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『思い出のマーニー』と西洋人コンプレックスの話

スタジオジブリ映画『思い出のマーニー』を観て来ました。

私は普段、ことさらに「ネタバレ」として追記に書くのでなければ、ネタバレは興を削がない範囲に……と考えてはいるのですが、しかし「興を削がない範囲」といってもどのくらいなのは、判断が難しいことはあります。今回もそうですが――何しろ、私自身はほとんど前情報なしで観ているわけですし――、まあひとまず行ってみましょう。

舞台は北海道
主人公は12歳の少女・奈杏(あんな)。喘息持ちで、両親のいない彼女は、固く心を閉ざしています。
彼女がそんな風になった事情――自分を引き取るに当たってもお金のことで言い争いばかりしていた親族の姿、それと関連しての現在の養父母の愛情に対する疑い、そんなことを考える自分への嫌悪、好奇の目やお節介に対する反発等々――は、読み進めば追い追い丁寧に語られていきます。
そんな彼女は夏の間、喘息の療養のため、田舎に住む養父母の親戚の下に行くことになります。
これがどこか『風立ちぬ』の時代の結核の療養を思わせる設定で、今時そんなことがあるかな、と思わないでもありませんでした(携帯電話等の時代を細かく特定できるものは登場しないので、作中年代は定かではありませんが、「今時手紙なんていいじゃない」という台詞から、もっと便利な通信手段が存在する時代であることは想像されます)。
まあしかし、喘息の発作は精神的なものもあると言いつつ療養を勧めた主治医は、彼女の養父母に対する微妙な感情なども察して、その面でも環境を変えることを勧めたのかも知れません。

潮の満ち干きで大きく様相を変え、鴫(しぎ)や千鳥が姿を見せる自然豊かな湿地帯――そんな湿地の中でも外れの、潮が満ちればボートで出入りするような場所にある「湿っ地屋敷」で、杏奈は白人の少女マーニーと出会い、友達になります。

私は普段、ことジブリ映画に関してはほとんど原作を気にしたことはなく、今回も同様です。ただ、パンフレットにある三浦しをん氏の解説によれば、今作の筋書きはかなり原作に忠実とのこと。
ただもちろん、原作はイギリスの小説ですから、舞台が日本になっているのは改変点です。

米林宏昌監督は『借りぐらしのアリエッティ』に引き続き、西洋小説の舞台を現代日本に移し変えた作品を作ってきました。2本であれこれ言うのは早計かも知れませんが、これは作風でしょうか。

内容に戻りますが――杏奈とマーニーの出会いは非常に幻想的です。
そもそも今は誰も住んでいないはずの湿っ地屋敷に明かりが灯っているのを見た、という描写に始まり、やがてその屋敷でマーニーの一家が豪華な舞踏会を開催していたりするわけです。さらには、直接マーニーと会うまでに夢の中でその姿を見ていたり、マーニーと遊んでいたはずが夢落ちのごとくに湿地周辺で目を覚ましたりする(これは、穴の中でトロロと出会ったメイが庭の藪の中で目を覚ますのと同質の描写です)描写があって、マーニーがこの世の存在でないことは割と容易に察せられます。その点、本作の伏線は割と読みやすいものです。

思えば、『アリエッティ』の時にも「全ては翔という少年の妄想」説は見た覚えがあります。
その上で、たとえ妄想であろうと現実であろうと、「一人の少年が生きる勇気を得た」いい話として成立しているところが素晴らしいところなのですが。その点では今作もそれに通じるものがあるのかも知れません。
ただ『アリエッティ』の場合、そうした読みを積極的に示唆する要素もほとんどなかったのに対し、今作『思い出のマーニー』はもっと明瞭です。それはやはり、原作の設定が明確にそうだから、なのでしょう。

さて、素敵な家で家族に恵まれたマーニーのことを羨ましいと思う杏奈。
けれども、マーニーにも辛いことがあったのを知り、一方が他方を羨む関係は逆転し、お互いをかけがえのない相手と思う二人。杏奈が表情豊かになっていく様が生き生き描かれている――のですが、しかしマーニーの存在の非現実性を考えると、これはかえって現実逃避であり閉ざされではないか、という思いも芽生えます。
しかし、ここで重要なのが、杏奈を「あなたマーニーでしょ」と呼ぶ少女彩香(さやか)の登場。
マーニーを接点としての杏奈と彩香の友情――つまり、夢と理想の世界の友情から現実の友情への帰還を描くところが、本作の素晴らしいところです。
その意味で、終盤、彩香と楽しそうに笑う杏奈の姿を見るのは、本当に感慨深いものです。

しかも三浦氏の評によれば、その辺の繋がりは原作よりも巧みになっているとか。

 原作は、イギリスの児童文学『思い出のマーニー』(ジョーン・G・ロビンソン/松野正子訳・岩波少年文庫)だ。一九六七年に出版された小説だが、いま読んでもまったく古さを感じない。複雑な家庭事情と感じやすい心を持つアンナが、田舎へ療養に出かけ、「湿っ地屋敷」に住む不思議な少女マーニーと出会う。映画版も、舞台を日本に移してはいるが、展開やセリフは原作に比較的忠実である。
 だが映画版には、細心の注意を払って、非常にうまく原作を改変した点ももちろn存在する。原作でプリシラ(映画版の「彩香」に相当する人物)が本格的に登場するのは、物語の後半だ。それゆえ原作は、「アンナとマーニー」「アンナとプリシラ」と、構成的には大きく二つのパートに分けることができる。映画版は、この分断を生じさせない構成を取っており、物語は観客の心をつかんだまま、ラストまで一息に走り抜ける。
 (三浦しをん「「いま」を生きるすべてのひとに」、映画パンフレットより)



