スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「スクールカースト」の構造的問題

「スクールカースト」――この言葉は今や人口に膾炙し、フィクションに関しては「スクールカースト物」という一種のジャンルすら語られるようになりましたが、これは学術用語ではありませんし、辞書に載るほど出来て時間の経っている言葉でもありません。
が、この問題を扱った教育学系の研究書が出ました。

教室内(スクール)カースト (光文社新書)教室内(スクール)カースト (光文社新書)
(2012/12/14)
鈴木 翔

商品詳細を見る

本書は著者・鈴木氏の修士論文とのことで、指導教官である本田由紀氏の解説付きです。

本書によると、(著者の確認できた限りで)「スクールカースト」なる言葉が最初に「紙面に載」ったのは森口朗氏の著作↓とのこと。

いじめの構造 (新潮新書)いじめの構造 (新潮新書)
(2007/06)
森口 朗

商品詳細を見る

さらに、森口氏はおそらくインターネットからこの言葉を入手したと推論し、さらに『AERA』の2007年11月19日号には「スクールカースト」という言葉を生み出したという人物のインタビューが掲載された、と指摘しています。
さらにこの『AERA』の特集記事には、スクールカーストの「1軍」「3軍」を見分けるための「チェックリスト」も載っているとのこと。

――ここでこの本の話から外れますけれど、このチェックリストの「3軍」の方にある「休み時間に居場所がなく、寝たふりをしている」といった事柄は、フィクションの「スクールカースト物」にもしばしば描かれるものですが、私には究極的には分からないと申さねばなりません。
というのも、私にとって空いた時間とはすなわち本を読むものであって、人と一緒に過ごさねば居場所がないという感覚がよく分からないからです。
むしろ「外で遊べ」とか言って引っ張り出そうとするのはいじめだと、かねてから思っていました。

まあ、これは一人で時間を過ごせる趣味を持ったがゆえの幸運と言えばまったくその通り。
しかし、そもそも「空いた時間は人と一緒に過ごさねばならない」という考え方事態、学校教室が狭い空間に多くの人間を詰め込むことによって生じた、きわめて不便な文化ではないかという気もするのです。

ちなみに、大学はもっとずっと緩やかです。
ただし私は、「大学における交流の場としてはサークル活動等のウェイトが大きい」という通念に反して、サークルに入った試しもなく、人と出会う最大の場を授業として暮らしてきました。
まあ、これは前の大学があまりサークル活動の活発でなく、しかも狭く授業数も少ないので普通に過ごしているだけで同じ人間と出会う機会が多く、さらに専攻の授業では共同で動くことも多かったことによりますが。
こういう人間はマンモス大学にはまったく向きません。

閑話休題。
この『教室内カースト』は、『AERA』のチェックリストを不十分として、インタビューに基づき「スクールカースト」振り分けの条件や、またこのスクールカーストが下位層の生徒にとってはもちろん、上位の生徒にとってもしばしば「重荷」となっていることを明らかにしていきます。

さらに興味深いのは第5章「教師にとっての『スクールカースト』」でして、ここでは教師が教室掌握のためにスクールカーストを積極的に認めて利用していたり、スクールカーストの上下によって扱いに差を付けていたりすることが述べられます。
ここでのインタビュー中の先生の発言には「(下位のグループにいる生徒は)100%将来使えない」(p.244)など問題含みのものも多く、またあとがきによると「『スクールカースト』に問題意識を持っていて、積極的に解体しようとしている先生も」いたが、「許可が下りず」収録できなかったとのことで、問題含みの先生の方が目立っているのは遺憾なところでもあります。

そして重要なのはここからですが、先生がなぜスクールカーストを評価するかと言えば、それを「何かしらの『能力』による序列であると解釈しているから」(p.256)ということです。
つまり、たとえば「コミュニケーション能力」だとか「リーダー性」だとかが高い生徒が上に来る、それは意味があることであり、評価に値することであり、どの地位にいたかが「いい経験として生きてくる」(p.257)というわけです。

 つまり、教師と生徒は、ほぼ同じ状況を見て、生徒間の「地位の差」、すなわち本書でいうところの「スクールカースト」を把握していますが、その解釈にズレが生じているということです。
 生徒が「権利」の多さを軸とする、「権力」構造として「スクールカースト」を解釈しているのに対し、教師は「能力の高さ」を軸とする、「能力」のヒエラルキーだと解釈しています。
 (鈴木翔『教室内カースト』、光文社、2012、p.273)


もっとも、「権力」と「能力」がどう違うのかは微妙な問題です。
どちらも「何かをできる力」であり、英訳するならいずれも power とすることは可能だからです(「権力」が power に対して、「能力」に当たる英語は faculty 辺りが一般的だとは思いますが)。
さらに、「権力」が「『権利』の多さ」と言われていますが、本来「権利(right)」とは「力」ではなく「正しさ」であって、これを「力」と見なすのは「権力」と同じ「権」の字を用いる翻訳ともども問題が大きいこと、先日触れた薬師院仁志氏の『日本語の宿命』でも論じられていました。

とは言え、文脈からすれば、ここでの「能力」からはたとえば「力づくで相手をねじ伏せる能力」のような(これも定義上は「能力」のはずですが)といったネガティヴなものが排除されていることは明らかでしょう。
ちなみに、本田由紀氏の解説では以下の通り。

「権力」とは、「とにかく相手に自分の言うことをきかせる力」のことですから、必ずしも正当性をともなっていないこともあります。しかし教師がとる「能力」という解釈は、地位の上下に対して、正当性の裏付けを与えるようにはたらきます。「人がその能力によって評価され、社会的な位置づけを得る」ということを、正しいこと、望ましいこととして広く強く受け入れている、社会の状況があるからです。
 (同書、p.303)


さらに言えば、ここで言われている「能力」とは「コミュニケーション能力」にせよ「リーダー性」にせよ、本人に属しているものであり、どこに行っても変わらないはずのもの(だからこそ、学校を出た後の「将来」にも直結するものと考えられているわけです)であるのに対し、「権力」は学校における固有の人間関係に依存する面が大きいものである、という問題があるのではないでしょうか。

構造的な問題を属人的な問題と取り違えないこと、問題はおそらくそこです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村 人気ブログランキングへ

テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育

コメント

No title

コンイチワ!

ワタシも休み時間は、
とにかく読書していました。

話すのより、読書が楽しかったからです。

みんな友達をつくるのに、
維持するのに必死でした。

ヒエラルキーに属さないものは
下層部に全体からみて位置するのでしょうかね~。

お邪魔いたしました~。


コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL

プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
参考文献
私が展開している思考の拠り所など(一部)。
スポンサー広告
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。