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友達、それは無限にして根源的なる次元――『パーフェクトフレンド』

昨日に引き続き、今回も野﨑まど氏の作品を取り上げます。
『小説家の作り方』に続く第5作となります。

パーフェクトフレンド (メディアワークス文庫 の 1-5)パーフェクトフレンド (メディアワークス文庫 の 1-5)
(2011/08/25)
野崎 まど

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とりあえず、カバー裏のあらすじを見ておきましょうか。

 周りのみんなより、ちょっとだけ頭がよい小学四年生の理桜(りざくら)。担任の千里子(ちりこ)先生からも一目置かれている彼女は、不登校の少女「さなか」の家を訪ねるようにお願いされる。
 能天気少女のややや(注:「ややや」で名前)や、引っ込み思案の柊子(ひいらぎこ)とともに理桜は彼女の家に向かうが、姿を現したさなかは、早々に大学の勉学を身につけ、学校に行く価値を感じていない超・早熟天才少女であった。そんな彼女に理桜は、学校と友達がいかに大切であるかということを説くのだったが……?


かくしてさなかは、「友達」というものについてのまず(まずは知的)興味から、学校に来ることになります。
聡明で大人びた子であった理桜の側としても、圧倒的な天才という初めて見る他者との出逢いがあり(友達の大切さを説いてしまうのも、まずは「負けたくない」意識からでした)、他方でさなかとしても「友達」という未知の世界との出会いがあります。
もっとも、さなかは好き勝手に皆を観察して回ったり、辞書で「友達」について調べたりと奇行を連発し、そこにコミカルなやり取りも多々生まれますが……理桜は当初、そうした面倒の原因であるさなかのことが好きではありませんでしたし。

ここで余談めいた話になりますが、作中で「義務教育だから学校に行かねばならない」旨のやりとりが出てきます。
しかし本来、「義務教育」とは親に「子供に教育を受けさせる義務」があるという意味です。したがって、親が家庭教育をきちんと行うならば、学校は免除されるのです。
一応、学校に行かなくて済む措置の話は出てきますが、基本的に作中において「義務教育」は「子供の学校に行く義務」と見なされているようです。
これを単なる間違いと考えるか、現代の子供たちにとって学校がどのようなものと見なされているか、というアクチュアリティの描写と捉えるかで、この作品の印象は若干変わってくるかも知れません。

それはさておき、時には身を呈して友達を助けたりする振る舞いについて、さなかはその「非論理的、反利害的、超経済的」なることを疑問を思います。
しかし彼女は分析の結果、集団レベルではそうではないことを発見します。3~7人の少人数グループを作っているのが一番効率が良いのであって、友達とはそのような効率化のためのシステム的現象である、というわけです。
そこから友達定数とか友達方程式といったものまで引き出してしまうのは、例によって考えることも不可能なハッタリが全開です。

しかし、後半の急転直下の展開はそうした計算をも超えていきます。
本作は、怪物的な天才が自らの計算を超える「友達」という圧倒的な存在に出会う物語なのです。
冒頭で「友達とは、素晴らしいものである」というのが本作のテーマだと宣言されていたのは、(意外にも)嘘ではありません。

ただし、最後にはもう一転して、事をたんに良い話に留めておかない不気味なものが示唆されますが…
作者の過去作品を読んでいる人にとって、キャラややり取りが似ているなと思うのは決して気のせいではなかったわけで…(そんなわけで、基本的に過去作品を読んでいる読者向けのオチとなっています)

 ―――

ここからは私の立場からコメントさせていただきましょう。

さなかは友達が「非論理的、反利害的、超経済的」であると言います。
ただ、ここでの「非論理的」というのはもちろん、命題論理のレベルで矛盾しているという話ではありません(以前に述べたように、そのような意味で「矛盾」したことが「起こる」ことはあり得ません)。
「非論理的」というのは、「ある目的を達成しようとする場合、そのやり方は理に適わない」という程度の意味でしょう。そしてその目的はというと、次の二つ――「利害」と「経済」に回収されます。問題になっていたのはまさしく、友達のために「利害計算を超えた振る舞いをする」をいう事態だからです。
さなかは集団としての「効率」をその疑問への答えとします。

「 問.“友達とは何か”
 答え. 人類の効率を向上させるシステム。
  問.“なぜ友達が必要か”
 答え. 人類の効率を向上させるため。  です」
 (野﨑まど『パーフェクトフレンド』、メディアワークス、2011、p.147)


が、上記のように考えてみた場合、「目的とは効率化である」というのは分析の結果として明らかにされたというよりも、むしろ最初から前提されていたのではないか、という疑問が生じます。それが不当前提である疑惑はちゃんと払拭されているのでしょうか。

さなかもまた、集団の効率化ということを各自が「考えて」友達になっているわけではないことを認めます。
しかし、効率化ということを考えているのは個人の頭です。
個人の思考や意識を超えた集団の振る舞いもまた「効率化」を目指すということは何によって保証されているのでしょうか。

言い換えると、個人から集団にレベルを変えたりした挙句、「経済性・利益・効率」を見出したところで「根拠」を見出したと考えるのは、なぜでしょうか。それらの概念はイコールなのでしょうか。

私は必ずしも『パーフェクトフレンド』からかけ離れた話をしているのではありません。
というのも、本作の後半で語られるのは、まさしく友達が「非論理的」、すなわち「論理の外にあるからこそ、論理の通用しない物全てを包括することができる」(p.206)存在であるということです。

