オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
新章で主題は変わったのか――『修羅の門 第弐門 11』
もちろん辛口といっても色々な形があり得ますが、貶せば切れ味鋭いなどというのは論外です。
そして、「悪いものを排除していけば全体に良くなる」というのは、まず一定率で良いものを生み出す生産力を無条件に前提している生産力信仰です。いつでもどこでも一定レベルの作り手が供給されるなどというのは甚だ疑わしい話ですし、私はそうした信仰には与しません。
だから私はしばしば作品の「持ち味」を問います。
作者は何を作品の軸として書こうとしたのであり、そこに作品の体裁を整えるためやら商業的なサービスやらといった理由で付加されたものは何なのか――と、こういう言い方をすると語弊はあって、「作者の意図」など本当のところは分かりません。
だから問題になるのは結局、評者の視点から見て何が作品の見所たり得るか、ということでしかないでしょう。
そして、見所が活かせていない、といったことがあるならばそれはなぜか、ということです。
まあ、好意的な評だけでたっぷり書く気になれば、それに終始することも多いのですが。
しかし他方で、トータルとしてみれば面白いし良い作品について、気になる点についての批判的な言の方で筆が進むということもあります。
そして私の思考が何を重要と見なすかというのは、かなり偏ってはいるのです。
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それが前置きというわけでもないのですが、今回は新章突入して巻数も二桁を突破している『修羅の門 第弐門』の新刊を取り上げましょう。
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(前巻の記事)
今更のようですが、『修羅の門』のテーマは「殺人拳」でした。
主人公・陸奥九十九の使う陸奥圓明流は「人殺しの技」であって、決して手放しに褒められるようなものではなく、陸奥の好敵手ともなると人殺し、もしくはそれに準ずる存在であることが求められるのです。
時には人を殺した経験の有無が勝負を分けることもあったという意味で、まさしく「人殺しの方が強い」世界観でした。
好敵手が基本的に人殺しであるというのは、歴代陸奥の活躍を描いた外伝『修羅の刻』でも変わりませんでした。
10数年の間を空けて『第弐門』として連載再会したわけですが、その間に現実ではすっかり総合格闘技が普及しました。
『第弐門』は基本的に、現代の総合格闘技の世界に陸奥を放り込んで描くことに主眼を置いています。
しかしでは、「殺人拳」はどうなったのでしょうか。
確かに殺し屋の一族である「呂家」が登場しており、現在のトーナメントのボス敵(九十九と決勝戦で当たるはず)と思われる姜子牙も呂家の一員であって、本来総合のファイターではありません。
ただ考えてみると、ここまで、今までに九十九と戦った呂家にせよ姜子牙にせよ、過去に裏の世界での仕事でどれだけ人を殺したのかということは、話題にもなりませんでした。
このトーナメントの1回戦で九十九はTSFの王者であるヴォーダン・ファン・デル・ボルトと対決、撃破しました。
これにてとりあえず「立って殴れて、寝てマウントが取れる」という総合スタイルの頂点との対決は果たしたわけです。
そしてこの11巻では陣雷浩一vsジム・ライアンなのですが……まあ、ライアンが伏兵で陣雷が噛ませ犬として敗れるのは予想されたこと、としか言いようがありません。
そしてこのライアン、異常に頑丈で打撃が全然効いていないという異様な身体の持ち主。
そして、複数回ダウンするとカウント数が累積されるというETRラウンド(延長戦)のルールを利用した戦い方をしてきます。そもそもTSF側がこの変則ルールを提示したこと自体、最初からこれ狙いだったようで(このルール、現実にやったら批判を受けそうですね。露骨に特定のタイプの選手有利ですし)。
ここで『バキ』(板垣恵介)だったら、圧倒的な頑丈さとパワーによりパンチ一発で相手を吹っ飛ばして勝利、となるところでしょうが、ライアンの攻撃面は投げのみ超一流、他は今ひとつという独特のバランスで、ボルトとは別の意味でルール勝ちに特化しています。
2回戦で九十九vsライアンとなり、よもや九十九にルール負けの危機か、攻略法はあるのか――というところで引きとなっています。
無印『修羅の門』でも、ボクシング編ではボクシングのルールゆえの縛りや判定のホームタウンデシジョンが強調されたことがありました。
つまり「ルール負けの危機」というのは初ではなく、負けたら「そんなことで負けるとは」という悔しさが残るという意味での危機感はありますが……しかしやはり、命懸けの戦いに比べるとぬるい気はします。
毎巻のあとがきも、無印を読んでいない読者を対象に描いている旨を述べていますし、主題も違っている、という面はあるのかも知れません。
しかしこのことは、未だに九十九に相応しい敵がいない、という印象とも無縁ではないように思われます。
ただこれは、『第弐門』の九十九は重症から復帰してきたのであって、今でも「壊れている」と言われていることとも関係しているのかも知れません。
その意味で、九十九がライアンを「壊れている」と評したことは重要です。
壊れているがゆえにリスキーな戦いを繰り返す九十九と、壊れているがゆえに攻撃が効いていない(のではないか、と思われる)ライアン――その対決の意味は次巻で明らかになるでしょう。
そして姜子牙にも掘り下げを加え、決勝戦では殺人拳使いの対決らしい展開に――ということもあり得るでしょう。
ところで、『第弐門』が『第弐門』からの新規読者向けに描かれているとすると、無印と第弐門の間にあったはずの九十九vsケンシン・マエダ(九十九が重症を負った最大の激闘)と片山vs海堂はどうなるのでしょうね。
どこかで描いてもらわねば納得できないところですが……
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総合格闘技との戦いはこれが頂点か――『修羅の門 第弐門 12』
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