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円環を開く裂け目――『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』

今の映画館は完全座席指定なので、入場受付が始まってからのんびり並べばよくて楽ですね……と思っていると、満員になるような人気作品ではそれなりに行列に並んでいる時間があったり。入場時に特典が渡されたりするとなおさらです。
そんなわけで、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』を観てきました。こちらの都合から言ってもありがたいタイミングでの封切でしたね。

来場者特典はふたたびサイン色紙。ただし、13.5cm四方ほどの小型のものです。

まどか新編 サイン色紙

パンフレットはなぜかAMAZONで売りに出されていますが、映画館で買えば1000円です。

【映画パンフレット】 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語』 出演(声):悠木碧.斎藤千和.水橋かおり【映画パンフレット】 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語』 出演(声):悠木碧.斎藤千和.水橋かおり
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不明

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「ネタバレ チュウイ」と封がされていますが、本当にその通りです。

まどか新編 パンフレット

内容ですが、今までの本編が物語として完全に完結していただけに、何をやろうが蛇足というよりも二匹目の蛇を描くがごときものになるのは覚悟していました。
実際、それを踏まえて観れば十分に面白く高品質でしたけれど、これを「余計だ」と思う意見があっても否定はしません。
光と闇、絶望と救いが目まぐるしく転変し、ドラマチックに魅せる一方で、最終的にはそれほどすっきりとまとまった物語ではありませんでしたし。
ただ、それももしかすると観客に与えられた報い――良くも悪くも――ではないかと、私は思っていますが。

総監督の新房昭之氏も「TVシリーズは、TVシリーズとして完結した」ものであって、この『新編』は劇場版『[前編]始まりの物語』『[後編]永遠の物語』の続編だと語っています(パンフレットp.13)。納得するかどうかはともかく、すでにこれ以上なく完結した物語に新たなページを付け加えることに対する態度として、ある種非常によく理解できるものでした。

映像は相変わらず素晴らしい。ただ、主として魔女の結界で使われていた劇団イヌカレーによる表現が現実の空間を侵食するような演出が多く、それ以外にも背景がTVシリーズ以上に異様な表現になっていたりで、全体にシュールな印象の強い映像でした(それにも然るべき理由があるのですが)。特に、終盤はアクションシーンがほとんどシュールな映像表現のようになっていました。
そんな中、ほむらvsマミの魔法少女同士の対決はダイナミックで迫力十分でした。時間停止によって弾丸の軌道が空中に白い線として固定され、戦いの中でどんどん線が描かれていくという表現が見事。

ストーリーについては何を語ってもネタバレは避け難いので、ここから先は追記にて、物語の最後までネタバレ全開で行きます。ご了承あれ。



物語は何と、まどか、さやか、杏子、マミ、ほむら、5人の魔法少女が揃って戦っているところから始まります。敵はTVシリーズ最終話に登場した魔獣――ではなく、イヌカレー空間で表現される魔女に似た敵、「ナイトメア」です。
そしてオープニングを挟み、まどかが目覚める朝――というのはTVシリーズ第1話を忠実になぞっていますが、冒頭が夢オチではなくて昨夜実際にあった出来事であることは、鹿目家にいるキュウべえや彼女達の指輪、そして会話が示しています。
今回は杏子も見滝原中学に通っています。蒼樹うめ氏のカットでのみ見た「見滝原の制服姿の杏子」がまさかの実現とは……
他方で仁美はすでに恭介と付き合っているようで、彼女の代わりに杏子がまどか、さやかと組んで3人で登校。
そして、ほむらはやはり三つ編みに眼鏡の姿で、転校生として登場します。

それから、キュウべえは喋らず、第3話でマミを食い殺したあの「お菓子の魔女」がマミのマスコット(?)「ベベ」として付いています。

ちなみに、敵のナイトメアは生きた人間の負の感情から生まれ、倒せばその人間を救えるという仕組み。非常にプリキュア的です。
おまけに、5人揃って時間をかけた変身シーンを披露し(この変身シーンがまた、イヌカレーの演出によるサイケデリックなものではありますが)、「ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテット」と名乗りまで挙げる始末。どこまでも正統派の魔法少女物的です。

楽しそうだな、とは思います。
日常シーンでふざけあうさやかと杏子なんて、ファンの望んだサービスたっぷりではありますが、これは一体何なのか、という不穏さを感じずにはいられません。

劇場版は本編とはパラレル、というのはよくあることですが、本作の場合は最後で「全ての宇宙」を一括してまどかが救済した以上、単純なパラレルワールドを許さない構造になっているのが問題です。

