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教育行政ではいつものことだが、それでは済まされない

私のいた高校では、柔道剣道が必須でした。
夏は暑くてやっていられないので、その時間に水泳をやっていましたが。
しかしとにかく、中高一貫でしたが、高校だけでした。

それが今や、中学で「武道」必修化だと言います。
そんな中、発売されたばかりの下記の本を手にとって見ると、冒頭で文科副大臣(二〇一二年末当時)である谷川弥一衆院議員の「いじめ防止には、怖い武道家の先生が必要」「武道家。一番いいのはボクシングだと思うが、空手、剣道、柔道、プロレスも入るかな」という談話を取り上げ、

 けれどそうした声は、この副大臣のように、武道についてほとんど知らない人のものでもあります。ボクシングは武道ではなく格闘技(スポーツ)ですし、プロレスは格闘技ですらありません。武道礼賛には、誤解や先入観にもとづくものが少なくないのです。
 (松原隆一郎『武道は教育でありうるか』、イースト・プレス、2013、p.4)


とコメントしています。

武道は教育でありうるか (イースト新書)武道は教育でありうるか (イースト新書)
(2013/06/03)
松原隆一郎

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面白いのでさっそく買ってきました。
まあ実際、教育行政関係者がこんな調子なのはいつものことでしょう。
だったら同じく武道など知らない人間の立場から「あんなものは百害あって一利なし」と主張しても同じだけの重みを持っていい気がしてきますが、まあそんなことは言いますまい。

著者自身柔道経験者(現在、東大柔道部長)であるということもあり、本書の前半半分近くは「柔道の危機」について論じています。
著者は以下の「4つの危機」を列挙します。

1. '09年世界選手権、'12年ロンドン五輪でついに金メダルゼロを記録するという「競技力の危機」
2. 女子柔道チームの園田隆二監督の体罰問題と、関連して発覚した助成金不正流用といった不祥事
3. 国際大会は「正しい柔道」ではなく「JUDO」化している、と言われる事態
4. 学校部活動のスポーツでは志望者数が抜きん出て多いという「安全性の危機」

1については、日本が世界最強ではなくなったとしても、それが柔道が世界に普及し、他の国々も強くなったということなら仕方ないでしょう。著者が問題にするのは、負けた原因として指導法を問題にせず選手に責任転嫁し、監督もその監督を任命した強化部長も責任を取らないという全柔連の体質です。
組織の体質の問題は2にも深く関わっていて、選手の訴えを最初は内々に処理しようとし、監督の責任も追及せず、指導法の問題点を検証もしないという対応が問題になります。

3については、著者が問題にしているのは「JUDO化」そのものではなく、むしろそのように言われることです。国際ルールで外国人選手のやっているのは「正しい柔道」ではない等と言われますが、むしろそのような「正しい柔道」こそ競技の限られた枠内で成立したものであって、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎はもっと実践的な、幅広いものとして柔道を考えていた、というのです。

そして4ですが、ここで引き合いに出されるのがフランスの事例で、フランスでは柔道指導者の資格を得るには厳しい試験を通過する必要があり、そのお陰か死亡事故はほとんどない、というのです。
これは1, 2の、指導者者の育成と指導法が確立されておらず、反省して確立しようともしていないという問題に繋がります。

第2部、第3部は著者の武道経験やそれに基づく武道の教育的効用について書いている箇所が多いので割愛しましょう。
ただ、その中では中学校の武道教育の現場に関する話もありますが、文科省は指導法も用意せず丸投げで必修化を行った、という話を見ると相変わらずだ、と思います。
まあ大学でも、文科省の指示が細かく入る資格取得に関わる科目については似たようなことがよくあります。博物館資料保存論の話などはもう繰り返しません。
教育行政はいつもこうだと思うばかりです。

ただし、著者の言うように、武道は路上で暴漢に襲われた時にも対処できねばならない、いやそれどころか「社会を改良し思想を善導して紛争を解決する」(同書、p.100)ことを目指すものだとすると、これは重大です。
つまるところ、武道は「危機に対処する力」を磨くものでなければならない、ということだからです。
生兵法のもたらす危険をも顧みないまま武道を学校で教え、全柔連等の団体もそれに対処していない――これでは危機管理ができていると言えるのでしょうか。事故があれば柔道そのもののイメージに悪影響を与えかねないというのに。
武道家に危機意識と危機管理能力が欠けているというのは、ビジネススクールが経営に失敗するくらい笑えないことです。

本書は終盤でもあらためて体罰問題を取り上げていますが、あまり詳述する暇あありません。
ただ、スポーツライター金子達仁氏がスポーツに体罰を持ち込むことには反対しつつ、「もともとはスポーツではなく武道だった柔道にも、完全なるスポーツの論理を持ち込んでいいものなのか」「柔道は、痛みに耐えなくていいのでしょうか」と書いていることに対する著者の反論を引いておきます。

 極真空手や空道で昇段審査に課される「連続組手」にしても、相当に理不尽なものです。けれども〔アンディ・〕フグ〔故人〕にしても私にしても、そうした理不尽な修行を、納得して自分に課しています。理不尽さと体罰の違いは、この「納得」にあります。
 納得していない選手を殴る・蹴るという体罰が不快なのは、金子氏の主張とは正反対に、「理不尽ではない」からです。教員がつい図に乗ってしまった、ついキレてしまった、生徒の無様さが恥ずかしかったので手が出てしまったという、理解しやすい行為でしかありません。女子選手たちが告発したのも、監督の暴言・暴行が崇高なまでの「理不尽さ」を帯びてはおらず、会長や強化委員長に顔を向けた分かりやすく矮小な行為と感じたからではないでしょうか。
 (同書、p.245)


理不尽だからこそ納得する、それは確かにあるのでしょう。師の厳しさとはそういうものです。

 私は「競技で強くするための指導」としての体罰には反対ですが、こちらが「力」で勝っていることを示さない限り、どうにも真面目に振る舞わない粗暴な子どもや若者が存在するのも知っています。だからこそ、犯罪に対しては逮捕して監禁するという刑罰を科し、「気づき」を得させようと強制するのです。ですから、指導者に恥をかかせたり、ナメたような態度をとる若者に対しては、力を示さざるをえなくなることがあるのは事実です。もっともそれは、スパーリングの最中にこっそりと行ったりするのですが。
 (同書、p.247)


オリンピック日本代表選手に対し、体罰をもって何を指導せねばならなかったのでしょうか。
それはやはり、「(自分の面子のために)追い込んで成果を出させる」という「矮小」なものだったのではないでしょうか。

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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