スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

復讐と罪を巡る二論

入間人間氏の近作『たったひとつの、ねがい。』は復讐の物語でした。
この作中では主人公・ダンタクヤの復讐に対する態度が語られますが、それはきわめて明晰なものです。

「多分、あれだ。相手を殺しても失ったものは返ってこないとか、そういうのだろ」
 ババアが適当に見解を述べる。癖なのか、またタバコを半分も吸わないうちに潰した。灰皿にはそんなタバコが墓標のようにいくつも立って、煙を漂わせている。
「なにを当たり前のことを」
 俺はやつらに一度でも、返せなどと要求していないしするつもりもない。
 復讐は、原点に立ち返るためにあるのだ。
 マイナスからゼロへ向かうためにするべき行いであり、それは生きる上で遠回りを強いられたものの新たなる道でもある。復讐を諦めるというのは、その道を進まずに足踏みを続けて生涯を終えるということだ。進むことだけが正しい、とは言わないが。
 同じ景色、疲れるばかりの重苦しい足。振り向いた先には常に、失った世界。
 我慢強くない俺にはとても耐えられない。
 (入間人間『たったひとつの、ねがい。』、メディアワークス、2012、pp.105-106)


この彼の態度はすでにしてかなり前向きである、という印象もあります。
実際、彼は身体を張って、行き過ぎた残虐な復讐をやってのけながら、新たな「願い」を見出して復讐を果たした後も生き延びました。ただし、それこそが一転、最終的な救いの無さと後味の悪さに繋がっているのですが…

同じく入間氏の刊行中シリーズである『トカゲの王』1~3巻 4巻)の二人の主人公もやはり復讐を目指していますが、その姿勢は作者も明言する通り対照的です。
ナメクジが自分の右腕を奪った巣鴨に対する憎しみからしばしば我を失って暴走し、またその復讐への執念によって凄まじい力を発揮し窮地を生き延びてきたのに対し、石竜子は自分の右目を奪ったのがやはり巣鴨であることを察しつつも彼女を嫌いになれないばかりか(次はどんな酷い目に遭わされるかと怯えてはいるものの)、復讐対象であるシラサギを前にしても、ナメクジのように激しい憎しみに突き動かされる様子はありません。自分でも認めているように、石竜子が本当に目指しているのは、かつての自分を乗り越えることなのでしょう。
石竜子も、復讐さえ果たせばその手段として手に入れた教団など他人に渡しても良い等と言っていますが、教団の利権などは欲せずとも、彼が自分の成長を摑み取ろうとしているのは、おそらく事実でしょう。

巣鴨への復讐という妄念で生きているナメクジが復讐の後で生き残るのは、現状では想像し難いことです。
ただし石竜子の方も、未来を志向しつつ、実際にやろうとしていることは新興宗教の教祖としてシラサギ同様の悪党になることであって、その結果として恨みも買うであろう彼の未来が明るいとは必ずしも言えません。

彼らの運命を決するものは一つには、物語中における「罪」の扱いでしょう。
つまり、悪をなし他者を犠牲にしてきた者が相応の報いを受けるのかどうか、です。
入間氏の作品はしばしば「自分が幸福になることで、誰かが不幸になる」というテーゼが登場しますが、しかしこれは必ずしも意図的に他者を犠牲にすることを謂っていたわけではありません。殺し屋という他人を不幸にする職業が多数登場する『トカゲの王』においてさえ、必要以上に他人を不幸にして回る巣鴨は異質な存在です。彼女がヒロインとして堂々と生き続けているのはどこまで続くのか――

 ―――

さて、綾里けいし氏の『B.A.D.』シリーズにおいても、7~9巻では復讐の連鎖を巡る物語が描かれました。

ここで注意しておくべきは、『B.A.D.』のテーマは徹底して「喪失」であるということです。
失われたものを取り戻そうとする人間の哀しさと醜さ、そしてそれによる致命的な歪みが描かれ続けてきました。

たとえば、物語前半の宿敵にある存在であった「狐」こと繭墨あさと「他人の願いを叶える」異能者でした。
ただし、彼は願いに伴う代償をかなり自由に設定することができ、常に理に合わない対価を要求して意図的に破滅を引き起こしてきたのであり、そこに描かれるのは「図らずも道を踏み外す」人間の哀しさよりもまずは明確な悪意でした。しかしいずれにせよ、喪われたものを取り戻そうとすることがいかなる悲劇を呼ぶかは徹底していました。
そして、喪失の最たるものはやはり「死」です。

さらに、復讐というのは常に、取り返しようもなく何かを失ってしまってから始まります。
取り返しのつかない事態に対して、「許せ」というわけにもいきません。同時に、相手が死んでも、どうにもなりません。
突き詰めると、いかなる罪も過ちも取り返しなどつかないのです。
実際、たとえ受けた被害を修復できたとしても、それで受けた痛みや感情までもなかったことにできるのか、という問いも投げかけられます。

