オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
人の幸福と神の幸福――『ノノメメ、ハートブレイク』
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今日の授業で少し聞いた話ですが、宗教哲学には「強い神」「弱い神」というテーマもあります。
常識的には、救済者たる神は強くなければ、救済を成し得ないでしょう。
もちろん、望む救済を与えてくれるかどうかという人間の都合を神に押し付けるのも、もしかしたら不敬なことかも知れませんが。
とにかく、そうした前提を疑うと、色々な問いが立てられます。
神は強いのか?
神は自由であるのか?
神は苦しむのか?
そして――神は幸福であるのか?
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さて、大抵のレーベルには毎年恒例、新人賞受賞作が刊行されるシーズンというものがあるわけでして――
今回取り上げるのはガガガ文庫から、第7回小学館ライトノベル大賞・審査員特別賞受賞作の『ノノメメ、ハートブレイク』です。
小学館ライトノベル大賞は、特別審査員にライトノベル以外の分野の人を迎えていることが多く(今回の特別審査員は賀東招二氏で、ライトノベルの執筆も手がけている方ですが)、そして審査員特別賞から良作が出る率が結構高かったりします。
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本作の世界においては、「ミツ」と呼ばれる、神々によって特定の不幸を運命付けられた人間が存在します。
「ミツ」は運命付けられた不幸に遭った時、体から金色の霞を放出し、それが神々の食げ物になるのです。
『人の不幸はミツの味』とはよく言ったものだが、甘い香りと味のする金色の霞は、神たちにとっておやつと同じ、つまり、完全なる嗜好品なのである。たかが神々のおやつのために一生涯不幸な運命を背負わされるなど、人間にとって迷惑極まりない話だ。
(近村英一『ノノメメ、ハートブレイク』、小学館、2013、p.13)
プロローグではこの設定の解説とともに、神々が会議で一人の少年を「ミツ」に選び、続いて金色の霞の回収者を選定する……という場面が描かれます。
と来れば、この少年のもとに「回収者」が訪れる展開が期待されるところですが……意外にと言うべきか、本編はいきなり、ミツに選ばれた少年・東雲芽吹(しののめ めぶき)と回収者の天王州(てんのうず)が出会ってからすでに10年、ミツとなった時には10歳に満たなかった東雲が高校生になっているところから始まります。
ちなみにタイトルの「ノノメメ」は「シノノメ」を呼び間違えたのが、今では天王州による東雲の呼称として定着しているものです。
天王州君(東雲は彼女を「君」付けで呼びます)は無口で毒舌な美少女であり、東雲の家に居候することになっているとくれば、二人の出会いを描くボーイミーツガールストーリーであっても良さそうなものですが、しかしそもそも東雲が運命付けられた不幸とは「一生女性にフラれ続ける」なのです。
だからこそには恋愛の目はなく、しかも彼は他の女の子に告白してはフラれ続けねばなりません。
そして彼はバカです。ミツの特性で超人的な身体能力を与えられていますが、それを用いて窓ガラスを突き破り3階から女の子の前に飛び降りて告白するくらいにバカです。
「キミと僕とは長い付き合いだ。少しは情というものが湧いてもいいだろうが」
「情はありませんが、ありがたいとは思っています。神たちから女性にフラれ続ける運命を定められているのに、まったく懲りもせずに告白しまくってくれるんですからね。仕事はしやすくて助かります」
(同書、pp.20-22)
そんな彼は一貫して、自分を不幸だとは思っていません(フラれればショックを受けはしますが)。
冒頭の神々の会議からして――
「とんでもないミツになる可能性を秘めた少年を発見しました!」
声とともにスクリーンに映し出されたのは、まだ十歳にも満たないであろう少年の笑顔。その表情を見て、テーブルを囲んでいた神たちが、ざわざわと騒ぎ始める。
「こんな幸せそうな表情をした少年が、本当にとんでもないミツになるというのか?」
(同書、p.12)
そして本作のストーリーは、彼が「解決屋」として美少女たちの抱える問題に挑むというものです。
部を立て直したい野球部のマネージャー、訳あって人付き合いを避けている少女、漫才をやりたい先輩……
バカ一直線で、女の子のためならどんな困難も困難を思わず突き進む東雲と、キツいことを言いながらも相手の事情を推理して策を巡らす天王州は名コンビです。
自分が不幸を運命付けられていることを神に告げられようとも認めず、前向きに立ち向かい続ける東雲の姿は周囲にそれなりの感銘を与えますし、異性としてはフラれるものの、最終的には悪い印象を与えるわけでもありません。
そのため、神の力の設定が絡んでくるため起きていることは荒唐無稽でありながら、爽快な青春ストーリーになっています。
しかし、本人が不幸と思っていないとしても、神々は客観的に数値化して、彼が不幸であることを見ることができます。まあ実際、人の不幸を味わう時に重要なのは、端から見て「不幸に見える」ことです。
この場合、主観と客観はどちらが正しいのか、本人が幸福と思っていれば幸福なのか……
――といったことは一つの問題にはなり得ますが、本作の場合、幸福論に関して人を悩ませるような要素は控え目です。
東雲の人格の気持ちの良さのお陰で、彼は幸福なのだろうと素直に思えます。「バカは幸せだ」というのはこの場合、半分は皮肉ですが半分は素直な賞賛です。
けれども、彼の「運命付けられた不幸」を確かな事実として見ることのできる「神」からすると、どうなのでしょう。
天王州は内心を顕わにはしませんけれど、不幸を強いられた人間の近くにいて金色の霞を回収する立場から、天界で人の不幸を味わっている上役の神々に対して嫌悪――あるいは憎悪――を抱いていることは、言葉の端々から窺えます。
ただ、客観的に見て本作の「神々」がろくでもない存在なのは明らかですが、そこで神と運命を恨まないのが東雲の良さであり、上記のような気持ちの良さに繋がっています。
だからその分は、身内の神が憎みます。
個々の出来事は良いことも悪いこともあれど、究極的には生きていることは素晴らしく、幸福である――そういう考え方もあるでしょう。
(……)生は必然的に浄福なものである、というのも生とは浄福さだからである。(……)
(ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ『浄福なる生への導き』)
(……)流れた時間は恒常的と想定される系にとっては得にも損にもならないが、生物にとってはきっと、そして意識的存在にとっては異論の余地なく得なのである。(……)
(アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』)
けれども、不死であり悠久の時を生きながら、人がどれほどの不幸を背負わされているか見通せてしまう神にとっては、どうなのでしょう。
神の知を持つことは幸福なのでしょうか。
本作の後半は「ミツ」と回収者の絆、それに不幸を間近で見続けながらどうすることもできない回収者の哀しみといったテーマが描かれますが、そこでも東雲と天王州の過去については描かれません。そこは謎のままになっています。
ただ、天王州は毒舌を浴びせながらも東雲のことを何より大切に思っており、それどころか彼に「救われた」と語ってすらいます。
「人は神に願いますけど、神は何に願えばいいんでしょうか?」
(『ノノメメ、ハートブレイク』、p.292)
人と寄り添うことが神の幸福になれればいい――
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ところで、神々の登場する話で「改変」という単語が出てきたのは、やはり『ささみさん@がんばらない』を念頭に置いたものでしょうか。
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