実際、この映画は正当な続編です。こんな日常に違和感を感じたほむらが杏子に相談し、調査に乗り出した辺りから、この世界の虚構が明るみに出てきます。


そして真相ですが――


――結論から言ってしまえば、犯人はほむら自身であり、遡れば元凶はキュウべえでした。
ほむらの濁りきったグリーフシードを、外からの干渉を遮断する結界で包んだ結果、ほむらはほぼ魔女化し、見滝原市を模した結界を自らの内に作ったのでした。ただ、この結界はほむらの求める者を招き入れることは可能になっていて、マミや杏子、それに仁美やまどかの家族等も結界内に招かれた本物でした。
そして――まどかも、「円環の理」としてほむらを迎えに来た本物がこの世界に捕らわれ、自分の力と使命を忘れていた姿なのでした。

キュウべえがこのような「実験」を行った目的は、「まどか」を観測し、捕まえ、管理することです。
ソウルジェムがまどかに連れ去られず魔女化すれば、もっと大きなエネルギーを回収できるわけですから、それを可能にするのが最終目標です。

しかし、同時にさやかとベベも本物――つまり、この世界での魔法少女は魔女にならずまどかに連れ去られるわけですから、そのような最期を迎えた魔法少女たちは皆まどかの“御許にいて”、それがまどかと一緒にやってきていたです。
今までの敵であった魔女達も揃って戦い、キュウべえの陰謀を打ち破る場面は熱くもあり。

しかし、これで一家落着、と思ったところでもう一転、ほむらは闇に堕ちたような表情で、自らを迎えに来たまどかを強引に「捕まえ」ます。
救済の理を穢す「悪魔」となるほむら――


まず、ここに設定上の違和感はないか、という疑問が生じます。
宇宙人であるキュウべえの結界と、魔法少女としての才能はせいぜい並だったと思われるほむらが、時空も因果も超越する存在、概念となったまどかをこのような形で捕縛できるのかどうか。
しかしおそらく、結界内にまどかの一部が捕らわれている間も、外界で魔法少女を連れ去る「円環の理」が存在しなくなったわけではないのでしょう。だから、これはただちに概念となった存在を実体として捕まえたこととイコールではない、と思われます。
そしてほむらの力は、キュウべえの理解を超えた愛の妄執、ということでしたが――ここに理屈を付け加えて考えるならば、世界が改変される以前の記憶を留めていることが、彼女の新たな因果となり、力を与えているのかも知れません。



設定に関する理屈はこの辺にして、このような続編が付け加わることがいかなる意味を持つのか、考えてみましょう。

ほむらがまどかを捕まえ、「理を穢す」ことで再改変された世界はどうなったのか、それはさほど明瞭なことではありません。異形のものが蠢いている描写もありますが、これは具体的な異変なのか、何なのか……
ただ少なくとも、ほむらが捕まえたのはまどかの人格だけで、力までは捕まえられなかったようです。つまり、濁ったソウルジェムが魔女にならず消滅することは、変わらないのでしょう。そしてまどかは、何も知らない一人の魔法少女として、ふたたびこの世界に生きることになりました(さやかと、ベベの正体であった魔法少女・百江なぎさも一緒に)。
つまり魔法少女の救済はそのまま、まどかもふたたび生きることが出来たのだからめでたしめでたしじゃないか――とも言えますが、しかし余計なことをされた感もあるのは、気のせいではないでしょう。
そんなにも上手く行くなら、あの話は何だったのか、と思うのは、おそらく自然な感情です。


キュウべえが行おうとしていたのは、「神」を観測し、解明し、利用し、必要に応じて無力化する――すなわち、合理主義による神殺しです。それゆえ、悠木碧氏が「キュウべえは現代社会において求められている人間の理想形だと思うんです」(パンフレットp.36)と述べているのはまったく正しく、しかも人間はキュウべえのように感情を持たなくなることはできずとも、“そのような面”はすでに至るところで力を発揮しています。
ただ、神殺しによる絶望を自分で被らない辺りがキュウべえの性質の悪いところですが…

