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いじめと教育と主体の自発性

諏訪哲二氏の学校教育論は見かけるとついつい読んでしまいます。
そんなわけで、今回取り上げるのはいじめを扱ったこの1冊です。

いじめ論の大罪 - なぜ同じ過ちを繰り返すのか? (中公新書ラクレ)いじめ論の大罪 - なぜ同じ過ちを繰り返すのか? (中公新書ラクレ)
(2013/03/08)
諏訪 哲二

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本書は3部構成で、第1部「いじめ論議はなぜ不毛なのか?」では学校に全面的に責任を押し付けるメディアの論考を批判、第2部「学校内外の「ちから関係」を読み解く」では「行政」「民間」「教員」「子ども」の力関係が交錯する場として学校を捉えて、生徒間の人間関係に対し教師ができることがいかに限られているかを述べます。そして第3部「主要ないじめ論を検証する」では尾木直樹宮台真司内藤朝雄といった論者のいじめ論を批判的に検証します。
著者は長年高校教師を勤めた人物で「プロ教師の会」という会の代表でもあり、学校寄りの立場から学校バッシングを批判しています。ですから教師側の責任逃れと見えるかも知れませんが、そういうわけではないでしょう。
子どもの問題には家庭や地域での教育も関わっており、全ての責任を学校が担うではわけではないこと、いじめの被害者に対して「加害の当事者はいじめた生徒」(p.43)であって、学校が被害者側の家族に追及されても謝罪するくらいしかできないということは、まったくもっともでしょう。

〔いじめ自殺を報道する〕プロセスの中で、学校(教育委員、教師)側もマスコミ側も、「学校にあってはならないこと」というフレーズをよく用いる。
 街場の人はこんな日本語は使わない。あってはならないはずのいじめもあるのが普通(当然)で、ないはずがないと思っている。街場には人間生活の現実の風が吹いているからである。建前はほとんど嘘だと思っている。
 (……)
 もちろん、建前として言われるのであって、言明者が本気で信じているとは限らない。マスコミは真実だなどと思っていないだろう。学校(や教師)を論難する根拠として使っているのだ。不祥事やミスがまったくないのが学校の正常なあるべき姿と考えているわけでもなかろう。「学校にあってはならないこと」という絶対値を振りかざして、学校を、教師のミスを、スキャンダルとして扱おうとしている気配が濃厚だ。
 (諏訪哲二『いじめ論の大罪 なぜ同じ過ちを繰り返すのか?』、中央公論社、2013、pp.38-39)


 確認しておきたいのは、加害の当事者はいじめた生徒であるということだ。
 (……)
 そのうえ、学校(教師)は未成年である「加害者」の人権を守らざるをえない微妙な立場にもある。仮に、少年院に送られることがあっても、また戻ってくる。「知っていること」のすべてを外部に出さないのは隠蔽体質のためだけではない。ここの機微にもメディアは無頓着である。何しろ、悪いのは学校(教師)であると決まっているのだから(学校も学校内部の論理と、世間やメディアの論理を区別しておらず、自分たちの論理をそのまま突き出すからドジなのである)。
(同書、pp.43-44)


本書はそんなわけで、もっぱら「いじめ論についての論議」であって、実際にいじめに対してどうすべきかはあまり語っていません。ただ、第2部の最後で「校内に「いじめ対策委員会」を設置して、校長が中心になって調停にあたる」「まして、被害者が自死するようなことがあったら、学校の無力さを自覚して即座に司法に委ねる」(同書、p.146)といった常識的な提案は挙げられています。
また第3部で山脇由貴子『教室の悪魔』を取り上げた章では、山脇氏の実践を非常に高く評価しており、

お気持ちはわかります。でも、大事なことは、まず雄二君の身の安全、そして彼が心身の健康をとりもどすこと。そして、学校からいじめがなくなって、もう一度安心して楽しく学校に通えるようになることです。学校の責任を追及するのはその後にしませんか。
 いじめの解決に取り組むのと、責任を追及するのを同時に行うのは無理です。責任追及を始めれば、ご両親と学校は敵対関係になります。そうなれば、いじめの解決について建設的に話しあうことはできなくなると思いませんか?
 (同書、p.245)


という被害生徒の父親への説得を「非常に現実的で建設的」と認めています。
単に学校側の保身でなしに、学校の責任を追及すれば良いわけでない理由はこの辺に集約されているでしょう。


さて、諏訪氏の基本的な主張として、学校は「子どもを近代的市民にする場」です。単に知識を注ぐ場ではなく、また子どもは知識を注入する入れ物でもありません。子どもの主体的な学びがなければ、学校は成り立ちません。
そして、1980年代頃から「消費社会」に入り、子どもたちが変化したことで現代の問題が生じてきたというのが、氏のかねてからの主張です。つまり子どもたちが「消費社会」の「一人前の個人」として教師と「対等」な「等価交換」の関係を要求してきたのですが、本来とは教育とは贈与であり、それでは成り立たないというわけです。
それゆえ諏訪氏は、「日本的には西洋近代的個人が根付いていない」という論に反対します。むしろ子どもたちが「近代的個人」として自己主張し、まさに近代市民社会的な対等の関係を求めてきたことが問題の原因と見なしています。
ただし他方で、「本当の近代的個人がこのようなものであるはずはないと思った」旨を語っていたこともあり、氏の「近代的個人」観は大変に両義的なのです。

