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根拠を問う

年末に登ってきた西穂では遭難者が出たと正月にはニュースになっていました(私どもは結局上高地の方には行きませんでしたが、上高地から明神岳に登るルートでも遭難者が)。
もしかすると、私たちは遭難したグループに会っていた可能性もありますが…

こう言うとしばしば「あなたも危なかったのか」といった反応をされますが、別に例年に比べ特に危ない状態であったわけではないと思います。
他と比べて特に危ない状態であるわけではなくとも、遭難する時・人はしますからね。

 ~~~

前々回の話について少し補足しておきましょうか。

まず、“なぜ生物が「効率」を追求すると考えるのか”については、何も目的論的な思考をせずとも、経験的なレベルにおいてはある程度まで、自然選択理論による説明も考えられます。
つまり、生きるのにかかるコストが少ない方が平均すればより多く生き残ることができ、結果的には現に生き残っているのは「より効率的であった生物」の子孫のみである、という説明です。

このような説明はまったく間違っているわけではありませんが、弱さもあります。

まず「効率的である」「生きていく上で有利である」といったことを測るものさしが明瞭ではないことです。
むしろ結果的に生きている生物のあり方を見て、そこから「生物が“上手くやっている”とはどういうことか」を推論することになります。
たとえよく似た生物が2種類いて、一方が栄え他方が滅びていくのを見たとしても、その結果を見てから「生き残った方は何か有利な点があったはずである、それは何か」と考えているのが実情ではないでしょうか。
論理的に言って、上手くやっていない方よりも上手くやっている方が生き残る、ということに間違いはあり得ません。しかし、それは論理的に常に正しいがゆえに、単に形式的に前提されているだけという可能性もあります。

もう一つ、より具体的な問題は、「他の条件が同じであれば、効率のいい方が悪い方より多く生き残る」ということは正しいとしても、そこから「あらゆる不便・非効率を排除するような強い圧力が自然には存在する」ことは導かれないことです。

そもそも生物は先祖から受け継いだ形質を可能な限りで変化させることしかできない、つまり、常にありあわせのものでやりくりしています。
ですから、「1から設計するならもっと上手いやりようがある」としても、それはできず、結果的に不便な形で何とかしている場合も多々あります。
競争相手が全て「ほどほどに不便」であり、「もっと良い選択肢」がなければ、不便であっても生き残るでしょう。

有名な例で言うと、人間は直立歩行をするために骨盤が発達していますが、その結果として産道が狭くなり、難産を強いられています。
ここで「お産が困難であること」それ自身が「いかなる役に立っているのか」と問うのは、おそらく見当違いです。

その上でですが、「直立歩行のために骨盤が発達したから、その副産物として産道が狭くなった」というのも説明であり、それも「難産」を「骨盤の発達」という別のものによって説明しています。
あるものを別のものによって説明することは、実際にある範囲内では成立していることであり、それ自体は間違っていません。
「手を離したから、そして地球の重力が働いていたから、卵が落ちた」「落ちて地面にぶつかったから、卵が割れた」と説明することは何もおかしなことではありません。

しかし、他のことからは説明されない事柄、というのもあります。
それをどういう次元で考えるのか、というのはまさに無数の立場があり得るところですが、いつぞやの「クオリア」もそれと言えるでしょう。
「赤い」という質を感じるのは「そこに赤いものがあるからだ」と言おうが、はたまた我々の精神の中で質が生み出されているのだと言おうが、(いずれの説明も成り立っていないというわけではないものの)結局「“赤い”という質」を前提することなくては説明は成り立ちません。


ついでに、西田幾多郎の名前を出してしまったので、そちらも少々。
「非合理的なもの」なるものがつまるところ何を謂っているのかは難しいことです。
そもそも『善の研究』「純粋経験」からして、これを「悟りの境地」のような特殊な状態でしか至れないもの、とする解釈はありました(西田が禅の修業をしていたことをそこに結び付けるのも容易です)。
その方向で考えるなら、まったく一般性のない事柄に説明原理を委ねる神秘主義であり、哲学としての公共性を欠いた言説、哲学の宗教化であるという批判も可能でしょう。
テクスト的には、そうも読めます。

しかし他方で、「純粋経験」とは、誰しも、何かを経験する時には必ず経験しているはずの現象である、という解釈も可能です。
私もそちらに与し、幸いにして上のような「神秘的」解釈は不要と考えさせていただきます。

つまるところ問題は、「根底」なるものが何か隠されたもの、限られた条件下でしかアクセスできないものであると考えるか、それとも全ての現象の内に現れており、誰もがそれと気付かずとも知っていることであると考えるか、です。
後者に与するならば、根拠を問うとは、背後に何か隠されたものを探すことではあり得ません。

ここで前半の話と考え合わせるならば、在るものが在るように在ることの内で、他のものから説明されず、他のものがそこから説明されるところの事柄こそが「根底=根拠」です。
根拠にさらなる根拠がないこと、すなわち「二重底」がないのは当然のことです。

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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