オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
先生の迷い、教育の射程――『暗殺教室 5』
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今回は漫画『暗殺教室』の最新5巻を取り上げます。ジャンプコミックスの中でも少し早めに店頭に出ていますので……(しかし、この表紙も今回は白っぽいせいか、それとも慣れたせいか、その存在に気付くのに少し時間がかかりました)
まあそんなわけで、新刊のネタバレを多少は含みます。
![]() | 暗殺教室 5 (ジャンプコミックス) (2013/07/04) 松井 優征 商品詳細を見る |
(前巻の記事)
この5巻はまず、前巻から続いている球技大会から。
ただ、野球も3回までという設定で、今まで同様、一つのエピソードは割と短い話数で片付きます。
なお、女子のバスケットボールは試合描写されることなく惜敗という結果のみ語られますが、さり気なく単行本のキャラ紹介ページに補足情報があったり……
一話完結のエピソードなどもありますが、この巻のメインとなるのは防衛庁から新しい先生が赴任してくるエピソードです。
今までも、殺せんせーの監視役である防衛庁の烏間惟臣(からすま ただおみ)が、表向きのE組担任にして体育教師を務め、生徒たちに戦闘技術を教えていましたが……
新任者・鷹岡明(たかおか あきら)は、暴力によって生徒たちを従わせ、ハードな訓練によって成果を出そうとします。
まだニュースとしてそう古くもない体罰指導の問題、それもスポーツ指導者の体罰がテーマなのは明らかです。
しかし鷹岡の意図は、はっきり言えばさもしい。
要するに彼の狙いは、生徒たちを潰してでも殺せんせーを仕留めるという成果を挙げて、自分が「英雄を育てた英雄」になることであり、さらにその背景には烏間への――ほとんど劣等感に裏打ちされた――対抗意識があります。

(松井優征『暗殺教室 5』、集英社、2013、p.114)
目先の成果のためには、将来を潰しても良い――これもまた、試合での勝利という目先の成果を求めて選手を暴力で追い込む指導者と見事に重なるものです。
自分の業績にばかり目が行っていることがいかに「先生」を損なうものであるかは、本作の1巻でも描かれていました。今回はそれが体罰問題と結び付いています。
さて、本作最大の悪役である椚ヶ丘学園の理事長も、教育には恐怖が必要だと考えます。ただし理事長は暴力ではなく、もっと巧妙に恐怖で人を縛るシステムを駆使するのですが……
そして殺せんせーも、「1年間で自分を殺せなければ地球を滅ぼす」と宣言し、またテストで成績上位に入らなければ校舎を平らにして去ると脅したこともあります。殺せんせーの教育にもまた、「恐怖」はあるのです。
けれども、地球を破壊すると宣言して先生をやっている殺せんせーの「訳の分からなさ」に比べて、自分の栄誉のために暴力指導を行う教師のなんと底の浅いことでしょうか。
これはまさしく、『武道は教育でありうるか』で松原隆一郎氏の言っていた、「理不尽さ」と「分かりやすく矮小な行為」の違いに対応しています。
繰り返しますが、教育というのはある特定の成果を挙げれば終わりではありませんし、並外れた結果を出せる一部の者だけのためにあるのでもありません。
「特別な才能のある者以外はついて来られない、大人しく見ていろ」という状況はあり得ますし、ストーリーとしてもありですが、ことが教育である限りは無しです。
そこには、万人に対し行われる教育の公共性という視点が欠けています。
さらに、これまた繰り返しますが、作者の松井氏は『ネウロ』以来、「人間の可能性」をテーマに描き続けてきました。可能性とは、一部の優れた人間だけのものではありません。
そして、このエピソードでスポットが当たるのは烏間先生ですが、彼は迷います。

(同書、p.113)

(同書、p.123)
自分がこんなことを教えていていいのか――それは多分、先生として真っ当な悩みでしょう。
殺せんせーもまた、迷いはあると言います。けれども、人格的にはお茶目で俗なところが多いとは言え、殺せんせーは「完璧な教師」という面が強く、加えてそもそも本音が不明なこともあって、「教師としての悩み」はほとんど描かれません。
だからこそ、「人間並みの、まともな教師」たる烏間先生の存在と通して「迷い」が描かれることに意義があるのです。
生徒たちの成長の可能性と先生の側の教えの問題、両面を、しかもそれぞれ一様でないものとして描いているところに、学校教室ものとしての本作の優れたところがあります。
そして生徒側の可能性という点で言うと、1巻からずっと、物語の主役級の位置を占めてきた渚にもスポットが当たります。
思いがけない才能――しかし、それは良いことなのでしょうか……?
ただその直前に、「殺す」という異常事態が当然となっているE組では、「ちょっとぐらい異端な奴でも」普通と認められることが言及されてもいました。
必ずしも良いものではない「異才」をどうするのか、教える側にも確たる答えはないが――そんな状況も、人間の可能性を扱い育てる中では出てくることであって、今後追い追い問題として詰められてくることでしょう。
これはまさしく「教育」の射程を問う事柄ですから。
なお余談ですが、普通の人間は躊躇いなく武器を振るって人を殺すことなどできませんし、また目の前の(いや後ろにいても)人間が自分を殺そうとしていたらただごとでないのには気付きます。
『ネウロ』でも、その辺はいい加減なことも多かったのですが、そうした心理を衝いたエピソードもありました。
今巻でまたそうした「殺す――殺される」心理が問題になっている辺りにも、多少の繋がりを感じましたね。
それから、首相も『ネウロ』で見た覚えがあると思いきや、現実でも当時と同一人物が首相をやっているのか……
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