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魔法少女の系譜学

近年、本当に年賀状を書く必要がなくなってきました。
昔の知り合いとすっかり疎遠になっているというのもさることながら、最近の知り合いは住所を知らないことの方が多いのです。
交換したのはメールアドレス(あるいは+電話番号)だけ……とそれなら年賀状もメールで出さざるを得ません。
最新の写真も送れる……と思えばその方が便利かも知れません、ひょっとすると。

 ~~~

実家に持ち帰れる本の量はもちろん限られているので、現在資料の手元にないことは書けないわけですが、逆に実家に置いていた本を引用できることもあります。
そんなわけで、このブログでは過去にも何度か引証してきたひこ・田中氏の著作から、何度か問題にしてきた魔法少女の系譜学に関する箇所を引いてみたいと思います。
(魔法少女の系譜学が問題になることについては、『魔法少女育成計画』『魔法少女地獄』に関する記事を参照)

まずは『魔法使いサリー』に関して、サリーが人間界の常識について極端に無知な状態で登場することを述べて――

 つまりサリーは、よし子たちには突然現れた奇妙な子にすぎませんが、テレビを見ている少女たちにとっては、自分より無知な子どもに見えます。そのことによって、サリーは視聴者の少女たちにとって、カワイイ存在となっているのです。
 物語序盤は、この無知な少女が人間の生活を学習していく日々を描いています。クリスマス、雪、悪い大人、そして学校生活。
 (ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?』、光文社、2011、p.203)


そして指摘されるのは、制作スタッフの多くが男であり、「自信をもって想像できる子ども像は男の子」(同書、p.208)であったがゆえに、女の子向けは後回しにされていたことです。
そして、『魔法少女リリカルなのは』のような、「魔法少女」というモチーフを扱った「男の子向けアニメ」を扱い、それに近いものとして「男の子向けの、女の子が活躍するアニメ」をいくつか取り上げ、そしてこう書かれます。

 ここで、指摘しておきたいのは、なのはやインデックスやナギや「パンツじゃない」という少女たち〔※〕――女の子向けではないアニメに出てくる魔法少女たちは、『リボンの騎士』や東映動画、スタジオぴえろなどの魔法少女物を換骨奪胎し、思春期以降の男(の子)たちにとって都合のいいように加工されて供されたのではなく、それら初期の魔法少女物の正当な子孫なのではないかということです。
 女の子の視聴者から魔法少女物を奪い取ったのではなく、それらが元々内に秘めていた要素が、解凍されて、本リアの姿となり、男の子に消費されているだけ、と言ってもいいでしょう。
 逆の言い方をすると、本来男や男の子たちにとって安心、安全な女の子として機能するタイプの魔法少女が、より子ども化されて女の子向けに提供されていたのが、初期の魔法少女たちだったのではないか、と。
 なぜそんなややこしいことをしていたのか?
 それは、テレビアニメが、男の子向けマンガを原作とするか、男の子向け漫画誌とメディアミックスするか、男の子だけを主人公として展開していったからです(制作者は、たぶん子ども向けとして作っていたのでしょうが)。気づいたとき、そこにあるのは子ども向けアニメではなく、男の子向けアニメだけでした。
 だから、女の子向けに特化したアニメを作ろうとして、男の子向けとの差異化を図るとき、方法として思いつけたのは、大人の女を子ども化した像だった。
 そうして造形された魔法少女たちは、元々無理がありました。しかし、時代が移り変わった時、そうした無理は通らなくなり、または必要がなくなり、彼女たちは、本来いるべき場所へと戻っていったのです。
 フィリップ・アリエスが『〈子供〉の誕生』で明らかにしたことですが、中世絵画の中の子ども像が、現在の私たちがイメージする子どもらしさからはかけ離れています。そこに描かれているのは大人を小さくした姿です。人間は、自分の知識や経験や文化的背景を通してしか物を見ることができないのです。
 初期の女の子向けアニメ制作現場でもまた、同じようなことが生じていたと思います。視聴者である生身の女の子像がまだうまく結べなかった制作側は大人の女を女の子にして描こうとし、そのための方法として「無知」や「非社会性」を強調することしか想像できなかったのです。
 (同書、pp.226-228)


※ それぞれ『魔法少女リリカルなのは』『とある魔術の禁書目録』『かんなぎ』『ストライクウィッチーズ』より。

つまり、一時期の「魔法少女」こそがきわめて特殊な歴史的産物だったということです。
男の子向けアニメのヒーローと同じように戦うようになって、なんぞおかしいことがあろうか、と。

ついでながら著者は、こうした極端に無知な少女が学校にやって来る、という展開に『長くつ下のピッピ』と共通するものを見つつ、ピッピは学校をさっさと辞めてしまうのに対し、サリーは学校を大事な皆との接点として社会に適応していく、という相違点も指摘します。

 この違いの一因はかなりはっきりしています。
 ピッピの物語の元は、作者リンドグレーンが自分の娘の希望に沿って語って聞かせたものだからです。つまり、子どもの望みをかなり忠実に反映したのがピッピの物語、で、大人目線から作り上げたのがサリーの物語というわけです。
 (同書、pp.205-206)


私の知るところ、『ピッピ』的な学校への反逆を描いているのは以下の例ではないでしょうか。

苺ましまろ
 (ばらスィー『苺ましまろ 4』、メディアワークス、2005、p.123、クリックで画像拡大されます)

むろん、ひこ・田中氏は『ピッピ』と『サリー』のどちらが良いと言っているわけではありません。
しかし気が付けば、「主人公が学校に行くこと」は当たり前になりすぎました。
しかもフィクションの話だけでなく、「学校は大切だ、大人になるためには学校に行くことが必要だ」というメッセージ――もっと言えば圧力――は現実の社会を支配し続けているように思われます。
いじめで自殺、という報道を聞くたび、なぜそうなる前に学校から逃げ出すことができなかったのか、と思ってしまうます。
でもおそらく、「できないようになっている」のです。


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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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