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夜の安らぎと新時代の夜明け――『魔女は月出づるところに眠る 下巻 ―東からの夜明け―』

今回取り上げるライトノベルはこちら。
昨年12月から5ヶ月間で全3巻を刊行し、見事完結となった『魔女は月出づるところに眠る』の下巻です。

魔女は月出づるところに眠る 下巻 ―東からの夜明け― (電撃文庫)魔女は月出づるところに眠る 下巻 ―東からの夜明け― (電撃文庫)
(2014/04/10)
佐藤ケイ

商品詳細を見る

 (前巻の記事

すでに退場したさくらも含めて、3人仲良く穏やかに眠っている表紙が「3人で三つ子に生まれ変わる」云々と言っていたことを思い出させて、かえって不穏ですらありますが……

前巻では新ヘロデア派によって攫われた恵奈、それを追って敵地に乗り込む里弥――というところで引きでした。
今回はそのまま決戦です。新ヘロデア派の幹部「四姉妹」と戦う里弥、そこに新ヘロデア派の首領サロメを狙って取り入ったノクティフェリアとマスカラミア、それに魔女狩りのホルダ派等も絡んで複雑な戦いになります。
そして予言に言われるオリエンテ婦人再来の時――あるいは、世界滅亡の時。そこでオリエンテ婦人の再来とされる恵奈の決断は――

今まで以上に血飛沫が飛び心臓が抉り出され、登場人物がどんどん死にます。
邪眼使いのサロメや、世界を滅ぼしかねない「天使」と化したレイチェル等の恐るべき力も、幻想的な「あちら側」の世界の描写を駆使して見事に描かれます。
ただ、辛い悲劇は前巻~今巻の序盤くらいまでがピークで、後半はむしろ何かを成し遂げて、またそうでなくても安らいで逝くことのできた者達が印象に残るようになります。
それはサロメ、ノクティフェリア、マスカラミア、レイチェルと歳郎といった登場人物の過去が次々と描かれ、それぞれに苦しみながらも何かを狂おしいほどに渇望して、そのために生きてきたことが見せ付けられたからでもありますし、さらには彼ら彼女らが想いと命を繋いできたことが、最後で恵奈の決断に繋がってくるからでもあります。

「悪い魔女」の代表であって、1巻の悲劇を齎した元凶でもあるサロメにしても、悲しい過去を持ち、この上なく愛情深い人だったことが描かれます。
それもちゃんと彼女の人物像の厚みを描き、さらには「悪人とはどういう存在か」という考察にも結び付いているので、十分な読み応えがあります。
そしていくつもの過去編の総締め括りは、2000年前のオリエンテ婦人とサティア、ホルダの物語――これは、全ての魔女の存在理由という真相が明かされる箇所でもあります。

全てが運命的に繋がるクライマックスは圧巻。

文句無しに傑作と言って良い幕引きだったかと思います。


さて、繰り返しますが特別な才能を持ちながらなかなか契約しない主人公、一足先に契約した親友が主人公と確執を生じる場面、師の陰惨な退場 etc... 本作中に『魔法少女まどか☆マギカ』を連想する場面を見ることは容易です。
ただ私は、西洋の伝統に根ざしたものとして描かれる本作の「魔女」と魔法少女の違いを、ひいては「愛と正義のファンタジーはいかにして可能か」という『まどかカ』のメタ的なテーマに本作は縁遠いことを主張して、その上で「にもかかわらず、本作には『魔法少女まどか☆マギカ』との無視できない類似があります」と述べました。
私は「だから」よりも「にもかかわらず」の方が重要だと考えるからです。軸となる部分に大きな違いがある、にもかかわらず……

