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反-理想的な生存の美学――『下ネタという概念が存在しない退屈な世界 4』

少なからぬ論者が指摘するように、駄洒落というのはまったく意味に関わりのない、言葉の表面的な形だけの結び付きです。
だから笑いのネタとしてはつまらないものとされます。
実際、多くの場合、面白いのは駄洒落そのものというよりも、表面的な繋がりしかない無理のあることを押し通そうとすることそのものだったりします。

しかしそれはそうと、駄洒落の才能というかセンスというものは、確かにあります。
形だけの繋がりは強引で良ければ何とでもなるだけに、かえって「その発想はなかった」と思わされることが多いのです。
そしてこれはおそらく、言葉を知っていることとは別の次元の事柄です。

――そんな前置きから始めた今回は、駄洒落的な言葉遊びでの下ネタを怒涛の勢いで展開する『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』シリーズの第4巻です。

下ネタという概念が存在しない退屈な世界 4 (ガガガ文庫 あ 11-4)下ネタという概念が存在しない退屈な世界 4 (ガガガ文庫 あ 11-4)
(2013/08/20)
赤城 大空

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 (前巻の記事

今回の表紙はそこまで異様でないかも知れませんが、拡大して見ると背景を埋め尽くすネタは相変わらず常軌を逸しています(全て、本文中に登場する文言です)。
それから帯。

下ネタという概念が存在しない退屈な世界 4巻帯

ライトノベルの帯はたいてい、それによって覆われる表紙の絵はそのままに、その上を文字が覆っているのですが、これは表紙絵とは別物の独特の仕様です。一見無難な絵もちゃんと下ネタ、文言もオリジナル。
しかし本文中のネタは「100発」どころではありません。

前巻のラストで、エロイラストを生産する絵師である早乙女乙女(さおとめ おとめ)先輩が「SOX」を離脱、敵側に着いてしまっており、今巻はその続きとなります。
今回は丸々1冊、早乙女先輩の奪還を賭けて四大下ネタテロ組織と大勝負。勝負内容は知識と機転と、場合によっては体力も駆使して下ネタを言い合うゲームであって(五つのゲームの一つが“下ネタ大喜利”であることからご想像あれ)、それが最後の卓球を除き、基本的に端折り無しに描かれます。
そんなわけで、全編はちゃんとストーリーと結び付いての下ネタの連呼。
しかも勝負ですから、キャラごとのネタの傾向の違いやレベルの高下も書き分け、強大な敵の恐ろしさもきちんと表現しています。この筆力とネタの豊富さは圧巻ですね。

キャラクターに関しても、あらゆるタイプの変態を次々と投入する本作ですが、今回登場する敵も相変わらずです。

 僕たちの目の前に現れたのは、観音菩薩のように穏やかかつ神聖な空気を纏うおっさんだった。悟りきったような澄んだ瞳にいやらしさの感じられない微笑み。心なしか後光さえ見える。
「出たわね……《震激の尻》最高幹部、《禁欲の魔人》!」
 (……)
「見た目の正常さに騙されてはダメよ。やつは卑猥資源の鑑賞や射精を禁じることですべての精神エネルギーを自らの内面に凝縮する、日本屈指の妄想クレイジーっ!」
 ただのオナ禁オヤジじゃねーか。
「ほほほ。己の邪を外側に垂れ流すなど気力の無駄遣い。己を御する力のない猿のすること。すべてのエネルギーを己の内に留め、祈りと感謝に使うのです。さすれば悟りは開かれん。川のせせらぎも小鳥のさえずりも、下半身の立体機動装置を噴かす糧となりましょう。立体機動装置により、私の想像力はどこまでも羽ばたいていくのです」
 オナ禁のしすぎて妄想が止まらなくなってるだけの変態じゃねえか!
 一之瀬琢磨とは真逆。自らの性癖や欲望を解放するだけが変態のかたちではないということか。
 (赤城大空『下ネタという概念が存在しない退屈な世界 4』、小学館、2013、pp.53-54)


他にも色々。

念のために言っておきますが、変態であることそのものは大した問題ではありません。そもそも本作には変態しか登場しないからです。
下ネタテロに慣れるのに対応して、巻を追うごとに狸吉のモノローグに下ネタが増えていくのも見所の一つで、特に精力を増強され妄想を吹き込まれた時の彼はぶっ飛んでいます。服を着た少女と普通に顔合わせするだけで「AVの撮影シチュエーション」(p.131)を連想し始めるほどに…。
「行動に移すのは時と場合によりけりだけど、エロいことを考えてしまうこと自体に善も悪もない。その人の人格や品位が損なわれたり、非難されたりするいわれはない」(p.128)という言葉は重要です。


