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創作の毒抜き――『2』(ネタバレあり)

今回は先立って取り上げた野﨑まど氏の『2』の話の続きですが、過去作品も含めてネタバレです。
それゆえ続きは以下に。




まず、『[映]アムリタ』と『小説家の作り方』は共に「面白い創作物を作る」というテーマを扱っていることに始まり、対になるようなよく似た構造を持つ物語でした。
しかし、すでに創作物で文字通り「人の心を動かし」、天才だとか魔女だとか呼ばれていた『[映]アムリタ』の最原最早に対して、『小説家の作り方』の紫の「世界で一番面白い小説を書く」という目標は未完でした。
ただ、それは必ずしも単に「“世界で一番面白い小説のアイディア”だと思ったものが錯覚だった」というだけのことではありません。それならば作中で物実の言っている通り、創作を行おうとする人間の多くが通る錯覚ですが、ここで問題なのは、やはり怪物なのです。

(……)私は興奮しながら、自分の書いた文章を読んで頂いたのです。もちろん当時の私は素晴らしい物が書けたと思っていました。思い込んでいました。皆さん喜んで下さると思い込んでいました。ですが……反応は想像とあまりにも違いました。喜ぶなどという話ではなかった……読まれた皆さんは変わってしまわれました。変質されてしまいました。私のメモを読んだ方々は、人の形を保てなくなってしまったのです。その結果を見て私は思いました。私の文章はまだ、人に読ませられるようなものではないと。だから私は物実さんに小説を教わりに来ました。そして四ヶ月も教わったのに……今度こそと思ったのに……満を持して書き上げた作品は、まだとても見せられるものではありませんでした。駄目です。駄目なんです。また一から書き直さなければ……いえ、その前にもっと、もっと小説のことを学ばなければ……」
 (野﨑まど『小説家の作り方』、アスキー・メディアワークス、2011、pp.237-238)


物実は軽く流してしまいますが、ここには途方もなく不穏な記述が含まれています。
実は序盤に種は撒かれていました。

 何かネタになりそうなものはないかなと携帯でニュースのページを眺める。トップニュースは《兵庫・一三〇人、集団失踪》だった。初っ端から事実は小説よりなんたらなニュースである。記事の続きを読んでみると、某大手企業の製作所で職員が集団失踪、現場はどこからか漏れだした乳白色の排水で水浸しだったという。見出しだけでなく中身まで怪談みたいな事件だった。
 (同書、p.11)


この真相が上記。
つまり、最原最早の作品が人間の精神を操るのに対し、紫の作品は人間の肉体を変質させるのですが、ただそれは紫自身の意図の外であり、彼女はむしろその効果を無くして「人に読ませられる」作品を作ろうとしていたのです。

そして、『2』において、最早は映画の脚本担当として紫に白羽の矢を立てます。
人を超えた存在である最早は、紫の作品を平気で読むことができるのです。
最早は紫の作品に(端からは理解できない)修正の指示を出し、その作品を「読める」ものに仕立てていきます。

それでも、できあがったシナリオにはまだ、ほとんど魔術的とも言える効果が残っていました。ここでの「読み出して、気が付けば何十時間も読んでしまっている」という演出は『[映]アムリタ』でもあったものです。
ただし――

「そうだね……言葉を選んで説明すると」真面さんは少し考えてから言う。「数多君はそのシナリオを二日も読み続けた。その時の数多君の脳内でどんなことが起きていたかまでは解らないけれど、結果としては取り憑かれたように二日過ごしたという事象だけが残っている。それこそまるで麻薬中毒のように」
「はい」
「なら、麻薬をやればいい」
「……え?」
「麻薬をやったような結果が欲しければ、麻薬を使うのが一番早いってことだよ」
 真面さんは身も蓋もないことを言った。いやまぁ、それはそうだけど。
「僕が言いたいのはこういうことさ。早く簡便に代替する手段があるとしたら、最原さんがそれを選ばない理由を考えなければならない。麻薬で済むことをなぜ麻薬でやらないのか。論理立てて理解しようとしたらそこが避けられない命題になってしまう。それに麻薬の機能がシナリオにあったのは確かだとしても、今手元にある絵コンテからはそれが失われている。つまりその部分は『2』という映画を作るうえで不要だった要素とも言える」
 (野﨑まど『2』、アスキー・メディアワークス、2012、pp.323-324)


そう、途方も無い効果があるというだけならば、それは怪物の業として決定的ではありません。
紫の文章の「人を液化させる」というのは代替手段はないかも知れませんが、しかしそもそもそんな結果を求めているのではない以上、あっても仕方ありません。

かくして、最原最早という怪物の中の怪物の手にかかることで初めて、紫の書くものは「毒抜き」されて、それにより究極の作品へと向かうのです。
ここに、『[映]アムリタ』と『小説家の作り方』という二つの作品で描かれたプロジェクトが合流して、さらなる高みに向かう光景があります。

同時に、この「毒抜き」のプロセスは、『2』序章における劇団「パンドラ」の練習風景においてすでに描かれていました(『2』の紹介記事にて引用した箇所です)。

 その時、僕は初めて解った。
 僕が今まで客席から見ていたのは完成した舞台なのだ。
 面白くて楽しくて見終わった後に幸せな気分で帰路につく、極上のエンターテイメイント。
 面白さと楽しさと幸せ以外を取り除いた、調理済みのエンターテイメント。
 だけど今僕らの目の前には調理前の素材がある。それは紛れもなく毒物だ。人に食べさせたら二度と目を覚まさないような、絶対に口にしてはいけない毒物だ。
 御島さんは、この稽古でそれを寄り分けているのだ。素材から毒を取り除いて、食べられる部分だけを抽出する。毒とピッタリ寄り添った、最高の味を持つ部分を取り分ける。人間の全ての演技の中から最も美味しい部分を選び出す。
 (同書、p.65)


これを容易にやってのける超劇団「パンドラ」ですらあっさりと崩壊する、そこから究極の作品『2』の制作は始まります。
といことは、『2』の制作は「パンドラ」の練習風景で見られたものをさらなるレベルで行うということであり、それが紫の文章の毒抜きというわけです。

しかも、触れることもできない「毒」を生むことができるのも抜くことができるのも、毒をものともしない怪物だけです。
究極の作品は怪物たちの競演によって生み出されねばならなかったのは、それゆえでしょう。
そしてその中、数々の怪物の中でも、最原最早こそが自分も他者も、全ての怪物の能力をもっとも上手く活用し、操ることができるのであって、それゆえに全てを手の上で転がす圧倒的存在として君臨するのです。

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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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