 とにかく、生徒たちは教師に服従することなく、自分の考えと嗜好で自律して教師に対面するようになった。もうこれは自律した人間としか言いようがない(しばらくたって、私は自立した人間とは、自分がまだ自律していないと知っている人間のことだと思うようになったが)。その現れ方は教師たちの好みに合わなかっただけではなく、社会的にも望ましいものとは思われなかった。そう私たち教師は考えたが、それは教師の立場を救うための一方的な偏った見方ではなく、正しかったといまでも考えている。
 (同書、p.31)


確かに「近代的個人」観とは個人とその尊厳が極めて重要なものであるとする考えに基づいている以上、その前提を受け入れねばなりません。当然、自らを一個の個人として自己主張することになります。
しかし、ただ自己主張するだけでは立ち行かないのであって、「自分がまだ自律していないと知っている」必要もある。

つまり、近代的個人は自己否定を含むことによってのみ近代的個人であり得るのです。
このことが教育論にも関わってきます。

 リベラルは「市民社会的尊厳観」を基にし、理性的・合理的な個人がすでにそこにいることを前提にしている。日本的リベラルはこれが近代の建前にすぎないことを知らず、本当にそこにいることを前提にしているから始末に負えない。そして、子ども(生徒)も理性的・合理的な個人として扱うべきだと主張する。
 これに対して教育(学校)は、子ども(生徒)を理性的・合理的な個人へと向かうように働きかけることを本質としている。つまり、まだ理性的・合理的人間ではないと考えて(リベラルを無視することはできないが)共同体的に教育している。
 (同書、pp.208-209)


近代市民社会が前提する市民は、市民社会的に作られるのではない、ということです。
言い換えると、「リベラル(自由)」ではない「押し付け」によって形成されること「自由な個人」ができる、ということです。そして教育とはそういう領域だというわけです。
これはもっと原理的に言えば、多くの論者が認めてきた「自由であるかどうかを決める自由はない」ということに相当します。

ただ、諏訪氏の論調にも気にかかる部分はあります。
たとえば、山脇氏の『教室の悪魔』に関しても「理念と実践のノウハウが必ずしも整合していない」(p.232)として、理論面には批判的です。山脇氏が「いじめが特定の誰かの問題ではなく、次々に感染していく疫病のようなものである」としていることについては以下の通り。

 ある仮説を立てた場合は、それを証明しなければならない。いじめ=「疫病」という考えは、いじめは子どもたちの生活世界に外から侵入ないしは襲いかかってきたということになる。つまり、いじめ=「疫病」説は、いじめが子どもたちの生活世界の内部から発生したものではないと主張していることになる。子ども自身に積極的な問題性はないことになる。
 だとすれば、いじめはどういうもので、どのようにして子ども世界に蔓延してくるのかを説明しなければならない。そういう説明は、この本には一切ない。
 (同書、p.234)


比喩にはつねに限度があるのであって、山脇氏が言いたいことがそれであるかどうかは疑問もあります。
尾木直樹氏がいじめの原因に「構造的・政策的な問題がある」としていることや、土井隆義氏『友だち地獄』の「優しい」論に関してもそうですが、「この論者は主体としての子どもたちではなく、社会構造や空気といった外的な決定要因を重視する → それゆえ、この論者は子どもたちには責任はないと考えている」という論理展開が目立ちます。
ですが、こういう考え方は、主体の自発性と受動性を対立させる考えに基づいてはいないでしょうか。
しかし、上述の理路からすれば、主体は受動的に“作られる”ことによってのみ、自発的たり得るのです。両者は必ずしも二者択一の関係ではありません。

そもそも、責任問題というのは大変難しいことです。
たとえば災害があった時、天災だと言えば責任を負う人間の責任逃れになりかねず、人災だと言えば誰が悪いという話になりがちです(しかし、「犯人捜し」は必ずしも事態解決に向かわないこともあります)。
しかし、「天災か人災か」の二者択一に留まらない立場を唱えようとしても、人間以外を問題にした時点で「やはりそれは責任逃れではないのか」という批判は出てくる可能性があります。

とは言え、氏が取り上げている論には実際、責任主体としての子どもたちを無視するような論調が見て取れるのかも知れません。
たとえば土井氏の『友だち地獄』に関する章には以下の通り。

