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怪物たちの狂宴――『2』

今回取り上げる小説はこちら。

2 (メディアワークス文庫)2 (メディアワークス文庫)
(2012/08/25)
野崎 まど

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物語が主人公が日本一の劇団「パンドラ」に入団するところから始まりますが、しかしこの劇団にイレギュラーな入団希望者が現れたところで事態は一転、突如として劇団は崩壊し、さらに次々と過去作品の登場人物が登場して壮大な「映画作り」の物語が展開されていきます。
そんなわけで、この作品は作者のデビュー作『[映]アムリタ』の続編であるばかりでなく、『舞面真面とお面の女』『死なない生徒殺人事件』『小説家の作り方』『パーフェクトフレンド』の全てを引き継いだ作品となります。タイトルの「2」は作中に登場する「究極の映画」の名であると同時に、過去作品の続編を意味する名でもあると思われます。

目標はやはり映画を――それも「この世で一番面白い映画」を作ることです。実のところ、「(究極の)面白い作品を作る」というモチーフにおいて『[映]アムリタ』と『小説家の作り方』は様々な点で対応していましたが、この『2』ではそれらが組み合わさり、過去作で未完であったプロジェクトも関わってさらなる高みの作品を目指すことになります。
ここで発揮されるのは各作品に登場してきた怪物的な人物たちの能力であり、本作は5作品の怪物が揃って登場する、さしずめ怪物たちの競演です。

野﨑氏の作品に登場する怪物たちは“人の心を自在に操る”“人の肉体を人の形でないものに変質させる”“永遠の命を持つ”といった能力を持っていました。それは究極的には――生のあり方を変容させたり、操ったりするのであれ、自らが得意な生を持つのであれ――「生」に関係する能力です。
その中でも、『[映]アムリタ』のヒロインであった最原最早(さいはら もはや)は、本物の妖怪すら圧倒して、物語の中心で活躍し続けます。それは彼女が、創作物を通じて誰よりも自在に人の心を動かし、操れるからに他なりません。

「そうです。創作物を鑑賞して楽しくなること、悲しくなること、これが一番弱いレベルでの精神の変容です」
「弱い?」僕は聞き返す。
「心にもう一段階強く触れれば、楽しい、悲しい、と感じる基準そのものを動かすことができます。言うなれば価値観の変容です」
 最原さんはゆっくりと言葉を続ける。
「野球の試合に感動して野球選手になりたいと思う変容。動物の映画に感動して動物を好きになる変容。それが価値観の変容です。心を動かす創作物は、それに触れる前と後とで人の心を変化させる。言ってしまえば創作に触れる前後で、人は別人になるのです。一部の好みが変わる程度の変化ならば、残りの部分でパーソナリティを維持することができます。ですが初めから価値観の大きな変容を目的として創作したならば、一人の人間を本当に別人にすることも可能でしょう」
 (野﨑まど『2』、アスキー・メディアワークス、2012、p.300-301)


文字通りの活殺自在

昨日の話にも多少繋げて、フィクションというのはすなわち現実ではなく「偽り」ですが、偽りは偽りなりに、単に現実の上に浮いているだけでなく、現実に影響を与えます。
良い影響にせよ悪い影響にせよ、創作物が人の心を動かすというのは、確かにそのような現象と言えます。

さて、もしある大胆な小説家が、われわれの通常の自我によって巧みに織られた布地を破り、この外見上の論理の下に根本的な不条理を、単純な諸状態の並置の下に無数の様々な諸印象の無限な浸透――それはわれわれが名付けた瞬間、すでに存在することをやめていたものである――を示してくれたら、われわれが自分自身で知っていたとりも多くのことを教えてくれたとして、われわれは彼を賞賛するだろう。しかし実情はそうではなく、彼がわれわれの感情を等質的時間の内で展開に、その諸要素を言葉によって表現したという、まさにそのことによって、彼は今度はその感情の影を提示しているにすぎない。ただ、彼はこの影を、それを投影する対象の並外れた非論理的本性を勘付かせるような仕方で配置したのである。彼はこうした矛盾や相互浸透をはらむ、表現される諸要素の本質そのものを構成する何かを表現することで、われわれを反省させた。彼によって促されて、われわれは一時、自分の意識と自分の間に自分で介在させていたヴェールを遠ざけたのである。彼はわれわれをわれわれ自身に向き合わせたのである。
 (アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』)


