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読書のストレス論

漫画『乙女戦争』2巻についての記事に、作者ご自身からトラックバックを戴いたようです。
本を取り上げた著者・作者がこのブログを読んでいたり、コメントを戴いたりしたことはありましたが、トラックバックを貰ったことは記憶になく、やっている甲斐を感じます。

まあ、私のブログに宣伝効果は皆無ですが。

 ~~~

まずは引用文をどうぞ。

 私は我が家が建っていて、庭に木々や花々の生えているイスラエルの大地の土に向かって頭を下げ、その土に対して「あなたのお陰で私の魂は生きたのです」という聖句を読んだ。その後で私は聖別し、私たちを生かす祝福を唱え、ワインを飲み、自分杯から妻と子にワインを与え、そうしながら涙でワインを薄めることはなかった。このことは人間についての大いなる賞賛である――彼の街は世界から洗い去られ、それでも彼は涙で杯を薄めることはない、ということは。
 (シュムエル・ヨセフ・アグノン「印」第8章)


作中の年代はおそらく第二次世界大戦中でしょう。語り手の「私」(明らかに著者であるアグノン自身を想起させる)は、現在イスラエル近郊に住んでいますが、故郷の街(アグノンの出身地ブチャーチならば現在のウクライナ)のユダヤ人が皆殺しにされたというニュースを聞きます。
けれども、その日はシャブオットの祭り――ユダヤの律法伝授を祝う喜ばしい日――だという理由で、「私」は喪を延期し、いつも通りにシャブオットを祝います。祭日の平穏な風景に故郷の風景画オーバーラップし、時に出てくる「彼らは皆死んだ」といったフレーズが重くのしかかります。
「私」自身、自分が悲しみに耐えて何事もないかのように過ごせていることを「まるで神から力を与えられたかのようだった」と語っており、普通だと思っていないのは確かです。
そして家族と共に晩餐の一時を過ごしながら、ふと「自分は何をやっているんだろう」と驚くのです。

上記の引用箇所の最後で突如として三人称で「彼」と書いて、そうして何事ないかのように振る舞っていられることが何と偉大なことなのか、と言っているのは、そんな自分に対する驚きと距離感を表現しています。

この場合、「杯を涙で薄めることはない」という、直前で一人称で語られたのと同じ内容を三人称で繰り返しているので、この人称の変化が意味を持っていることは分かりやすい方かも知れません。

しかしそうでなくても、たとえば三人称の地の文の中に――カギカッコや「~と言った/思った」という文言を使うことなく――登場人物の一人称での言葉を交えるのは、文学表現としては普通にありで、自由間接話法という名称もあります。
そもそも代名詞を多用しない日本語の場合、元より区別は曖昧なのですが。近代以前にはカギカッコなどなかったことを考えれば、なおさらです。
カギカッコや「~と言った/思った」は使わずとも、改行したりすれば分かりやすくなりますが、それも絶対ではありません。

ところが、この手の表現を見て「一人称と三人称の区別がでいないていない。下手な文章ですね」と言い出す人がいます。
確かに、演出上の計算に基づいているとも思われない、単に下手な文章という場合もありますが、読者のリテラシーにも問題を感じます。
幸いにして、レベルの低い読者の圧力で文章の全体的なレベルも下がっているとまでは思わないのですが、ぼやいてみたくもなります。

そもそも、読者も文章の与えてくるストレスに耐えて、自分の読み方を問い直す、そういう姿勢が必要ではないでしょうか。

内容に関しても時に「ストレスフリー」ということが言われます。
たとえば、ライトノベル周辺ではよく目にしますが、主人公が逆境に遭ったり挫折したりする話は――こと主人公に感情移入して読む場合――読者にストレスを与える、最近の読者はそうした話を好まないので、「主人公は大して苦戦もせずモテモテ」という類が受けるのだ、という部類の言説です。

もっとも、そういう割には主人公が逆境に遭う話などそこまで珍しくないのであって、そういう人たちこそ何を読んでいるのか、とも思いますが。

そもそも、「最近の読者はストレス耐性がないから、それに合わせてこんな甘い話ばかりなんだ」とぼやく人に限って、「この手の話にはこのような逆境や救いのなさがあるべき」という先入観で読み、それが満たされないことに不満を抱いている、という面がないでしょうか。
その先入観を裏切る話を受け入れられない限りにおいて、彼らも「ストレス耐性がない」ように思われます。
裏を返せば、そうした先入観に素直に応える話は、いかに主人公が痛い目に遭おうと、本質的には「ストレスフリー」です。

本当の傑作には、読者の読み方そのものを「その読み方でいいのか」と問い質す力があります。
そうした緊張関係があってこそ面白いのです。

もっとも、このような「ストレス耐性」の不足は私自身にもしばしばあることです。気を付けねばなりませんが、つまるところ、何か惹かれるものがあるからこそ、その作品に合わせて自分の読み方をも問おうという気になるというのも事実です。
面白さと読みを問い質されることとどちらが先か、と言い出すとニワトリとタマゴの様相を呈してきますけれど。


アグノン「印」の英訳は下記の書に収録されています↓

The Literature of Destruction: Jewish Responses to CatastropheThe Literature of Destruction: Jewish Responses to Catastrophe
(1992/09)
David G. Roskies

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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