他方で、ほむらは「神」たるまどかから人格のみを奪いました。
理が「神によって」働いているのであろうと、ただ理として働いているのであろうと結果は変わらない、とも考えられるでしょう。
現実に調査を行ってみると、「死んだら死後の世界でのんびり暮らす」という類のことを言う人は結構多いと言います。どこまで本気か知りませんが、何となく「自分は死なない」と思っている、というのは存外偽らざるところのように思われます。しかし、そのようなある種の「来世への信仰」が、必ずしもつねに人格神とセットであるとは思われません。
そのような安直な「信仰」でなくても、救済が人格神と強く結び付いているのは一神教的な慣習であって、たとえば(ある種の)仏教のことを鑑みてもその限りではない――という考え方はあり得ます。

しかし、若干の不安はあります。
唯一神はともかく、人間の人格は救済の問題から切り離せません。神の人格を剥ぎ取ることで、気が付けば人間の顔まで奪っている惧れはないでしょうか。人格神がいようがいまいが、逝くところは同じだと、本当に自信を持って言えるでしょうか。


角度を変えてみましょう。
皆でナイトメアと戦っている世界が虚構だと気付いた当初のほむらは、「魔法少女は戦い続ける定め」であり、それを歪めたこんな「茶番」は、魔法少女達を救うために犠牲となったまどかへの冒瀆だ、と憤っていました。
しかし、まどかの寂しさを知った時、「私は間違っていた、何があってもあの子を行かせるべきじゃなかった」と思い直します。
まどかの願いを受け入れるという点では、これはある種の後退です(しかしそれは、まどかを自らの結界内に捕らえた時点で表れていた彼女の変わらぬ本音でもありました)。

奇しくもこの映画封切と同日に、『紫色のクオリア』のコミカライズの完結編となる3巻が発売されました。
一人の少女を死の運命から救うため、何度もタイムループを繰り返す少女というモチーフは『まどか☆マギカ』と共通しながら、『紫色のクオリア』は他者の運命を強引に変えて「救う」ことの不可能性を、すなわち決して手の届かないものとしての他者の他者性を描いた作品でした。
それに対して、ほむらは強引であり、まどかとその願いを踏みにじるような暴力を孕んでいます。ここに関しては声優の悠木碧・斉藤千和両氏の対談での発言(パンフレットp.36)にほぼ同意します。
(もちろん、繰り返して言いますが、「他者を他者として尊重する」ことと「相手の意見に従う」ことは同じではありません。「あなたのためを思えばこそ、それには従えない」というのは言えば押し付けがましくなりますが、判断としてはありです。しかしそれを差し引いても、ほむらの行動は「暴力」を感じさせるに十分です)

この件に関しては、願いの言葉を現実のものとして奇跡を起こす存在である魔法少女は、あまりにもその言葉が、コミュニケーションが直接的に過ぎる、そのように宿命付けられた存在であるという斎藤環氏の分析は正当かも知れません。すなわち、彼女達は「届かない他者に言葉を投げかける」というコミュニケーションを禁じられた存在なのです。

しかし、その強引さこそがまどかの存在を引き裂き、そしてまどかとほむらの間にも亀裂を作ります。
それがラストの、この世界に引き戻されたまどかの不安な態度に表れているのではないでしょうか。
ここにおいて、二人はふたたび同じ世界でともに生きられるようになりながらそこには溝があります。別れ別れになりながらほむらが「わたしの最高の友達」とまどかに認められ、報いられたTVシリーズ最終回とは対照的な印象です。

他者を決して届かないものとして認めて終わる『紫色のクオリア』に対して、『まどか』新編は他者に強引に届くがゆえに決定的な裂け目を生んで終わります。

そしてこの「裂け目」は、閉じた物語をふたたび開く裂け目でもあります。
この『新編』は、5人の魔法少女が揃って生きて、新キャラまで加えて終わります。その上、彼女達の間に形成された不穏な関係は、これからのドラマを感じさせるに十分です。
脚本・虚淵氏のインタビューで、岩上敦宏プロデューサーも新房総監督も「『このあと続いていく物語にしたい』と考えていた」(パンフレットp.15)という発言を見て、この上なく納得した思いです。(もちろんこれは、実際に公式の続編を作るかどうかというよりも、続きがあり得るかという可能性の話と受け取るべきでしょう)

これは、キャラをきちんと消滅させることこそ「キャラの倫理」であるという斎藤環氏の論からすれば、著しく倫理に反する話です(私はこの斎藤氏の議論に対しては結構批判的に書きましたが、今回改めて理を感じないではありません)。
しかし、キャラを「消滅」させず、彼女達の紡ぐ物語をもっと見たいというのは、ファンの願いだったのではないでしょうか。
その意味でこの話は、良くも悪くもファンへの「応報」なのです。


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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

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