映像の素晴らしさは言うまでもありません。
人物の生き生きとした動き、湿地の自然描写、廃屋の洋館に現れる人々というホラーじみた舞台設定で描かれる美しい舞踏会の有り様、そして終盤の本当に怖い嵐の日――いずれも圧巻です。


――と、見事な作品なのですが、以下では、英文学の舞台を日本に移し変えたことによって入ってきた、ある美意識に関わる要素に触れたいと思われます。

マーニーは作中でも抜きん出た美少女として描写されています。
杏奈も顔は十分に美少女です。青い瞳を好奇の目で見られることを嫌がるシーンはありますが、「自分が嫌い」という時にことさら容姿のことを考えている風ではありません。それでも、浴衣を「似合うわけないじゃない」という場面もありますし、自分の容姿をあまりよく思っていない気配は窺えます。
髪は短めのくせ毛で、服装はほとんどつねにボーイッシュな格好。「自分には女の子らしい可愛さが足りない」と思っている可能性は容易に想像できます。

思い出のマーニー
 (パンフレット表紙。左が杏奈で右がマーニー)

杏奈のマーニーに対する想いが「友情」という枠に括り切れるのかどうか、原作からの微妙な改変によって導入されたものをも含めたその機微に関しては、これまた解説の三浦しをん氏が論じています。
私と三浦氏の解釈は必ずしも一致しませんが、ここには相当に複雑な心情が読み取れるのか確かです。
杏奈がマーニーの内に、「理想の女の子」を見ていた――つまり一種のナルシシズム――と考えることに、さほどの無理はないように思われます。

そして、現実で杏奈の友達になる少女・彩香は、眼鏡をかけた野暮ったい感じの外見です。年齢は分かりませんが、話している場面を見るとほとんど年齢差はなさそうに見えるのに、身長も頭一つは低く子供っぽい体格です。

思い出のマーニー 彩香
 (パンフレットより)

私個人としては、眼鏡を容姿のマイナス要素だとは思いませんし、動いている彩香の可愛さは映像をご覧になれば分かります。しかし、彩香が――そもそもこんな丸い眼鏡は今時ないだろうという疑問をも振り切って――「地味で野暮ったい容貌」を念頭に置いてデザインされていることは確かだと思われます。

これに相当する要素が原作にどれくらいあるのか知りませんが、ここに日本人と白人の対比を重ねて読み取る“ことができてしまう”のは、舞台を日本にした映画ならではの点のはずです。

かくして、「理想的な女の子」と「現実の友達」の差に、白人と日本人の差が重ねられているのではないか――
まさしく白人コンプレックスです。

ただ本作の場合、杏奈にも青い瞳という西洋人的な要素はあるのですが、それは彼女自身にとっては「普通に生きる」ことを妨げるだけで、プラスの要素と見なされてはいません。
彼女の「普通になりたい」という願望、裏を返せば今が「普通でない」という思いは原作に由来しているようですが、ここでもプラスになり得るものがマイナスに転じるという形で、白人コンプレックスがさらに屈折した形で編み込まれて活用されているように思われます。

日本語において「日本人離れした」というのが褒め言葉になるという、他の国ではあまり見られない現象、そんな「日本人離れした」、つまり西洋人風の女性を求めた谷崎潤一郎らの屈折した美意識については、谷川渥氏が「『日本人離れ』の美学――『他者』としての肉体」(『肉体の迷宮』所収)で論じていました。
アニメ・漫画・ライトノベルでも、金髪碧眼の美少女は人気の備えです。もちろん黒髪の日本人少女に人気がないわけではありませんが、日本人以外の有色人種は稀です(漫画チックな絵だとそもそも、黒人を描いてもカリカチュア的になるか、さもなくば色が黒いだけで黒人らしく見えないことが多い――誰が描いてもとは言わないまでも――という問題もありますが、それはひとまず措きます)。

別に私は「コンプレックス」という言葉を悪い意味で使い「払拭すべし」と主張しているのではありません。
これもごく自然と演出に組み込めるくらいに定着した日本的美意識の一種だと言っているだけです。

そういう意識があるのなら好むと好まざるとに関わらず付き合っていかねばなりませんし、作家がそれを活用するのは当然のことです。

「侘び寂び」とか西洋人に対して自慢できそうなものだけを「日本的美意識」と主張して、こういうことから目を逸らすのはフェアではありません。


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(2013/05/08)
谷川 渥

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ちなみに、小説『思い出のマーニー』は最近新訳が複数出ているようですが、英語の原作も来年新版が出る予定と知り、また驚きました(Kindle版はもう出ているようですが、紙の版で既成のものは見当たらず…)。

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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