さて、「偽り」を通して生をもっとも意のままに掌握する怪物の目指す境地は一体何か――

今までも何度も言ってきたことですが、野﨑氏の作品は「五角形と四角形の間の図形」といったイメージ化不可能なハッタリを駆使します。それは今回も変わらず。

 最初の十五分を見ただけで僕は理解した。いいや僕だけじゃない。この場にいる新人全員が理解していたはずだ。僕たちが見たもの、それは紛れも無い『演劇の稽古』だった。
 そこには僕らが理想として思い描いた稽古そのものが、いやそれ以上の、想像も追いついていなかったレベルの世界があった。
 これだ。これが演劇だ。『演劇の稽古』とはこれのことを言うんだ。全員が直感的にそれを理解した。
 だったら。
 僕たちがやっていることは。
 僕たちがやってきたことだ。
 そんなことを悩む間もなく、演技をした先輩の役者に向かって、御島鋳の演出指導が入る。
 何を言っているのか全く解らない。
 御島さんの言葉は解る。何を喋っているかは解る。だがそれがどういう意味なのか、何を目的としているのかが全く理解できない。槍子さんの言葉とは全然違う、まるで異世界の言葉のようだった。
 だが先輩の役者はうんうんと頷いている。そうして修正が加えられ、同じ場面の二回目の稽古が始まった。
 二回目の演技は、完全に間違っていた
 指導を受けた役者の演技が明らかに度を越している。激し過ぎる。強過ぎる。僕は焦った。目の前の芝居に焦った。本当に芝居なのか? これが演技なのか? あの先輩は本当に心が壊れてしまったのではないのか? 心が掻き乱される。見ていられない。あまりにも刺激が強くて恐怖すら感じる。これは長時間見てはいけないものだ。僕は、僕たち新人は、先輩の演技に怯えていた。
 そこで御島さんが止める。先輩の役者ははたと正気に戻る。止められてみてやっと気付く。やっぱり今の葉演技だったんだと。
 御島さんの二回目の演技指導が入る。そして三回目の演技が始まった。
 そこで演技が完成した。
 (『2』、pp.63-64)


ここで起こっていることを具体的に想像できる方がまともではないでしょう。
これはいわば、挿絵の入るところに「絵にも描けない美しさ」と書くようなギリギリの乱暴さですが、ハマれば魅力的な作風でもあります。
そしてそれは、イメージ化を拒む「途方も無いもの」を、そのような次元でしか語れない怪物の存在を示さんがためのレトリックなのです。


なお、本作は目次も独特で、「0.1」~「0.9」までの9章の後、「1」「2」という章が続きます。「2」以前に「1」に到達するまでが長いことの意義もまた、「2」という(作中映画の方の)タイトルの意味と合わせて、作中で明らかになるでしょう。
この章の区切りはページの断面だけ見ても分かります。

2 断面

ページの上から下まで走っている黒いライン(500ページ超の内100ページ過ぎ)までがプロローグに当たる「0.1」です。
しかし、目次には「2」までしかないのですが、よく見ると「2」で終わっていないような――
謎解きの後のどんでん返しもいつものことですが、今回はそれがさらに多層になっています。

究極の作品を作ればそれで終わりなのか――いや、そうではないのです。


なお、過去作品も含めてネタバレに踏み込んだ話などはまたの機会に。

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創作の毒抜き――『2』(ネタバレあり)

今回は先立って取り上げた野﨑まど氏の『2』の話の続きですが、過去作品も含めてネタバレです。 それゆえ続きは以下に。
プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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