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怪物の遠さと近さ――続・『たったひとつの、ねがい。』

少し別の話を挟んでしまいましたが、『たったひとつの、ねがい。』の話をもう少し続けさせていただきます。
ただし、大まかな紹介は前々回の記事で書いたので、今回はいきなり謎解き部分のネタバレに関わる話となります。

以下ネタバレ。



この物語はたしかに、彼女を食われた男の復讐譚……と思われました。

しかし、エピローグで明らかになる真相――それは第一章からの主人公・ダンタクヤこそが人食いであり、プロローグで彼女・東雲陽子を食っていた連中の一人である車椅子の老人であった、ということです。
彼は元々、彼女を食うつもりであり、それが彼女の親戚にバレて殺されかけ、食う機会をも失った、それが復讐動機でした。
そして、プロローグの「俺」こと風間拓也は、ダンタクヤによって食われるべくして、「家畜」として育てられてきたのでした。

伏線はあちこちにありました。
たとえば、好きなものは最初に食べるか最後に食べるかで、プロローグと第一章以降では主人公の主義が反転していたことです。
その他の点でも、よく見れば主人公の人格が少なからず変わっているのですが、「あんなことがあればこの位の変化はあり得るだろう」と思ってしまうのですね。食事については、彼女の習慣を受け継いだのだと思ってしまいますし。私たちはそうやって勝手に辻褄を合わせてしまうのであり、その結果、存外平気でキャラの同一性というものを平気で見誤り、断絶を無視してしまうことができるのです。こうした入間氏お得意の叙述トリックの効果は、本作では加害者と被害者を取り違えさせることで、いっそう際立っているように思われます。

そもそも復讐の相手をどうやって見つけ出したのかという点もそうです。
まあ本作の場合、大筋で驚きを与えることが優先していて細部は比較的粗いというか、主人公の超人ぶりで強引に押し通している部分も大きいので、「まあ、何とかしたのだろう」と思ってしまいそうになりますが、実は主人公の復讐相手は「証拠を残さない犯罪者」などではなく、「彼女の親戚」ということで身元は分かっていた、というのは納得の真相です。

こうして真相が分かると、全ての意味も一転します。
「あらゆる行いには正しさなんて存在しない」というニヒリズムも、相手を同じ苦しみに遭わせようとする復讐者の心理と思わせて、実はいっそう根深く、人食いという正当化され得ない衝動を抱えた者の言葉だったことが明らかになります。

まず恋人を食われた被害者の方を主人公として示し、感情移入するかどうかはともかく、その心情を身近に感じさせて、残虐な復讐も――共感するとは限らないにせよ――分かると思わせておいて、最後にそれが全くの間違いであったことを見せ付ける――
私たちは一体何を「分かった」気になっていたのでしょうか。
分かったつもりになり、同調して爽快感まで感じていたものは、本当は人食いの衝動を持ち、「食い物の恨み」から残虐な復讐をして回る男の気持ちでした。

いや、もしかすると、こんな場合ですら共感は決して錯覚ではなく、そんな怪物的な人物の気持ちですら、ある意味では分かってしまうのかも知れません。


ちょっと話が逸れるようですが、『仮面ライダークウガ』の敵・グロンギは「ゲーム」として人間を殺すことを楽しむ連中(というか、生物としてはやはり人間)でした。
しかもこのグロンギ、古代から復活したということで当初は「グロンギ語」を喋っていましたが、短期間で現代日本語を覚え、普段は人間社会に潜伏するようになります。さらに格が上がると急激に知能も上がり、下位種族の動物的な凶暴性人間を見下すような態度は見られなくなる一方、普段の生活でも殺人ゲームでも現代人の文化を活用するようになるのです。
ゴ・ブウロ・グはクウガから受けた傷を癒す間、カミュの全集を読んでいました(彼らの知能なら外国語の習得も容易いことでしょう)。ゴ・ベミウ・ギは楽譜を自らの殺人ゲームに取り込み、ゴ・ジャーザ・ギはインターネットで犯行予告を提出します。

文学に描かれる人間の心理をも理解する一方で、人間を獲物として殺す彼らはいかなる心理の持ち主なのでしょうか。
もしかすると彼らは、――現代人よりもさらに知性偏重ではありますが――殺人ゲームを楽しむに当たっても、まさしく「人間」であったのかも知れません。


入間氏の作品に話を戻すと、『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』では4~5巻で食人事件が扱われますが、その前に3巻でもそのモチーフは姿を見せていました。
幼少時に死んだと思われていたが実は生きていたみーくんの妹(通称:にもうと)は、食用でない動物の肉を食べたがるという奇癖の持ち主で、池の鯉や近所の犬を殺して食べていたという前科がありました。
幼少時からの長期引き篭もりであるとか、人を殺す前に動物を殺していたとかいうのは凶悪殺人者についてしばしば見られる証言であり、にもうとが人肉の味に興味があったのも事実のようですが、しかし結局、にもうとは殺人事件の犯人ではありませんでした。
「あれが殺人に及ぶ前兆だった」というのはどこまでも、殺人事件が起きた後で有効な回顧推論であって、「動物を殺している」ことから「いずれ人を殺す」ことは導かれません。

そして、あんな猟奇的で異常な奴の気持ちなど分からない――という理屈は、そもそも壊れている人間とディスコミュニケーションの方が常態である入間作品において通用しないのは明らかです。
猟奇的であっても人であり、それが分からないというなら“普通の人”のことだって分かりません。

他方、『みーまー』のスピンオフである『花咲太郎』や『クロクロクロック』においては殺し屋が登場しますが、彼らは平気で人を殺せることを除けば普通の情を持つ人間だったりします。
実際、彼らは我々からそう遠い存在ではない、そう思われるのです。
大概の人が嫌悪感を抱くことを仕事にしている人など、現実にもたくさんいます。

『たったひとつの、ねがい。』において、復讐者ダンタクヤに対して読者が抱いていた共感や爽快感は、その外的な理由においてはまったくの間違いでした。
にもかかわらず、人食いであるダンタクヤにある種の共感を抱いてしまっていたこと自体は、誤りとばかりは言えないのではないか――
「あんなキチガイは自分から遠く、理解の及ばない存在だ」と言おうと思っても言えない、それが恐ろしいのではないか――

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テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育

コメント

No title

人を食うことは人を食うことであり、復讐心を抱くことは復讐心を抱くことであり、感情移入することは感情移入することであり、それが間違っていた(ということ自体が設問としては無意味ですが)ということはそれが間違っていたというだけのことであります。

そこになんの問題があるのか、最近のわたしにはよくわかりません。そのようになっている以上そのようになることは必然ですので。

Re: No title

誤解があったようですが、私が「間違い」と言っているのは心情や行為そのもののことではありません。
問題は「外的な理由」という点であって、この小説は、「このような事情があったのだから、このような復讐心を抱くのも理解できる、共感できる」と読者に思わせておいて、その「事情」についての認識が実は全くの間違いであったことを最後に示す、という構造になっているのです。
「事情が思っていたのと違うと分かった今となっては、やはりこんな奴には共感できない」と考えたくなります。

しかし、外的な事情について肝心なことが言われていなかったのは事実ですが、主人公の心情そのものについては必ずしも嘘はありませんでした。
「こんな奴はあまりにも遠い存在であり、共感できるはずがない」という「理解」が間違っている可能性が浮き彫りにされているのではないか――私が言いたいのは、そういうことです。

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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