オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
幼児化か自暴自棄か――
仏文学者・内田樹氏のブログにあった指摘の引用から始めさせていただきます。
まずは、維新の会が「最低賃金制の廃止」という公約を掲げたことに関する最近の記事「最低賃金制の廃止について」から。この記事は、なぜこのような政党を指示する人達がたくさんいるのか、という問いを掲げた後、以下のような文章で締め括られています。
たぶん日本の国民経済が崩壊しても、「時給267円で働く労働者を搾取できたおかげで、国際競争に勝ってフェラーリに乗ってドンペリを飲んでいる超富裕層」の一員になっている自分の姿を想像しているのだろう。
たしかに、そういう「いい思い」をする人が何万人か何十万人かは、これから出てくるだろう。
でも、それは「あなた」ではない。
これは私が保証してあげる。
これよりだいぶ以前に、「同一労働最低賃金の法則について」も同様の問題を扱っていました。この記事は、海外メディアは橋下徹を「欧米でもよく見るポピュリスト政治家の一人」と見なし、対して注目していないことから始まります。
海外メディアが「切って棄てる」ような書き方を採用する理由は二つ考えられる。
ほんとうに維新の会のムーブメントが「よくある話」であるのか、海外のジャーナリストがこの現象を適切に語る文脈なり語彙なりを「まだ獲得していない」のか。いずれかである
ここで内田氏は自らの方針として後者――つまり「橋下徹と大阪維新の会のムーブメントは『前代未聞のものだ』という仮説」を採用し、それがどう「前代未聞」なのかを論じていきます。
維新の会の政治綱領が、「手垢のついた新自由主義」であることは誰でもが認めている。
けれども、新自由主義はそれでも「選択と集中」によるトリクルダウンという「言い訳」を用意していた。
私たちに資源を集中せよ。私たちがそれによって国際競争力を増し、ワールドマーケットで大金を儲ければ、一時的に「割を食っていた」貧乏人諸君もその余沢に浴することができる、というあれである。
だが、維新の会のグローバリズムはもう「余沢」についてはほとんど語らない。「とりすぎのやつから剥ぎ取る」という話だけである。「剥ぎ取った分」がどこに行くのかということに、有権者たちはもはや興味を持っていない。
この話を最初の引用と合わせるならば、なぜか多くの人が「自分は“剥ぎ取ったものを受け取る側”“搾取する側”に回ることができる」と信じて「取りすぎの奴から剥ぎ取る」ことを指示している、という推測が成り立ちます。
現に、あちこちを見ていると「切り捨てる勇気」が必要だ、等と不思議な主張をする御仁がいます。「切り捨てられる勇気」ではないのです。
その方が、「切り捨てる者」はいるが「切り捨てられる者」はいない、という不思議な状態を実現する方法をご存知なのでない限り、そしてたいていの人間には利己心というものがあると考えておくならば、その方は「自分は切り捨てる側に入れる」と考えているのでしょう。
では、そのような人は生まれてこのかた搾取する側であり続けたような人なのか。確かに、本当の大金持ちはそう簡単には揺るがず、これからも同じ地位に居続ける可能性が高いでしょう。
ところが、そうとは限らないようなのです。そもそも、少数の圧倒的富裕層の指示だけで選挙には勝てないでしょう。
とすれば、客観的に見れば剥ぎ取られる側に回る可能性が高い(あるいは、実際に剥ぎ取られ苦労している側である)にもかかわらず、「自分は搾取する側に回れる」と信じている人が大勢いる、という可能性が浮上します。
搾取する側より搾取される側の方が遙かに多い、ということも分からないほどものを知らないのでないとすれば、この無根拠な信憑は一体何なのでしょうか。
自分は特別だ、こんなところで燻っているはずの人間じゃない、「正しい改革」が行われ「しかるべき時」が来れば、必ずやふさわしい待遇がやって来るはず――
これは幼児的全能感から脱却できない人間の症例です(俗語では広い意味で「中二病」と呼ばれます)。
すなわち、幼児化という病が蔓延している、ということになります。
別の考え方もあり得るかも知れません。
最初の引用文の「超富裕層の一員になっている自分の姿を想像している」というところに疑問を呈してみるのです。
この場合に推測される心理はいかのようなものです。
自分が分配を受け取ることはもう諦めた、しかし不当に利益を得ている他人からは剥ぎ取っておかねば気が済まない、他の奴ももっと苦労しろ、死なばもろとも――
すなわち自暴自棄(まあ、「切り捨てる勇気」等とのたまう方にはこれは当てはまらない可能性が高いかと思われますが)。
さて、この話は教育の件で昨日少し触れた、「日本の教育は“悪平等”であり、これからはもっと「できる子ども」を取りこぼさないようにしてエリートを育てていく必要がある」という主張においてもパラレルであることも、もうお分かりでしょう。
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