「いいかい、さなか。“友達”はね、そもそもが論理的に証明できない存在なんだ。もちろん今は無理でも未来になればできるのかもしれないけど。でも現在の僕らは友達を語り尽くせる言葉を、数式を、概念を持っていない。友達というのはね、人智を超えた存在なんだよ
  問.“友達とは何か”
 答え. 非論理的で反利害的で超経済的な、人の理解を超えた存在。
  問.“なぜ友達が必要か”
 答え. 人が無限の世界を手にするため。だよ」
 (同書、p.207)


「無限」とは定がいことです。それゆえに「全てを包括」します。
つまり、「経済・利益・効率」等といったものに先立ってあり、その上に立っての何らかの限定としてのみ「経済・利益・効率」といったものも成立するところのものです。
(西田幾多郎ならば、論理を含む実在の根底には「何処までも非合理的と考えられるものがなければならない」〔『無の自覚的限定』序〕というところでしょう)

もし、「友達」というのがそのような根本的な次元で生じている出来事であったとすれば、その根本的次元に基づいてこそ可能になる「経済・利益・効率」から友達を説明するわけにはいきません。
全てを支える根拠を、支えられる物の内に見付けることはできません。それは家を支えているのが地面であることに気付かずに、家の中に家を支えるものを探すのと同じです。

友達というのが、そうした根本的な「生きていること」の内にあるものだとしたら――

 バラは何故無しに在る、咲くがゆえに咲く
 自らを気にかけず、見られているかどうかを問うこともない
 (アンゲルス・シレジウス)


シレジウス瞑想詩集〈上〉 (岩波文庫)シレジウス瞑想詩集〈上〉 (岩波文庫)
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その上でそれを意のままにできる怪物があるとしたら、それは生をその根源から意のままにできるような存在でしょう。

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テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育

コメント

No title

そのような問題のたて方に意義があるとはちょっと思えません。いかに根本的な……超越的な、といったほうが近いような気がしますが……なにかに立脚しているように見えるとしても、それが人間の行動に含まれている以上は完全に因果性の中に取り込まれており、「そういう対応をしたら、そういう結果になる」ものにすぎないからです。

スピノザ先生だったら確実に偽問題として切り捨てていたでしょう。わたしも偽問題だと思います。

「経済・利益・効率」と、すべての存在の行動とは、完全に切り離されているのは当たり前の話です。経済的で利益にかなっていなくて効率が悪くても、生物なりシステムなりが必然的にそうするならば、それは必然的にそうなるのです。

必然的なものとしてそこに現前しているうえは、必然的なものとして以上の意味をそこに読み込むのは、「バラはバラである」という単なる事実に超越論的な意味を求めようとすることと同じではないかと思います。それが意味があることだとは、わたしには思えません。

意のままにするような怪物の存在については、意のままにする、ということをどのようにとらえているのかかわからないので保留しますが。

Re: No title

・ここでの話と、「完全に因果性の中に取り込まれて」いることとの間にいかなる対立関係があるのか
・「超越論的な意味」という表現は過去にも使われていますが、この「超越論的」という形容詞を「意味」に付することはそれらの語のいかなる意味に即したもので、何を言わんとしているのか

以上の2点がよく分からないので、明確な返答は致しかねます。

が、推察してみるに、因果性の系列の内に組み込まれるものは、「全ての根拠となり、それ自身さらなる根拠を(当然、原因も)持たないもの」というステータスを持ち得ない、という意味でしょうか?
実際、「人間の行動」として客観化して見るなら、そうなります。
しかし私がここで問題にしているのは、そもそもそうした客観視点の成立にあっても前提となる、何かが「在り」「現れる」ということです。

つまり問題は「必然的なものとしてそこに現前している」ことの「現前」とはいかなる事柄なのか、という(「意味」ではなく)「いかにして」です。
そのような根本現象を「生」として捉える(もちろん、生物学的な意味や、無生物と対置される一部存在者の性質という意味ではなく)ことが、「生の哲学」と呼ばれるものの伝統であり、ここではシレジウスの2行詩もその文脈において解釈されます。

そして私が問うているのは、「咲くがゆえに咲く」すなわち「生きるがゆえに生きている」生のあり方を、つまりそちらの表現に即するならば「必然的なものとしてそこに現前している」ものを相手にして、何かの意味を読み込むことではなく、背後を探すことでもなく、ある通りにその現れのあり方を詳しく規定することに他なりません。
そして、それを誤って(たとえば「経済・利益・効率」といった)二次的な水準から解釈してしまうことこそ「必然的なものとして以上の意味をそこに読み込む」ことになる、ということです。

No title

なるほど、どこかズレていたものを感じていたのは、おたがいの「生」というものに対する認識の違いに原因の一部があるようですね。

「人間の『生』」について、他の『生物』の『生』に対する存在論的優位を認めるかどうかがその違いのようであります。

お話をうかがっていると、その他の点では共感やうなずけるところが多々ありますので、これからも訪問をさせていただきたいと思います。

とはいえ、やっぱり、『友達というものが、根本的な「生きていること」のうちにある』という文を読んだときに覚えるこの奇妙なぞっとした感覚の原因はなんだろうか……と考えてしまうのであります。

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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
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