オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
続・権力の盲点
悪天候は今までにもありましたが、これは初めてのような。
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以前取り上げたWeb出身小説『死神を食べた少女』において、解放軍の軍師ディーナーは「一が汚れて、十を生贄にして、千を救う」という信条を持っています。
これは、解放軍の兵士たちを食わせるため、密かに略奪を行っていることを指します。もちろん、民衆の味方たることを掲げる解放軍としては、このことは決して表沙汰にはしません。ディーナーが影でこうした汚れ仕事の指揮をも取っているがゆえに「一(=ディーナー)が汚れる」なのです。
もっとも、殺される「十」に入りかけたシェラは言うのですが――
「思うんだけど、一が汚れるだけで済むなんて、何だか不公平よね。だから――」
「や、やめろッ!」
シェラと死神の影が重なり、一つになる。腰から粗末な小さい鎌を取り出す。
「お前も死ね」
(七沢またり『死神を食べた少女 (下)』、エンターブレイン、2012、p.431)
さて、多数を生かすために一部を犠牲にするのは、「最大多数の最大幸福」という功利主義の考え方からすると容認されかねないのですが、本当にそれで善いのか、というのはマイケル・サンデルも講義で取り扱っていた話題です。
少なくとも、もし共同体――小規模な共同体であれ、国家規模であれ――の利益がそのような犠牲の上に成り立っているとしたら、犠牲にされる側はそれに異を唱える権利(=正しさ)があるはずです。
そこで「これは国益のためだ、黙っていろ」と言うのなら、犠牲にされる側としては、そんな「国」を「愛する」義理はありません。
ただし、これはまだどちらかと言うと、利益を享受する「千」と犠牲になる「十」の間の、「正しさ」を巡る対立です(『死神を食べた少女』の場合、「千」の民衆はそもそも犠牲の存在を知らないので、対立は表面化しませんが)。
対して、汚れる「一」は、それが正しくないことをよく知っています。
正しくはないけれど、必要な犠牲であり必要悪だと考えています。
しかし――その略奪の代償として生み出された「死神」シェラがどれほどの脅威となるかは、ディーナーにとっても計算外でした。
必要悪だ、覚悟の上だと思っていても、実はその代償がどれだけ高くつくか、正確に見通すのは難しい――
これこそが権力の盲点でもあります。
功利主義の立場からも、一部をあえて犠牲にするようなやり方は長期的なには弊害が大きく、「最大幸福」を損なうという主張があり得ますが、果たして神ならざる人の目でどこまで「長期的」なことを見通せるのか、という問題は残ります。
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ル=グィンにもこれを扱った好編があったなあ。「所有せざる人々」読まなくちゃなあ。