それどころか、復讐を果たした後の空虚に直面することは、いっそう失ったものの大きさを味わわされ、自らの傷を抉られることではないのか。
そもそも、最初に「手遅れ」になってしまったことについて、「遅れた」自分に対する責めがいっそう大きなものとしてのしかかってくるのではないか――

 大切な人を失い、復讐に走り、人を殺す。
 一連の行動は嵯峨雄介の原点であり、致命的な傷を負った要因だ。

 同じ行動を繰り返して、彼は一体どうなるのか。
 (綾里けいし『B.A.D. 8 繭墨は髑髏に花を手向けない』、エンターブレイン、2012、p.18)


 愛していた人間が殺されれば、人は憎み、怨むはずだ。
 腹が開くのを覚えた。僕は言葉に迷う。頭の中は無茶苦茶だ。

 怒ろうとして、諭そうとして、できなかった。何を言っても、表面的な言葉にしかならない。代わりに、僕は混乱をそのまま口にした。最初に浮かんだ言葉を吐き出す。

「…………………それでお前は、一体、どこに行くんだよ」

 雄介は眉をひそめた。僕はその顔を強く睨む。疑問と怒りが吹き出した。

「もう取り返しがつかないから、お前はどこに行くっていうんだよッ!」
 (同書、pp.274-275)


復讐によって、自分に対する決着をつけて「原点に立ち返る」ことすらできず、いっそう傷を深めてしまうとしたら、どうなのか――そこを描くのが『B.A.D.』の真髄です。

もっとも、本作の場合、主人公の小田桐勤も相当に面倒な人間です。
たとえば3巻では、彼が人を「助けようとした」ことが悉く裏目に出て、関係者は皆死にました(もっとも、それも「狐」の仕込みなのですが)。それで一度は自己崩壊しそうになりながら、結局彼は「人を助けようとする」ことをやめられません。「復讐は何も生まない」とかいった決まり文句を吐きつつ、自分が他人の悲しみを「わかっていなかった」ことに気付くのにも随分と時間を要してしまう、そんな人間です。
実のところ彼のそうした献身は、9巻で今後の敵らしき「紅い女」が指摘するように、「まとも」であらんとし、自分のアイデンティティを築こうとする足掻きなのかも知れませんが……

しかし、自分と浅からぬ縁の相手がこれから行わんとしていること――復讐――によって自ら傷付き、破滅していくばかりであることを予感していれば、常識的な範囲内では、止めたくなります。
「常識的な範囲内」というのは、ある域に達すれば「もう何も言えなくなる」状況があることを想定してそう言うわけですが、『B.A.D.』の場合、誰も本当に狂うことなどできないのではないか、と思われる面もあります。だからこそ、もう、引き際がどこにあるのかなど分からないのでしょう。

それでも『B.A.D.』の9巻はこのシリーズとしては例外的なほどにハッピーエンドとなるのですが、それはそれぞれの人物に、まだ失われきらない希望が存在していたからでしょう。


そしてそんな中でも、繭墨あざかと対をなすように描かれている「紅い女」の働きかけが不穏な事態を生じさせて引きとなります。
そして続く10巻からは最終章となる「繭墨編」が開始とのこと。もっとも人間離れした登場人物である繭墨あざかの堀り下げが進むのかもしれませんが、上述のような本作の特徴を考えれば、描かれることはおそらく一つではないかと思われます。

「繭墨あざか」は、いかなる喪失の上に成り立っているのか――

先祖が鬼を食って異能の力を手にしたとか、「あざか」になれない女に存在価値はないという繭墨家の異様な風習とか、代々殺される定めにあるといった事は語られてきましたが、いよいよその根本に触れる時ではないか、と。


B.A.D. 7 繭墨は人形の悲しみをかえりみない (ファミ通文庫)B.A.D. 7 繭墨は人形の悲しみをかえりみない (ファミ通文庫)
(2012/01/30)
綾里 けいし

商品詳細を見る


B.A.D. 8 繭墨は髑髏に花を手向けない (ファミ通文庫)B.A.D. 8 繭墨は髑髏に花を手向けない (ファミ通文庫)
(2012/04/28)
綾里けいし

商品詳細を見る


B.A.D. 9 繭墨は人間の慟哭をただ眺める (ファミ通文庫)B.A.D. 9 繭墨は人間の慟哭をただ眺める (ファミ通文庫)
(2012/10/29)
綾里けいし

商品詳細を見る

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村 人気ブログランキングへ

テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL

プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
参考文献
私が展開している思考の拠り所など(一部)。
スポンサー広告
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。