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まともでない/エキセントリック/キャラ立ち

何か忘れた物を取りに戻るというのは、距離が短くても何とも徒労を感じます。

さて、今回はどうも体系立てて書く準備ができていませんが、最近改めて考えるのは「人格的にまともでない」「エキセントリックな」「キャラが立っている」という三つの概念の違いです。

「エキセントリック(eccentric)」とは「中心(center)を外れた」という意味です。
この場合の中心とは「普通」「標準」――模範というべき「普通の人」が実際に存在するわけではありませんが、平均、あるいは理念的な標準といったところでしょう。
「外れる」というのは一般に“いずれかの方向に”外れるのであって、それゆえ「エキセントリックな人」というのは、ある特定の方向にその奇矯さが目立つ人、と言えます。
そして「キャラが立っている」というのはそういうことを指していることもあります。

しかし、ある一点で標準を外れるところを極端に強調するのは、カリカチュアライズの手法です。そしてそれは、(必ず、というわけではありませんが)ともすれば外面的に奇を衒っただけで「薄っぺら」な印象を与えることもあります。
他方で、中心から外へ外へと外れることを強調するのではなく、絞った範囲内で微妙な差異を描くという手法もあります。

伊藤剛氏が「『NANA』はキャラが弱い」という「十代後半の少女たち」の発言を聞き、「『キャラクター』としては『立っている』が、『キャラ』としては『弱い』という弁別」を見出した時(『テヅカ・イズ・デッド』、NTT出版、2005、pp.102-103)、おそらくそこで言われていた「キャラ」の「強さ」とは「エキセントリックさ」に近かったのではないでしょうか。

さて、京極夏彦氏の『姑獲鳥の夏』の地の文で関口が、京極堂と榎木津こそ二大変人、変人の東西横綱だと思っているが、「二人とも強く否定する」と述べている箇所があります。「二人に言わせると、私が一番変わっているのだそうだ」と。
京極堂も榎木津もそのハイスペックさにおいても強かな人格においても「こんな奴はどこにもいない」と言うのに相応しい特異な人物であるのは間違いありません。特に榎木津はその振る舞いにおいても「エキセントリック」という形容のこの上なく似合う人物です。
それに比べて、関口はいささか対人障害のある冴えない物書きに過ぎません。

けれども、そんな関口が深いところで「壊れた」部分を抱えていたことが明らかになるのが『姑獲鳥の夏』の本筋となるストーリーです。
真に病んでいる人が一目で分かる形で“おかしい”とは限りません。
そして、その機微を描かなければ『姑獲鳥の夏』の物語は成立しないのです。

結局、エキセントリックな方向でキャラを立てるのと細かい差異を掘り下げるのは、一つの作品の内に両立することもあり、表現の目的が違う、ということです。

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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