オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
指導者として見出す青春――『きんいろカルテット!』
つまるところ、勝敗を競うことと教育とを両立させようとすることが無理なのだ、と。
まあ実際、勝利が第一目標なら、一軍の勝利に貢献しない生徒への教育的効果など二の次になって当然ですし、そもそも教える必要もないくらい優れた選手を獲得するのが一番ということになります。
外からの視点でも、外国人留学生を集めて実績を競っている学校を見れば、そういうことがいかにもありそうなのは容易に想像できます。
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そんな話を前置きにして、今回取り上げるライトノベルはこちらです。
![]() | きんいろカルテット! 1 (オーバーラップ文庫) (2013/12/21) 遊歩新夢 商品詳細を見る |
「OVERLAPキックオフ賞」の金賞受賞作品。昨年新創刊されたレーベルであるオーバーラップ文庫からデビューする新人としては第一世代ということになります。
プロフィールによれば、作者はプロのユーフォニアム奏者とのこと。ペンネームも「ユーフォニアム」をもじったものになっています。
本作はそんな著者の経験を活かした、と思われる音楽物です。
主人公の摩周英司(ましゅう えいじ)はユーフォニアム奏者で音大の一年生。音大に入りながらいささか音楽への情熱を失いかけた状態にあった彼ですが、かつての恩師からの依頼で、吹奏楽部に受け入れられなかった女子中学生4人を指導することになります。
この4人というのが、コルネットが2人にテナーホーンとユーフォニアムが1人ずつのブリティッシュ・カルテット。日本の吹奏楽では使わないから、と言うのですが……
素直で熱心で可愛く、そして素晴らしい才能を感じさせる彼女たちに英司も魅力を感じ、指導者として毎日中学校に通うことになります。
というわけで、主人公が大学生でしかも指導者というのはライトノベルとしては若干異色ですが、ストーリーは爽やかな音楽青春物です。
大学生と中学生という年齢差は、これが恋愛になれば少々危ないものはあるものの不可能なラインではなく、時に身体的接触やらサービスシーンやらもあって、少女たちの初々しい想いと、時に英司の方も平静でいられなくなるところもしっかり描かれます。
彼女たちを不要扱いした吹奏楽部の顧問・角谷がまた、「汚い音を吹くな」といって練習を邪魔してきたり、大会参加にまで圧力をかけたりと、とにかくロクでもない人物として描かれています。
部員にすら人望のない彼ですが、これも「常勝校」の看板を背負う中でこうなったのだ、というのも作中で強調されていることで、部活動の実情とその問題点を感じさせる話になっています。
そして、この角谷と勝負をすることになったりもするのですが、ただこの問題は中盤で片が付き、終盤のクライマックスである大会ではもはや、英司も4人の少女たちも角谷の方を見てはいません。
勝利至上主義のために嫌な奴になった部活顧問に目にもの見せてやるするため、こちらも勝利を追い求める……という方向に行かないで、目先の勝利よりも大きな目標、そしてまず何よりも音楽の楽しさ、というスタンスを貫いているのが、本作の爽やかさの所以でしょう。
音楽表現については伝わりにくさも感じるところもあります。
まずは音楽用語の問題です。「コルネットとユーフォニアムが変ロ長調(B♭管)なのに対し、テーナホーンは変ホ長調(E♭管)」であって、その分コントロールが難しい(p.84)とかいう辺りはまだ知識がなくとも「そういうものか」で済むかも知れませんが、テナーホーンをアルトホルンと呼ぶのが「ブラスバンドを正しく理解していないことの証明」(p.61)だとか言われても、音楽知識のない読者には何が問題なのか分かりません。
説明過剰も問題ですが、これはもう少し説明があっても良いところですね。
そして、演奏シーンの表現です。
一楽章はテクニカル的に、中学一年生の少女には難しいところが多々あった。だが、二楽章は純粋に音色が勝負。そこで彼女たちが奏で出すつたなく幼いながらも、何かしら心に染み入るサウンド。
これだ、これだよ。
英司は心の中で興奮していた。自分が求めていた音。そして、音楽大学に行っても出会うことが出来なかった音。
それがここにあった。
(遊歩新夢『きんいろカルテット! 1』、オーバーラップ、2013、p.21)