それはテーマに関しても言えるかと思います。私は本作のテーマを、智者であり技術者である「魔女」を通して智と技術の問題を描くことだ、と見ました。
その意味で、本作は原発事故を経て、なおその波紋が引いたとは言い難い今に相応しい作品です。
『まどか』の魔法少女も、人類史に多くの革新を齎してきた、したがって智と技術の歴史にも大きく貢献してきた存在です(キュウべえの曰く、魔法少女がいなければ人類は「今でも洞窟で裸で暮らしていたんじゃないかな」とのこと)。
ただし、『まどか』においては、どんな智が良い智であるのか、智が弊害を齎すことはないか、といった点は問題になっていませんでした。これは決して優劣の問題ではありませんが、ただやはり、本作はテーマ面でも『まどか』とニアミスしながら、異なる水準で問題を扱っていた、とも言えるのです。

この下巻のネタバレを含む詳細な話は追記に回して、大枠だけを論じれば、オリエンテ婦人がサティアに授けた教えは「悪魔を眠りに就かせる」ことです。悪魔は死者の魂であり「あちら側(ウルテル)」の存在ですが、満たされぬ想いゆえに「あちら側」のさらに向こう、完全なあの世に当たる「川向こう(ウルテリオル)」に渡ることもできず、渇き続けているのです。
すなわち、日本風に言えば魔女の使命は、浮かばれぬ死者を成仏させることです(この「成仏」と言う言葉、日常語では本来の「仏に成る」という意味はほとんど失われているので、かえってちょうどいいですね)。
サティアも、また700年前のヘロデアも、悪魔を川向こうで眠らせることを求めていました。
魔女の智の究極目標は、魂の安らぎと幸福です。

けれども、この本来の教えは長い間に見失われ、魔女たちは力を行使する代償として悪魔に生贄を捧げて、むしろ悪魔を強大にしてきました。
本来悪魔の害を防ぐことを使命としながら、そのためにも悪魔の力を使う魔女たちの姿は、魔女を悪と見なしながら魔女を狩るために魔女の力を借りるホルダ派の内に反復されています。しかしいずれも、大きな智を失っていることに変わりはありません。
たとえば現実の原発問題にしても、もっぱら論じられているのは「リスクとリターンを秤にかけて、どちらを取るか」という問題です。しかし、たとえリターンの方が大きいとしても、また危険が管理されているとしても、そもそも「リスクと引き替えに力を得る方法」というレベルに留まっている智は、はたして十分なものでしょうか。智とはそういうものだったのでしょうか。本作で問われているのは、そういうことです。

ただし、そうした技術智に対して「魂の平安」のための智を持ち出すことは、「いくら知識や技術があっても、幸福は保証されない」という(それ自体は正しい)ことを理由に道徳の前に知識を軽視する道徳的なお説教にも転じかねませんし、さらにはそれが「死者の魂」つまり死後のことを問題にしているとあれば、実に現世軽視の思想のようにも思われます。
ですが、そうではありません。現世を蔑視するのは、世界滅亡を待望する新ヘロデア派の思想だからです(これはたとえばオウム真理教のようなカルトに見られるタイプですね)。
これに対して、恵奈を含むサティア派の善き魔女の第一目標は、あくまで生ける人の幸福です。悪魔は生ける人に害をなすからこそ、鎮める必要があるのです。

かくして、「月出づるところ(terra lunae orientis)」にして日出づるところたる日本に降臨するオリエンテ婦人(Matrona Oriente)は、死者に夜の安らぎを、現世に新たな時代の夜明け(智の革新)を齎します。

しかし、失われた深い智を再発見したところで、今後におけるその使い方までが保証されているわけではありません。
では、現世で生きるための智と技術はどうあるべきなのか――それは救世主たるオリエンテ婦人の再来の後でさえ、開かれて、生き残った者の手に託されているのです。


――と、内容的には大変素晴らしいのですが、ちょっと気になるのは本作に想定される読者層でしょうか。
実のところ、西洋の智の伝統に根を下ろした「魔女」像を丁寧に描いたとて、それがたとえば『ドラゴンクエスト』のようなゲームの魔法使いやアニメの魔法少女とどう違うのか、大多数の読者にとっては関心事の外であるようにも思われます(今更な話ですが)。
ラテン語を読めるかとかいう以前に(別に読める必要はありません)、「ラテン語=西洋の古典と学問の言葉」というイメージ自体、電撃文庫読者には必ずしも常識ではないような気がするのですが…。

