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「ぼっち」は「ラノベ」のキーワードか――『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』

特定のジャンルの本を読む気になる時にはどんどん読む気になるけれど、その気にならない時にはとことんならない、私はそういうところがあります。
紀要に掲載する論文の査読結果が出て、どう修正すべきかも決まった、そういうことも気分に影響しているようです(論文の修正作業をすぐに始めたわけでないとしても)。

で、新書はぽつぽつ買って拾い読みしているものの、読了したのは久しぶりです。
しかもこの本、1年以上前の発売で、発売されてすぐに買っていた覚えはあるのですが……

ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア (講談社現代新書)ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア (講談社現代新書)
(2013/06/18)
波戸岡 景太

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本書は文学者(専門は現代アメリカ文学)による初心者向けのライトノベル論のようです。
ひとまず、目次を見てみましょう。

序章 ラノベを知らない大人たちへ

 ラノベという名の「断絶」/ラノベがあぶりだす旧世代のノスタルジア/ラノベを知らない大人たちへ

第一章 ポップかライトか

 「正しい軽さ」と「正しくない軽さ」/平成に生きる「のび太」たち/オタクと「大衆」/「大衆」に対する醒めた視線――『僕は友達が少ない』

第二章 ジャパニーズ・ポップの隆盛と終焉

 ライトとポップの連続性/村上龍とジャパニーズ・ポップ(一九七〇-八〇年代)/ジャパニーズ・ポップのその後(一九八〇-九〇年代)/「おじさん」の世代交代

第三章 オタクと台頭と撤退

 村上龍と村上隆(一九九〇-二〇〇〇年代)/バブル世代の「ぼっち」――穂村弘のポップ/未来への期待と過去への郷愁をともに封じられた世代/バブル末期世代の「無傷の素敵さ」/かつてのオタク、現在はフツー

第四章 「ぼっち」はひきこもらない

 「ひきこもり世代のトップランナー」滝本竜彦/「ぼっち」なヒロイン――『涼宮ハルヒの憂鬱』/「ぼっち」なヒロインの臨界点――『羽月莉音の帝国』/「ぼっち」なヒーローの苦悩

第五章 震災と冷戦

 ノスタルジアとしての中学生/「わりと平穏な時代」/戦後ではなく冷戦/敗戦国はあっても戦勝国はない

第六章 ポスト冷戦下の小説と労働

 メタファーとしての一九八〇年代――『1Q84』/村上春樹の「やれやれ」/「雪かき」としての「物かき」/労働ではなく趣味で書く

第七章 ラノベのなかの「個」

 労働と学生――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』/労働者なき階級闘争/変化を望まない「若者」たち/ノスタルジアとノストフォビア

終章 現代日本というノスタルジアの果て

 時間の不可逆性と回帰性/前近代というノスタルジア/寺山と啄木の「望郷の歌」/W村上の「家出のすすめ」/消える家、崩れる家――『変態王子と笑わない猫。』/思い出のない人間の思い入れほど、残酷なものはない

 参考文献

あとがき ラノベを知らない子どもたちへ


というわけで、本作はもっぱら2000年代以降の「ラノベ」(※)に焦点を当て、20世紀の芸術文化と対比し、1970年代からの現代史の中に位置付けているのが特徴です(「断絶」と言っているくらいなので、20世紀とは違うという対照の方が目立つでしょうか)。
文化史を見る上で大きな参照軸となっているのは、村上龍・村上隆・村上春樹です。この三者の内で、前二者はラノベと対比されるのに対し、春樹は第六章などで、(本書の観点からすると)ラノベに近い側として扱われている感じですね。

※ 普段の私は正式に「ライトノベル」と書いていますが、今回は本書中の表記に合わせましょう。

書名のサブタイトルには「ポップ/ぼっち/ノスタルジア」と三つのキーワードがありますが、この内で「ポップ」は第二章で「隆盛と終焉」が扱われているくらいで、'90年代までのものとして扱われ、ラノベの「ライト」さとは対置されます。
大衆文化たる「ポップ」に対して、ラノベの「ぼっち」は孤独であり、大衆を忌避し、敵視する、というのです。
そしてまた、ぼっちたちには「オタク的な自己卑下」もなく、「オタク」とラノベに描かれる若者のメンタリティの間にも断絶が認められます(ここで『オタクはすでに死んでいる』という岡田斗司夫の言葉も引用されます)。
というわけで「ぼっち」こそがラノベ固有のキータームとなります。

「ノスタルジア」は中盤から後半にかけて何度か出てくる概念で、むしろ著者固有の批評の枠組みを作っている概念と思われます。
変化を振り返って「昔は良かった」というノスタルジアに対し、ラノベの「ぼっち」たちは変化を忌避し、変わらずに留まろうとするしたり、また過去を(「黒歴史」として)葬ろうとしたりする所作が見られますが、そこにもノスタルジアがないわけではない――ということで、ラノベにおけるノスタルジアの位置付けについては一義的ではありません。