他方で本作は、重い社会問題を扱ったディストピア小説でもあります。
日常生活での発言まで監視し、それを警察が取り締まるという管理体制で、しかも規制推進派の中心人物もはっきりしているという体制は、顔の見える独裁者が民を抑圧するという古典的な(今となっては古い、とも言われる)構図を思わせ、しばしばジョージ・オーウェルと比較されたりもしてきました。
しかし、2~3巻で明らかになってきたのは、それとはいささか異なる光景でした。
規制推進のトップでさえ、この規制が歪みを生み出すことこそ承知ですが、その結果がどんな事態になっているのか把握してはいません。そして、体制の思惑とは無関係に新たな差別が生まれています。もはや、誰かがこの管理体制の手綱を握っているとは言えないのです。
他方で、この狂った体制と遠からず来るその崩壊を利用して利益を得ようとしている者達がいます。そこには体制を築く者と、最終的にはその崩壊を求める者との共犯関係があるのです(「反体制」が往々にしてマッチポンプであるというこの点は、この4巻でいっそう詳細に記述されます)。

管理社会を推進するほどに、管理の手をすり抜ける混沌が生まれます。真の問題はトップダウンの管理ではなく、その混沌です。

しかしこうなると、そもそも「闘争する」とは何を意味するのかが難問となってきます。
トップと正面から対決すれば解決する、とも言えません。それどころか現体制の弊害を明らかにすることは、かえって差別を助長しかねません。
そこでは、体制にぶつかって打ち壊すのではなく、支えながら修正していくようなあり方が求められることでしょう。


以下、前巻から前後編で続いているだけに、少なくとも前巻のネタバレを含むことになりますが――


前巻で提示されていた問題は多岐に渡ります。

(1) 早乙女先輩はポルノ絵師として開眼して以降、「健全な絵」が描けないというスランプに陥っていました。しかし、芸術系の特待生として時岡学園に通っている以上、公式に出展できる作品で成果を出さねばなりません。だから彼女は、好きな絵(ポルノ)だけ描いていれば庇護を与えてくれるという鬼頭慶介に付いたのでした。
(2) 四大下ネタテロ組織の支援者であり、味方と思われていた鬼頭慶介は、実のところ「卑猥資源」を独占しておくことで現体制が崩壊した暁に利益を得ることを狙っている人物(その体制崩壊に伴いさらなる差別が生まれることは承知の上で)であり、それゆえに啓蒙のため「卑猥資源」をバラ撒く「SOX」を敵視していました。早乙女先輩の引き抜きは「SOX」潰しの策略です。
(3) 狸吉の中学時代の同級生・濡衣ゆとりは、実は四大下ネタテロ組織の内二つ「絶対領域」と「哺乳類」の共同代表でした。差別を認めて利益を得るような慶介のやり方に彼女が与するようになったのも、過去の経験から来る絶望によるものであることが示唆されていました。
(4) そして綾女の後見人である撫子は、狸吉の成長に期待して修行を課していました。彼女が狸吉に気付いてほしいと願っていることは、狸吉の憧れである綾女も「ただの人間」であるということなのですが……

ちゃんとこれらが繋がってきます。
いきなり4巻の終盤部に触れることになりますが、やはり王道、主人公の成長に関わる4番目から行きましょうか。
問題は「理想を投影すること」にあります。

 ――あの子は、人間なんだよ。

 朱門温泉に来たその日。撫子さんが僕に囁いた言葉が、いになって僕の心を貫いた。
 僕は、バカだった。撫子さんの言っていたことが、ようやくわかった。
 下ネタが大好きだというおかしな嗜好を貫く心の強さとか、人並み外れた能力の高さとか。
 そんなものは関係なかった。関係なかったんだ。
 どこにでもいるとはとても言えない。けれど。
《雪原の青》は……いや、華城綾女先輩は――
 僕と同じ、人間だったんだ。
 なんでこんな簡単なことから、目を逸らし続けていたのか。
 華城先輩を完全無欠のヒーローみたいに神格化して、サポートしているだなんてうぬぼれて。
 いまさっきまで、華城先輩にすべてを押しつけて、ずっと甘えてきたんだ。
 華城先輩がこうして崩れ落ちるまで、ずっと甘えてきたんだ。

 ――やっぱりお前らは、善導課と同じなんだぜ!

 今度はゆとりの言葉が僕の中で蘇る。
 あのときは、なんだそれと一笑に付した。けれどいまは、あの言葉が僕を突き刺す。
 そうだ、まさに僕は善導課と、それを推奨するこの社会と、一緒じゃないか。
 誰かに勝手な理想の姿を押しつけて、歪みや矛盾から目を逸らして、そして最後には――憧れとは違ったんだと、見限って……?
 (赤城大空『下ネタという概念が存在しない退屈な世界 4』、小学館、2013、pp.226-228)


理想が先取りされていれば、結論は最初から決まっていることになります。

 互いに辿り着きたい結論は最初から決まっている。いかに相手の結論やそれを導くための理論が間違っているかを指摘し、服従させることができるのか。これはそういう勝負である。
 (同書、pp.92-93)


しかし、その結論に辿り着くための過程に生じる歪みこそが問題なのです。

だから闘争とは、社会はどうあるべきかという理念をぶつけ合うことではありません。理念はそれ自体として間違っていることはないのです。
お互いに掲げる理念は正しく、途中過程は歪んでいる。これでは結局、現実には歪みの中を歩むだけです。
むしろ理想通りにならない現実とそのつど付き合うことが重要なのです。