またこの下巻では、サロメがロシアの歴史の裏で暗躍していたことが語られたりもするのですが、これまた「歴史を影で支配していた」と大仰に言うことなく、歴史上の人物の名前を直接出すことすらなく、「歴史知識のある人は察してください」という感じでさらっと語られるのです。

佐藤ケイ氏は博識な薀蓄作家です。
しかし、コメディ作品で「こんなくだらないことを綿密な知識に基づいて説明している」というギャグは(合うかどうかはともかく)分かりやすいのですが、本作は徹底してシリアスである分、その凝り具合が伝わりにくいのです。

そのためか、本作の場合本文中での薀蓄は控え目で、中巻巻末に用語集が載っていたりしました。
もちろん、入念な設定を作っておいて、本文中での説明はテンポも考えて控え目にし、巻末に設定資料集の類を付けるというやり方は、しばしば見られるものです。
そして実際本作は、作中で語られる以上の背景設定を気にしなくても、十分楽しめるエンターテインメントとなっています。

その点では上質。しかし勿体ない気もします。
全てがストーリーとテーマに生きているという意味で、ギャグに使うよりも薀蓄が無駄なく生きているとも言えますが、それが「分からない人は気にしなくていいです」という扱いになっている点ではロスが多い感もあり。

これがハードカバーで出版されていたら、受け取られ方も違ったのかも知れませんが。



以下は下巻のネタバレに触れて、上でさわりのみ語ったことをもう少し詳細に論じたりしています。


終盤で明らかになった、魔女が悪魔と契約することの本来の意味――それは、それによって魔女が死ぬ時に、悪魔を一緒に「川向こう」に連れて行ける、ということでした。
ただし、魔女の生き血と魂以外の生贄を悪魔に捧げて悪魔を肥大化させてしまえば、悪魔は「川向こう」への道を通れなくなります。魔女自身が悪魔に生き血や魂を喰われすぎて死んでもいけません。その場合は悪魔が解放されるだけなので、それ以外の死に方をする必要があります。もちろん、魔女自身が「川向こう」に行かねばならないので(その際に一緒に悪魔を連れて行くのですから)、魔女自身が未練によって悪魔となってもいけません。

つまり本来、悪魔の力で魔法を使い、それによって悪魔が渇いたら生贄を捧げるなどということは、やってはならないことだったのです。
しかし他方で、病気や冷害といった現世の災厄から人々を守るために魔法を行使することを禁じるわけにも行きませんし、さらには魔女が増えるにつれ、統制の外で悪事を働く魔女も出てくるので、その取り締まりも必要になります。
かくして、誰よりも契約本来の意味を知っているはずだった始祖サティア自身が、「悪魔の害よりはまし」として、生贄を捧げて魔法を使うことを認めていったことが、2000年前の過去編では描かれています。

 野放図に魔法を使った事は魔女としての心得に違反していたが、作物や家族を救うための魔法を否定する事は、サティアには出来なかった。この当時、作物の不作もちょっとした病気も、すぐさま人の命に直結する問題だった。寿命より前に人が死ねば、悪魔が生まれる可能性がある。それを未然に防ぐ事は、新たな悪魔の誕生を予防することでもあった。まだ若いサティアは苦悩し、結局、食肉にする予定の家畜を生け贄として捧げることを許可した。ただし、生け贄を捧げた魔女たちは死後に内なる悪魔を「川向こう」へは連れて行けなくなるため、常に仲間の監視下に置き、臨終の直前に心臓を抜き取るという掟を新たに課した
 (佐藤ケイ『魔女は月出づるところに眠る 下巻 ―東からの夜明け―』、KADOKAWA、2014、p.310)


