないかも知れません。
それに対して「他は同じ条件で同じものが、赤く、かつ赤くない」ということはあり得ません。これは「AはBである」という命題と「AはBではない」という命題の間の関係なので、Aが何であれ、Bが「赤い」であれ他の何であれ成立します。

しかし、そうした純粋論理的な矛盾はそもそも描写できません。だから、描写を見て「矛盾している」と思うのはそうした話ではないのです。
ではどの段階で矛盾と思うのでしょうか。

過去にタイムトラベルして過去の自分を殺したら、今の自分はいなくなり、過去に戻って自分を殺すこともできなくなります。そうすると過去の自分は殺されなかったはずであり……
これは典型的な「タイムパラドックス」(パラドックス=逆説)ですが、ここで「だからそれはあり得ない」としてしまうと、過去を改変するタイプのタイムトラベル物を最初から否定することになってしまいます。

そこでどうなるか、という大まかなタイプ分けは以前に示し、同時にそれを可能にする(かなり奇妙な)前提をも指摘しておきました(「タイムパラドックスについて」参照)。
いずれを認めるにせよ、おかしいと言えばおかしい。でもそれを言い出せばそもそもタイムトラベル等書けません。

では、たとえばある時には「1. タイムトラベラーの行為は“織り込み済み”で、過去を変えることはできない」になり、またある時には「2. 過去は改変され、世界の様子は変わる」とになれば、これは矛盾でしょうか。
それはなんとも言えません。たとえばリンゴは木から落ちてきますが、月は空から落ちてきません。しかしこの「ある時には落ちてきて、ある時には落ちてこない」という事態は矛盾ではないばかりか、現在では同じ一つの物理法則から説明されます。
「他の条件は同じで」という論理的な要請を満たすことは現実には困難であり、また物語上必要であることも稀なので、矛盾するかどうかは言いようがないのです。
(しかも繰り返しますが、事実上、複数のパターンが同居している作品の方が多いということもあります)

ただし、作中設定として「こうすればこうなる」「しかじかのことは不可能である」と明言してしまった上で、それに反する描写をすれば「おかしい」と思われるのも仕方ないでしょう。
こういう場合、設定は明文化すればするほど矛盾の元になる、というのがありがちなことです。
既存のタイムトラベルを扱った作品から設定を取り込みつつ、それと相反するイメージを同居させてしまうというのはこの方面に疎い作家のやりがちなことですね。

その上でとりわけ問題になるのは、やはり「2. 過去は改変され、世界の様子は変わる」のパターンです。
「改変」がタイムトラベラー自身の存在を否定するようなものであった場合、上述のパラドックスが生じるからです。
まず、タイムトラベラー自身は過去改変の影響を受けない、というのが一つの考え方です。
『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のように、タイムトラベラー自身の存在は改変の影響を受けるにしても、記憶は「改変前の世界」を引き継ぐ、というのも王道です。これで上述のパラドックスが解決されるわけではありませんが、そうでないと、そもそも「改変があった」ことすなわちタイムトラベルがあったことを証できず、誰の視点で物語が展開されているのかも分からないからです。

もちろんそうならない作品もあります。
タイムトラベラー自身も改変の影響を受ける、というのは、まだ分かりやすいでしょう。しかし逆は…?

たとえば『ドラえもん』「ペロ! 生きかえって」(てんとう虫コミックス3巻収録)では、犬のペロが死んでしまってしずかが悲しんでいるので、ドラえもんとのび太はペロが死ぬ前に戻って「どんなびょう気にもきくくすり」を使います。
ところが、元の時間で待っていたしずかはペロが死んだ記憶を持っているようで……

ペロ、生き返って1
 (藤子・F・不二雄『ドラえもん 3』、小学館、1974、p.190)

けれども源家に行くと、生きたペロが走り出てきます。

ペロ、生き返って2
 (同書、p.191)

が、そもそも「ペロは死ななかった」のであれば、「ペロが死んだ」という記憶は何でしょうか。

もっと有名なのは大長編ドラえもん『のび太と鉄人兵団』であって、しずか達は遙かな過去に戻って鉄人兵団の祖となるロボットの設定を改変してくるわけですが、さて現代ではドラえもん達は「なぜかわからないけど」「ロボットが消えちゃった」という反応です。

ドラえもん (3) (てんとう虫コミックス)ドラえもん (3) (てんとう虫コミックス)
(1974/09/30)
藤子・F・不二雄

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多少ネタバレになりますが、これがありなら『アラタなるセカイ』のケースもあり、ということでしょうか。



無論、いずれにせよ不条理と言えば不条理です。
しかし、「これがアリなら敷衍すればこれもアリではないか」と考えることができるかどうかは、きわめて重要なポイントです。
上のようなパラドックスはもっぱら因果律に関わる問題であって、「時間的に先行することがなければ、それによって引き起こされる後続することは起こらない」という(きわめて常識的かつ否定しがたい)考えに基づいています。そして実際、『アラタなるセカイ』をよく見れば、「時間の保護」という設定は通常の因果律から外れることを意味していることが分かります。
さらに、通常の因果律の外にある「時間の保護」という特異な現象は、「出会うきっかけとなった携帯電話」というほとんど象徴的な次元で維持されていたわけです。それがそのまま、物語のキーとなっていました。


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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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