さらにこの構造は、個々のネタのあり方にまで重ねられます。
今回の下ネタゲーム対決で最強の敵として登場するのは、「ベーコンレタス母の会」代表「羅武マシーン」です。
「ベーコンレタス母の会」はボーイズラブを扱う組織(だから「ベーコンレタス」で頭文字がBL)であり、中でも羅武マシーンはどんな単語の組み合わせからでも一瞬でカップリング妄想とそのストーリーを考え出せる変態として描かれています。
(余談ですが、「ナイフとフォークでも妄想できる」というのは強烈な腐女子を形容する文句として知られており、ライトノベルでもネタとして用いた先例はありますが、無機物同士のカップリングで詳細なストーリーを作り1ページ以上に渡って滔々と語り続けたのは前代未聞かも知れません。恐ろしさがはっきりと伝わりました)

 しかもこの女、もしかして……。
「やっぱり、ほとんど擬人化していないわ」
 華城先輩が、僕と同じ理由で戦(おのの)いていた。
 そう。この《羅武マシーン》の妄想は、無機物が無機物のまま展開されている。無機物に感情を持たせたりするある種の見立ては行っているものの、人間の属性をほとんど持たせていない。性別さえ持たせず、あるのはただ受け攻めという概念だけ。
 指定された物体のありのままの姿を聖母のように受け止め、カップリングを成立させている。
 まさに別次元の妄想力だ。
 (同書、pp.213-214)


そんな「羅武マシーン」は言い放ちます。

「私は無から愛を生む腐敗の錬金術師。あなたたちのように、本来あるべき姿をねじ曲げて擬人化しなければ愛を紡げない者には負けません」
 (同書、p.224)


ここでの「愛」とはもちろん性愛(エロス)であり、それもボーイズラブにおいての、です。
しかし、この愛を「友愛(フィリア)」と読み替えるなら、ここに共同体の問題を見ることができるでしょう。理想を投影するのではなく、そこにいる他者をそれとして受け入れることが求められるのです。

そう、ことは共同体のあり方の問題に帰ってきます。
(1)の早乙女先輩の件に関しても、鬼頭の方に付くのが「良い」と判断したのは早乙女先輩自身でした。にもかかわらず、慶介があえて「早乙女先輩を賭けた勝負」などというものを提案するのは、この機に「SOX」を完膚なきまでに潰すため――言い換えれば、早乙女先輩にもまだ「SOX」に恩義や仲間意識を感じるところがある中で、「どちらの組織が素晴らしいか」をきちんと早乙女先輩に見せ付けるためです(その他、少し別の差し金もあったのですが)。
「“自分の意思”なんて曖昧なもの、操作するのは朝飯前っス」(同書、p.18)という鼓修理の言もなかなか意義深いものですが、問題はまず、組織の「素晴らしさ」というものがいかなる形で見せられるものか、です。

これは形式的なシステムには還元できません。
ここで(3)ゆとりの件に関わってきますけれど、作中世界の制度が一部の世代――「公序良俗健全育成法」以降に育った若い世代――に対する差別を生むことは明らかです。
しかし、下ネタテロ組織もまた、成果の上がらない闘争に絶望し、組織内で若者に責任を押し付ける構造を再生産していました。
制度やシステムを取り替えても、同じことは繰り返されます。

重要なのは掲げる理念でも、制度でもない、そのつどの生き方です
特定の人や組織と一緒にいることにどれだけ魅力を感じられるというのも、結局は「いかに生きられるか」の問題なのです。

早乙女先輩のスランプも、前巻でこう語られていました。

 時間だけがいたずらに過ぎ、けれどそれら健全な景色を健全なまま魅力的に描くビジョンがまったく見えず、手で握った筆がぴくりとも進まなかった。
 なぜなら早乙女乙女が、自身の最も魅力的に描ける題材は人の本性であり、人の本性は性欲を満たす姿だと確信していたからだ。
 性を楽しむ姿こそが人の本質。それ以外の姿など仮初めにすぎない。表面的なものを見たいのなら下手な写真でも撮っていればよく、絵を描く必要などまったくない。
 (『下ネタという概念が存在しない退屈な世界 3』、2013、p.170)


「人の本性」がどこに発揮されるかも、やはり生き方に関わっています。実際、この件もちゃんと4巻のラストに繋がっているのです。

体制を転覆するのではなく、生き方を築いていくこと――これはフーコーの言う「生存の美学」の問題であると言うのは、いささか蛇足でしょうか。

とにかく、巻を追うごとに問題意識は洗練されています。しかもそれを大きな権力のあり方から主人公周辺の人間関係、そして小ネタまで大小に渡り反復して見せた今巻は、間違いなく珠玉の出来でした。



そして次巻はいよいよ、善導課(取り締まり側)の要人である狸吉の母親が登場するようですが……



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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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