確かに、音大ならこれを吹ける連中はたくさんいるだろう。だが、演奏、となると難しいな、と英司は思う。
記譜された楽譜の音を吹く技術に長けた奏者は音大には山ほどいる。
だが、その曲想をも表現し、おそらくは作曲者の意図したサウンドにまで『演奏』できる者は少ないだろう。そして、その少ない者だけが生き残れる世界なのだ。
(同書、pp.88-89)
何か作者の頭の中にイメージがありそうなことは何となく分かります。が、具体的にどうなのかは――同じような経験のある読者以外には――分からないでしょう。
もちろん、音楽の性格を文面で伝えるのは難しいことです。が、技巧によっては不可能ではありません。優れた音楽とはどんなものなのか、言葉にせずとも暗黙知としては理解していることを明示するのが文章表現です。
本作中にも、もう少し具体的な説明がある箇所もあります。
そして、この組曲一番の見せ場、最終楽章のサ・フーは、英司の期待に反して少々テンポをゆっくりに設定したものだった。
トランペットを中心とした十六分音符による技巧的な表現が特徴的な曲だったが、テンポを落とすことでその魅力は半減する。演奏の正確さを担保した結果、曲の魅力を犠牲にしたのだ。日本ではプロでもよくある選択肢で、英司はこの選択は好きではなかった。
曲の魅力を削ぐようなことをするならば、十分に演奏できる曲を選ぶべきだ。選曲した作品の魅力を引き出せない実力なら、曲の変更すら検討するべきではないか。
だが、英司のこの考えは日本の音楽の現場ではあまり受け入れられていなかった。決まりきった課題曲を演奏し、その曲の魅力や解釈などお構いなしに、ただ音符の羅列を吹く。それが今の日本の音楽の実情だった。そこからプロになっていくものの多くは、その系譜を引き継いでいき、総じて面白くもない演奏をするプロになる。
(同書、pp.153-154)
これくらいの具体的な記述ならば、話はよく分かるのです。これは問題点を指摘する箇所であって、演奏の魅力を述べる箇所ではまた別種のテクニックも必要でしょうが。
それから、練習指導シーンに関しても、ブレス・トレーニングや録音を用いての練習の描写などは極めて具体的で、よく分かり、作者の知見が窺えます。
そういう地味なところの緻密さも魅力になっているだけに、演奏表現の伝わりにくさがいささか惜しい。
もう一つの疑問点として、上の引用箇所で分かるかも知れませんが、英司は大学一年生には見えません。完全にプロ目線です。
教わる側である中学生にとって彼が凄いのは当然ですが、彼が自分を「まだまだだ」と感じるシーンは皆無なのです。
そもそも冒頭からして以下のような場面です。
広い合奏室には音楽が流れていた。
今日は合奏の授業だ。摩周英司は自分の担当のユーフォニアムを抱えながら、ため息をついていた。音程が合わない。タイミングが合わない。ましてや、楽譜そのものを吹けていない奴までいる有様だ。これが、音楽の道を志して集まっているはずの音大のサウンドなのか、と。
(同書、p.3)
この音大がどの程度のレベルなのか、つまりこの大学を選んだ彼自身の責任なのか、それとも十分に高レベルでさえこうだ、というのか分かりませんが、実のところ、いかに優秀な学生であっても、大学のレベルが低かろうと、大学で学ぶことがない等ということは本来ありません。
「大学のレベルは低いし、こんなところで学ぶことなどない」と思うことこそ、往々にして若気の至りだったりするのです。
そのくらい、新入生の18歳というのはまだ若いものだ、と思うのは私の歳のせいでしょうか。
あとがきで作者が一般大出身のプロ奏者だというのを知ってある程度納得しました。つまり作者のプロ目線を投影しすぎなのですが、ここには少し別の問題も関わっています。
英司はライバルにして親友だった相手を亡くして、情熱を失っているのです。それに関わる巡り合わせが中盤の山場でもあります。
そう思うと上の描写には、客観的な環境の問題というよりも英司の内面の問題も反映されているのではないか、と思えてきます。
ただ、ライバルを亡くしたことは冒頭で触れられてはいるものの、彼がいかに情熱を失くしているかに関する記述はひどくあっさりしたものであった印象があります。その辺も、英司に固有の内面性より作者の視線の投影を強く感じてしまう一因ではないでしょうか。
とはいえ、音楽物としてはとても魅力的な作品でした。
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