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小説家たることに殉ずる――『エウロパの底から』

今回取り上げる小説はこちら。
単行本では3ヶ月ぶり、入間人間氏の新作です。

エウロパの底から (メディアワークス文庫)エウロパの底から (メディアワークス文庫)
(2014/03/25)
入間人間

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本作の主人公「私」(本名、ペンネーム共に不明)は小説家です。
30歳を迎え、デビュー作に比べれば初版の部数も半減、才能が枯渇したかと恐れている彼ですが、子供の頃から馴染みの内科医に、才能を再起動する治療なるもの(人体実験?)を進められます。
その「治療」で電気ショックを受けてしばらくすると、彼は強烈なインスピレーションを授かります。
早速書いて発表するのですが……発売後間もなく、その小説の通りの殺人事件が起きてしまうのです。
しかも、それは二度、三度と続きます。

というわけで、あらすじにもありましたが、ここまでは二昔くらい前のメタミステリの構図です。私としては竹本健治氏の『ウロボロス』を思い出しますね。
ただし――本作の主人公が一番気にするのは、殺人事件の犯人扱いされることではありません。
メタでなくとも、犯人扱いされてしまった人物が真犯人を捜すのはミステリに結構よくあるパターンですが、そうした方向性とは無縁です。周囲も彼を犯人と見なす方向ではそれほど追及しません。
事件の真相なども大して語られませんが、それも「本作はミステロイド〔擬似ミステリ〕だから」と言ってのける『ウロボロス』とは全く別の理由によります。
事件の犯人や真相は、関心事ではないのです。

「私」が何よりも恐れるのは、自分が受け取ったのが予知であり、自分が書いたのが自らの創作した小説ではなく、現実の模倣であり剽窃であることです。
「私」は「小説家」である――これこそが譲れない点であり、たとえ言い逃れが苦しくなってきても、彼は自分の予知を否定すべく戦い続けます。

タイトルの「エウロパ」は氷に覆われた木星の衛星で、自らの深奥からインスピレーションが噴き出てくることが、厚い氷が割れて、その下の海が噴出してくることに喩えられています。
「私」はそのような自らの才能の湧出を待望し、それを感じた時は喜びました。けれども、「私」が恐れるのも、自らの深奥にあるものの正体です。

今回も、たとえ傍からは理解しがたくとも本人は生死を賭けるほどに大真面目、という入間作品の登場人物の特徴がいかんなく発揮されています。
何しろ、もし「私」の小説の方が事件の原因であり、それも誰かが小説を模倣したのではなく何か超常の力が働いて小説によって人が死んだのである場合、犯人は「私」ということになりますが、「私」はその場合自首しようか、とすら考えているのです。
普通なら、自分が殺人犯になることこそを恐れそうなものです。
しかし、「私」は小説家としてしか生きられないことを自覚しています。
自分の予知を否定することで自らを小説家たらしめんとして戦い、小説に生き、小説に死ぬ――
そして、この『エウロパの底から』という小説を書いているのは一体誰でしょうか――

最後の「この小説を書いているのは誰」というのもまた、メタ小説にありがちな問いかけですが、本作の「私」が大文字の作者である入間氏自身を強く思わせることもまた、ある面ではこの問いに繋がっています。
「映画化された一作目、アニメ化された二作目」(p.7)という記述など、確かにそれぞれ『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』(略:『みーまー』)及び『電波女と青春男』を思わせます(その他、『アラタなるセカイ』の歌詞も「私が作詞した」として登場します)。
作風の変遷や、昔の作品(主として上の二作でしょう)の続きを書いてくれというファンレターばかりが届くという記述も本当らしいですし、そんな現状への鬱屈や先行きへの不安、そして自分の才能へのこだわりも、作者の日頃の発言と一致しているように思われます。

けれども、「私」は「デビューしたての頃」に20歳、来年30歳。カバー折り返しにある入間氏は1986年生まれで2007年デビュー。微妙にズレています。デビュー時の年齢はともかく、現在の年齢は「来年」と特定している(しかも、作中で1年が経過して30歳を迎えます)以上、概数という訳でもありません。
地理もよく分かりません。入間氏の作品は氏の地元である岐阜か、通っていた大学のある名古屋周辺を舞台にしていることが多いのですが、本作の場合、作中で起きる一件目の事件は「私」の住む地から見て「他県」とあります。しかしこの事件の捜査に登場、繰り返し「私」と対決するのは『みーまー』に登場した女刑事・上社奈月(かみやしろ なつき)です(相変わらず若くて美人なようで)。彼女が所轄を移っていないとすると、一件目の起きたのが『みーまー』の舞台と同県になりそうですが…?
しかも、「私」が最初に彼女と会う時には編集部に呼ばれています。その後、上社が「私」の家を訪ねてきた時、「私」は「今回は横着しないようだな」(p.131)と言うのです。「横着」とは、編集部の方が「私」の家よりも彼女の所轄に近いかのようですが……おそらく(現実のアスキー・メディアワークスがモデルであれば確実に)編集部は東京にあると思うのですが。
どこにも具体的な地名が書かれていない以上、特に矛盾はありません。ただ、そう簡単に舞台を作者の住む地を重ねられないことはお分かりでしょう。

極め付きは、入間氏の作品『バカが全裸でやってくる』他人の作品として登場することです(正式名称は述べていませんし作中世界では映画化されていますが)。

こうした虚実の混交はストーリーにも食い込んでいます。
たとえば、担当編集者は最近ろくに原稿を読んでいないので何も指摘してこない、という記述(p.9)も――最近の入間氏の作風と併せて考えるに――実話らしさを感じさせますが、他方でこれは、編集者が手を入れるようになったらそれは現実の事件に反映されるのかどうか、という後々の展開に関わってくる要素です。とすると、ストーリーのための設定である可能性もなきにしもあらず。
いくら実話に見えても実情は分かりません。

かくして、大文字の作者とこの作品、そして作中世界と作中作で、二重に虚実が混じり合います。

もっとも、そもそも作中で現実にはない(荒唐無稽な、と言ってもいい)犯罪が起こる以上、いくら主人公が作者そっくりであろうと、物語が進めば虚構へと流れ込んでいくのは当然ことです。これは作者が語り手で、その他実在の作家たちが登場する『ウロボロス』シリーズでも同じことです。
ただ、「小説家」であるという「私」の自意識でありアイデンティティが前面に出て、そこに大文字の作者がオーバーラップせざるを得ないよう構成されているのが、本作の特徴です。

実話や本音に思える話は巧みに空想的なストーリーの要素へと組み込まれます。
そして、最後まで「小説家」としての自己のために全生命を賭した「私」の姿は、本音でしょうか理想でしょうか、それとも単に見栄えのいいフィクションでしょうか――


ウロボロスの偽書 (講談社ノベルス)ウロボロスの偽書 (講談社ノベルス)
(1993/08)
竹本 健治

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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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