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思考停止の再生産について

昨日は研究室の予餞会、つまり卒業・修了生を送り出す宴会でした。
もっとも、修士論文の試問はこれからだったりするのですが……
以前の大学では、試問までは卒業修了生と指導教官が一緒に食事をしてはいけないとかいうルールがあって、それが宴会日程にも影響していたような記憶がありますが、京大文学部では関係ないようです。
二次会まで参加していると例によって遅くなるので更新はお休みしました。

 ~~~

今回の話題は、先だって紹介した西田昌司氏『総理への直言』の引用から始めましょう。

 皮肉なことに、民主党の歴代代表というのは、学歴的には非常に優秀な方ばかりです。鳩山由紀夫氏は東京大学工学部出身です。菅直人氏は東京工業大学理学部出身、野田佳彦氏は早稲田大学政治経済学部出身、みんな素晴らしい学歴です。間違いなく戦後の優等生です。問題は、戦後の社会や教育環境の中では、戦後の価値を学べば学ほど、残念ながら、頭はスッカラカンになってしまうことです。その原因は、上辺の綺麗ごとしか見えなくなってしまうからです。世の中の本当の問題点を見ずに、ただ受験勉強をして、優秀な大学に行く。そして、優秀な大学を出て、様々な組織に入り、そういう人たちが社会のトップになる。そのような社会を戦後は作ってしまったのです。
 これは言い換えれば、思考停止社会なのです。戦後の価値観、枠組み、その矛盾を考えず、その価値観を肯定しさえすればどんどん出世ができるのです。政治の世界でも然りです。勿論民主党だけではなく、自民党も同じです。かつては、自民党でも当選回数を重ねれば自動的に大臣などの要職に就くこともできましたが、解釈の経営者も役人の世界でもそうなのです。
 つまり、戦後の価値の枠組みの中でしか、ものを考えない人が出世できる仕組みです。(……)
 (西田昌司『総理への直言』、イースト・プレス、2013、pp.119-120)


東大だけでも毎年約3000人が入学し、その大部分は卒業していくわけですが、それが皆本当に「頭はスッカラカン」なのか、「学歴的には非常に優秀」でありつつ、「戦後の価値観」に留まらないところで仕事をされている方はいないのか、といった疑問は当然生じますが、それはひとまず措いておきましょう。ある程度の例外が存在しても良いのでしょうし。

ここで西田氏が言っている「思考停止社会」とは明確に、「戦後の価値観、枠組み」を頭から信じて疑わず、そこで思考停止している事態を指しています。
さらに西田氏は、「戦後体制」(安倍晋三総理の表現では「戦後レジーム」)は「冷戦が前提の仕組み」(同書、p.99)であって、冷戦終了後が問題が噴出してきた、と述べています。つまり、かつてはある程度まで「戦後体制」「戦後の価値観」で上手く行っていたものの(もちろん、アメリカの属国として「上手くいく」ことを良しとしない考えもあるでしょうが)、状況に合わなくなってきた、というわけです。

では、戦後の価値観とは異なる、今の状況に合った価値観を頭から信じて疑わず、思考停止するのは、良いことなのでしょうか。

もちろん、西田氏はそんな、「別の方向に思考停止すべきだ」等と主張しているわけではありませんし、そんなことを言いたいわけではない、と好意的に解釈してもよいでしょう。
しかし、そういう風に考えてしまう人が存外多いのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、そうなければ、教科書問題とは一体何なのでしょうか。

「正しい」教科書はどうあるべきかという議論にかくもこだわること自体、教科書に書いてあることをそのまま子供たちの頭に流し込んで、盲信させるのが教育だ、と考えているからではないでしょうか。
それが良いのかどうかという以前に、そもそもそんなことが可能かどうか、という問いもないままに。

教科書が間違っているならば先生が授業で訂正すればよいのです。
逆に、もし仮に先生が「偏向教育」を行っている等という実態があるのなら、教科書を議論するのは無駄です。

もちろん、教科書を訂正するためには、先生に相応の教科の知識と能力が求められるでしょう。
しかし、教育改革論議の中で「先生の教科の能力を高める」という話が、どれだけなされているでしょうか。
先生のことを、漏斗のように生徒の頭に教科書の知識を流し込む存在だとでも考えているのなら、それはまさにその名に値する「教育」をまったく受けたことがないことを意味します。

公式の「正しい」知識を盲信させ、その枠組みの中でしかものを考えられない思考停止した人間を作りだすという前提のもと、その盲信させる内容をどちら向きにするかで揉めている、といった現実が、ありはしないでしょうか。
しかし、思考停止社会をこれ以上再生産して、どうするつもりなのでしょうか。

そして、ここでもう一歩問うことができます。“与えられた枠組みの中でしかものを考えない思考停止した人間を作りだす”ということ自体は「戦後の価値観」に含まれてはいないのか、と。
少なくともGHQの占領政策は、まさにそれを行ったはずです。占領政策がいかに強力なものであったかは、それを問題視する人ほど強調することです。
どこの国家でもやっていることだろう、と答えるならば、それこそ視野狭窄の感があります。なぜなら日本ほどにそれが成功している国が一般的だという人は、必ずしも多くないのですから。

結局、「いかにして戦後体制を脱した価値観を信じて疑わない国民を作るか」という議論そのものが、戦後体制の中に留まっている、という疑いがあるのです。

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テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育

コメント

No title

まあこんなことを著書で書く西田氏みたいなひとは、「おれとおれが盲信するあの指導者だけはおれが立てた問題からは例外」だと盲信しているだろうから実りある議論ができるかどうかわかりませんが、戦後体制というものを「偏った思想に対する盲信」と捉えると、「果たして戦前の体制はある偏った一種の思想を盲信させることから自由だったのか」という疑問が生じます。それは「諸外国ではどうなのか」「江戸時代以前はどうだったのか」というように果てしなく広がり、そうしたひとつの人間社会に脈々と受け継がれる思考形態そのものを、嫌う人は嫌うのではないかと思います。

少なくとも、哲学の徒としては、「教育がひとつの思想を盲信させることにあるのではないとしたら、教育とはなんであるか」と考えるべきではないでしょうか。

戦後民主主義者であるわたしとしては、「『人間は偏っていようが他者とひどく対立しなければどんな思想を持ってもいいんだよ』、という偏った思想を教育すること」自体は他の教育よりかなりマシな考えなのではないかと思います。

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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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