 そもそも、子ども・若者たちは彼らが〈優しい関係〉に縛られる以前に、それぞれ主体(一人称)の意識や感覚を持っていたはずである。いや、仮に〈優しい関係〉に囚われていても、「私」の意識や感覚が消失しているはずはない。そういう独りひとりの強弱や濃淡の差のある主体(一人称、「私」)の意識や感覚が、どのような毛色を経てみんなと同じ〈優しい関係〉に導かれていくのかが説明されねばならない。
 土井さんの『友だち地獄』がポストモダン風であるゆえんは、いっさい主体や一人称や「私」が出てこないところにある。だが、現実をリアルに考えてみれば、彼らは先験的に〈優しい関係〉に支配されているのではなう、自ら生や集団生活をしていく中で〈優しい関係〉に誘われていくのであろう。
 (同書、p.265)


つまり、社会構造や人間関係といった“複数の個を包むもの”と“それぞれの主体”との二者択一が問題なのではなく、両者の関係こそが説明されるべきである、ということだと考えられます。

ただし、上ではむしろ主体が「作られる」ことが問題になっていましたが、今回は主体たちが自ら生きる中で関係に導かれていくことが問題になっています。
もちろん、両者の間には相互に形成し合う循環的な関係がある、でもいいのですが、その解明が容易ならざることは、ここからもお分かりかと思います。


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コメント

矢来の外へ

題: 矢来の外に逃げられる様にしていた・・・ 
.
 江戸時代初期の頃のルソン(フィリピン)。
 キリスト教聖職者のルイス・フローレスは、
 長い間、
 現地の人々に布教活動をしていたが、
 それほど成果が上がらないため、
 許可を得て、
 マニラの修道院に来て、
 「祈りと読書」の生活を送っていた。
 その様な時、
 日本で、宣教師が捕えられたというニュースに接した。
 その時、彼は、
 日本に行って同じ様な事をしたいと思った。
 「労苦を重ね、そして、死を味わいたい」と。
 管区長も許可を出し、
 「日本にある聖遺物(殉教した人の死体)を手に入れたい、
そして、手に入ることを喜んだ」。
 日本は、キリスト教の禁教令が出ていて入国してはいけない
時代だった。
 管区長もその事は知っていた。
 この頃の長崎奉行は、幕府の方針に厳格と言っていいほど、
忠実だった。
 幕府の方針は、『棄教をする者の命は奪わない』という方針
だった。
 奉行は言った「キリシタン(信仰)を棄教するなら、自らは
将軍様から権能と職権とを与えられている故、その名によって、
誓って生命は助けよう」と。
 これを、キリスト教は「甘い言葉で棄教を勧めている」とし
た。
 さらに、奉行が「棄教さえすれば釈放するだけでなく栄誉や
利益を与えよう」とも言ったが、この言葉も無視した。
 死に憧(あこが)れていた。
 殉教願望である。
 キリスト教の教え・教義、そして、その洗脳に縛られていた。
 幕府は「むやみにキリシタンを殺したくない」との姿勢であ
ったのにである。
 キリスト教の報告文には、死刑を宣告された場合、「喜悦を
表した」とある。
 しかし、これは、報告書の作成者がキリスト教の聖職者であ
ったので、本国への報告記述の美化があったと考えられる(識
者指摘)。
 また、キリスト教が、殉教をこの上なく美しく洗脳したため
とも考えられるが、日本からの報告公開するにふさわしい様に
美化したことは十分に考えられるとされている。
 いずれにしても、
 「嘘で美化したもの」か、「過剰な洗脳」かである。
 また、キリスト教は殉教される時、「身動きせぬまま死亡す
る様に」と言っていた。
 また、殉教者以外の者は、「殉教した時に、奇蹟が起きたと
言う様に」と言われていた。
 また、「殉教者の死体は聖遺物だ」と言われていた。
 あまりにも、キリスト教が、殉教を讃美し、刷り込みをする
ため、殉教場所に「子供を連れて来る殉教者」も居た。
 「殉教に与(あずか)ることができますように」と。
 幕府は、殉教者を縛り付けている縄目を、ゆるくして、
 火刑の場合、耐え難く思えば、縄を抜け、矢来(囲い)の外
に逃げられる様にもしていた。
 キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)で、悲惨な印象が形成
されているが実態はこうであった。
 キリスト教は禁教であっても、最初、江戸幕府は、キリシタ
ン(信仰)は黙認していた。
 キリシタンの摘発をしようとはしていなかった。
 秀忠が家光に将軍位を譲って後に、キリスト教の信仰が禁じ
られる様になった。
 世の中は、宣教師の従者が、褒美欲しさに訴え出るという様
になった。
 また、江戸の町人は、キリシタンが近くに居ることを恐れた
りするようになった。
 また、旅籠屋では宗旨が尋ねられる様になった。
 一方、キリスト教は、殉教にあった場合、火の中でも決して
身体をくねらせたり、曲げたりせず、
 また、悲鳴を上げたりせず、
 苦痛の表情を浮かべるなとの教えていた。
 識者は、これもキリスト教の報告書の記述の関係もあるため
実態がこうであったかは分からないと言う。
 学術的に、キリスト教のこの類(たぐ)いの報告書は、歴史
的資料としての価値・品位は低く扱われている。
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
URL: http://moppo28.blog.so-net.ne.jp

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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
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