やがて悪魔を悪魔の生贄に捧げることができると判明し、それが当たり前になり、本来の教えは失われていくのですが……

始祖サティア自身が認めたということにより、始祖の「正しい教え」とその後の「歪んだ伝統」とを容易に切り離すことは難しくなります。人々を救うために魔女の智を役立てたいという想いは、連続していたのです。

それから、オリエンテ婦人はサティアに「銀のリンゴ」を授け、それを食べたサティアは悪魔とその封印の仕方、そして上記のような契約の意味について知りました。
このリンゴは、『創世記』でアダムとイヴが食した知恵の木の実をイメージしていると思われます。
ただし、ここで作者ならおそらく知っているはずのことを指摘させていただきましょう。

『創世記』には、知恵の木の実がリンゴであったとは書かれていません。
ではなぜこの木の実が伝統的にリンゴとして描かれてきたかと言うと、ラテン語でリンゴ malum は悪 malum とスペルが同じだから、とされています。つまり、エデンのリンゴはプラスの意味での知恵の象徴ではありません。堕罪の象徴です。

けれども、オリエンテ婦人の「銀のリンゴ」そのものを悪と見なすことは、『魔女は月出づるところに眠る』中のいかなる文言からも支持されません。
オリエンテ婦人は悪魔と世界滅亡の危機から世界を救うための智を齎したのですから。

さらには、サティアがオリエンテ婦人から授かった智により可能となった魔女の技は、決して悪魔の力で魔法を行使するだけではありません。
契約した内なる悪魔の力を使わなくとも、魔女自身だけで――悪魔の力を借りた場合よりも遥かに弱いものではありますが――ある程度の魔法は使えるのです。
オリエンテ婦人直伝の智の一つ「魔女の宝石」作りに至っては、むしろ悪魔と契約前の魔女の方が容易なのです。
それゆえ、オリエンテ婦人の教えに立ち返って悪魔の力を使うのを止めたとしても、決して魔女と魔法の全否定にはなりません。

このことは、最後に生き残った登場人物の顔ぶれにも関わってきます。
サロメの部下「四姉妹」の末妹で、唯一まだ悪魔と契約していない見習い魔女だったナターシャが生き残るのは、真っさらからの新たなスタートの象徴ということで、何となく予想していました。
ただもう一人がノクティフェリアだったのは予想外でした。復讐に生きる彼女こそ、刺し違えて死ぬかと思っていたのですが……

ノクティフェリアが生き残った意味を考えると、彼女は700年を生きていたマスカラミアと一時期行動を共にしていたことが考えられます。
マスカラミアは700年の経験により、内なる悪魔の力を借りずとも、自分の微弱な力だけでかなりのことができる技を編み出していました。
そしてその一部をノクティフェリアが学び取っていたことも描かれています。
これから、内なる悪魔の力を借りない魔女のあり方を新たに築くに当たって、このような技を継承したノクティフェリアの存在は必要だったのでしょう。

これらの点からしても、魔女の智そのものは悪ではなく、ただ否定されるべきものでもありません。むしろこれから、皆の幸福のために、その使い方を考えていくべきものなのです。
つまり、「銀のリンゴ」はむしろ、堕罪の象徴たるエデンのリンゴにはっきりと対立するイメージとして、読まれるべきでしょう。

そして最後に新たなオリエンテ婦人となった恵奈は、ノクティフェリアに新たな銀のリンゴを授け、ナターシャにリンゴの髪飾りを託して両親に届けるよう頼んで、「川向こう」へと去ります。これまた、大変に象徴的です。
ノクティフェリアは元ホルダ派でもありましたから、各流派の智を継承していることになります。そんな彼女が新たな始祖となったことが肯定的に描かれているということは、智は継承して、その上で使い方の善悪を考えるものだ、ということです。
新たな知恵のリンゴを受け取った者達がそれをどう使い、どんな未来を築くかは、ナターシャとノクティフェリアに託されているのでしょう。

願わくば、今までよりも人を幸福にできる、善き智を生み出さんことを――

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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

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コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
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