オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
サイケデリックな夢の世界――『比丘尼少女と悪夢と電妄』
たとえば女主人公であるとか、特定の性格を備えた作品は「ライトノベルではない」として、新人賞の選考でも自動的に弾かれる場合があると言います。
確かにこういうことを聞くと、「それでは“一風変わった良作”や、もしかすると“革命的な傑作”が生まれる可能性をも排除し、硬直した狭い世界の縮小再生産に陥ってしまうのではないか?」という疑問が生じます。
しかし、逆に「ジャンルの枠組みと内容とのズレが重要なのだ」等と言い出すと、また別の問題が発生します。
というのも、「なぜそれをわざわざライトノベルでやるのか?」という作品も存在するからです。
「他のところでは特筆するほどのこともない作品」をあえてライトノベルでやって、「どうだ(ライトノベルとしては)珍しいだろう」と言われても、それは縛りの厳しいところに来て縛りを破っているだけであって、格下の相手を選んで戦い、勝ち誇っているような感がないでしょうか。
「ジャンルの枠組みと内容とのズレがある/ない」と言っているだけでは、これと“かつてないタイプの傑作”との違いがまったく説明できないのです。
(もはや余談ですが、「ギャップが魅力になる」という表現は人間関係――それも主に男女関係――にしか使えないのではないか、という指摘も先日ある方からいただきました)
大切なのは、「なぜそれをここでやるのか?」と「革命的な傑作」の違いがどこにあるのか、正確には誰も知らない(少なくとも説明できない)ということです。けれども、読んだ後ならばどちらなのか、各自で判断することができますし、自ずから判断します。
結局、問題はつねに硬直した形式化にあります。
女主人公であるか否かとか、ラブコメであるか否かといった区分を機械的に当て嵌めるばかりであれば、「例外的なもの」を見落としてしまう可能性があります。形式的な線引きでは捉えられない実質的なものを拾うのが「人間」の仕事ではないでしょうか。
(「ポストヒューマン」といった現代思想寄りの立場にいる論者は、こういうことを言いたがらないかも知れませんが)
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上記の話が前置き、というわけでもないのですが、今回紹介するライトノベルはこちら。
新創刊のレーベル「NMG文庫」の第1弾リリース作品の一つです。作者の名前は他で見ないので新人でしょうか。
![]() | 比丘尼少女と悪夢と電妄 (NMG文庫) (2013/03/19) 道 生之 商品詳細を見る |
まずこのレーベルの黒い背表紙がフランス書院辺りを思い出させる……というのはうろ覚えによる錯覚かも知れません。

それはさておいて、イラストもアニメ絵系ではなく、何とも微妙なリアル寄りのものです。
同レーベルの同時発売作品には半裸の老人が表紙を飾っているものもありますし、この辺にすでにレーベルの目指す独自カラーが出ている気もします。

内容ですが、タイトルにある「電妄」を「完全明晰夢」と説明する台詞が帯にも載っている通り、幻想的な夢の世界へとダイブする話です。
序盤の文章は、何だか分からないままサイケデリックな夢の描写が続きます。
蒸し暑い部屋。大きなヤシの葉が揺れていた。胸をあらわにした褐色の少女が、ヤシの葉をゆっくりと振って、仰いでいた。
少女の座る椅子は、少女よりも肌が黒い。飢えたオオカミを思わせる痩せた裸の若い男。四つん這いになって、背中に少女を乗せていた。
細く編んだ黒い網で、そのベッドのある部屋は覆われていた。パームの繊維を編んで作った蚊帳。
蚊帳の外では無数の羽虫が飛んでいた。神経に障る様々な羽音がかすかに聞こえてきた。ヤシの葉で仰ぐ少女の動きは、機械仕掛けの調度品のように正確だった。
ベッドの上では、褐色の体が、白い肌に覆いかぶさっていた。
こちらは、獲物に不自由していない、充実した獅子のような男。眼はうつろで、視界は夢想に全く奪われているようだった。筋肉で盛り上がった腕が、時折小刻みに動いていた。
(道生之『比丘尼少女と悪夢と電妄』、オークラ出版、2013、pp.21-23)
と淫夢であったり、
犬のように大きな、銀色の頭の巨大なバッタ。
校庭にひしめいているバッタは、みるみるうちにその数を増していった。
窓に止まっているバッタの複眼に、私の顔が映った。その目の数だけ、何十個もの私の顔。二つの鉄の触角が、コンクリートの壁を壊し始めた。教室のみんなは眠ってしまっている。
古文の先生の頭からも、触角が生えていた。先生の顔が、銀色のバッタになっていた。
みんなの顔が震えだした。皮膚の内側に無数の虫が這い回っているような、いびつな痙攣。
やがて、みんなの顔が、銀のバッタになっていった。銀色のあごの上の、細やかなひげが、ささやくように揺れていた。
(同書、pp.27-28)
とホラー風であったり。
しかも前の引用箇所の直前は「あの子にはじめて助けられた時。私は夢から覚めた夢を見ていた」(p.21)とあって、夢から覚めたと思ったらまた夢だったりします。さらに現実での時系列もバラバラになっている部分が結構あって、なおさら混乱を招きます。
さらに、接続詞が少なく、事実を列挙するだけで事実相互の連関を示さないような文体が目に付きます。ただ夢の世界を描写している場面だけでなく、意図を持って登場人物が行動する場面でも、全体の傾向としては同様です。
ついでに、カバー裏もサイケデリックです。

「電妄」にはネットやコンピュータを思わせる「電」の字も入っている通り、どうやらこれはバーチャルリアリティのように人工的に作られたものらしいのですが、その真相とかそれを巡るストーリーとかはまるでおまけのように感じられます。最後まで登場人物たちがなぜこんなことをやってこんなストーリーを展開しているのか、(形式的には説明があれど)今ひとつピンと来ないのです。まるでこの物語自身が夢の世界であるように、感覚的に遠いのです。
それに、この幻想的世界で大きなことを目論んでいる連中と、宗教的モチーフも入った「転生を断つ」といった話と、バーチャルリアリティ的な設定と、それに上記のような電妄のイメージとを結び付けてまとめるという点に関してはかなり弱さが感じられましたし。
筋道よりも幻想的イメージ優先の作品という印象です。映像的は印象は強くありました。
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