というわけで、細かく年代を区切った歴史観に関しては、なかなか注目すべきものがあるでしょう。
『ぼっちーズ』(入間人間)や『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』(渡航)でいわゆる「ぼっち」である語り手が自分を(『ドラえもん』の)「のび太」に比しているのを引きながらも、以下のように論じる箇所など、優れて明快な図式です。

(……)昭和版のび太は、誰の目にも「落ちこぼれ」と映ったからこそ、大衆に愛された。だが、ラノベ世代の「ぼっち」は、そうした憐れみにも似た、大衆の眼差しそのものを敵視するのである。
 (波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』、講談社、2013、p.33)


しかし、個々の作品分析に関しては、かなりの疑問を感じました。

まあそもそも、本書は「ラノベを知らない大人たち」、「ラノベを読まない(あるいは読みたくない)『大人』」(同書、p.15)のために書かれたという入門書です。そもそも私は読者として合わないという面はあるでしょう。
冒頭で掲げられる、そうした「ラノベを読まない(あるいは読みたくない)『大人』」の思いと、そうした「大人」の一人としての著者の問題意識からして、私にはあまり共有できないのです。

 だが一方で、昭和生まれの世代のほとんどにとって、ラノベはある日突然に降ってわいた「よく分からないジャンル」である。(……)
 確かに、ラノベの音訳は世界各国で盛んだ。ラノベの特徴である、登場人物たちをアニメキャラクターのように描いたイラストの存在も、その勢いを後押ししている。それでも、セリフを訳したり吹き替えたりするだけで視覚情報そのものはダイレクトに伝えられるマンガやアニメと異なり、小説の翻訳というものは、内容いかんにかかわらず、いつでも作り手と受け手の双方に負担を強いる。ましてや、ラノベのテキストに書き込まれているのは、日本の中高生がちょっとだけ背伸びしてほくそ笑みたくなるようなスラングであり、世界観である。「ぼっち」、「ジト目」、「リア充爆発しろ」……。職業柄、日常的に日本やアメリカの若者スラングに触れている私であっても、正直、これらをどう翻訳してよいものやら見当もつかない。「マジでハンパない」を略した「まじぱない」という言葉など、初めて目にしたときはイントネーションすら想像できなかった。
 (同書、pp.8-9)


中国語に訳されているラノベの作品数は膨大で、おそらく韓国語もかなりあるはずですが、英訳作品となると管見に入る限りで両手の指が必要かどうか、フランス語など片手の指で数えられる程度、ドイツ語となると一つも思い当たらないのが「世界各国で盛ん」と言えるのかどうかも大いに疑問ですが、それはひとまず措くとしまして――

著者は、そうした若者のスラングに対し「『恐れ』にも似た拒絶反応」を起こす大人の心理を、有川浩『フリーター、家を買う。』の工事現場作業員の「俺らの知らねえコトバ」だから「それは俺には関係世界の話だって見ないようにして生きてくしかねえんだよ」という台詞を引いて説明しています(同書、pp.12-13)。

しかし、私も昭和生まれで、かつては「ラノベを読まない(あるいは読みたくない)『大人』」の一人だったという著者と6歳しか違いません。
ライトノベルの変遷をずっと追い続けてきたわけでもなく、『涼宮ハルヒの憂鬱』(2003年)は発売から数年以内(それでも遅い!)に読んだ覚えはありますが、他はほとんど読んでいませんでした。コンスタントにラノベを読むようになったのは『僕は友達が少ない』以降、ここ4~5年のことでしょう(ブログ記事も、その頃から徐々にラノベ感想の比重が増えてきます)。
まあ、「ネットやブログ」も分からない『フリーター、家を買う。』の工事現場作業員に比べればインターネットは多用していますし、ネットスラングも相当数目にしてきたとは思います。それでも、見たことのないスラングくらいいくらでも出会います。
けれど、それはネタが通じるかどうか、引いては作品が気に入るかどうかには影響しますが、それで読めないほど困りはしませんでした。

一つには、私は語学マニアですから、「俺らの知らねえコトバ」を目にして文脈からその使い方を判断するのは常態なのです。それを恐れてはいられません。むしろ、母語である分だけ楽なものです(その代わり辞書には載っていませんが、ネットで調べることはもちろんできます)。
もちろん、外国語ができなければラノベを読めないという話もありますまいから、私の方がレアケースでしょう。
ただ少なくとも、私は最初から読者として外れていた感はあるのです。

さらに、書評集だけで1冊の本になることは比較的稀で、1冊の本にするからには個々の作品に寄り添った分析をただ集めるのではなく、全体を貫く筋が求められます。そのために取捨選択し、作品の特定の面だけを論じる必要がある、ということも小さくないでしょう。
しかし、非ラノベ読者向けの入門書であり、現代史という筋に合わせての取捨選択があることを鑑みてもなお、気にかかることはあるのです。

たとえば、以下のような記述。

(……)『涼宮ハルヒの憂鬱』の語り手キョンは、アメリカ発・日本産であるところの「アニメ的特撮的マンガ的物語」を早々に卒業し、二十一世紀の日本に開ける「フツーな世界」にけだるく順応しようとしている、非オタク系の青年であることが分かるだろう。
 (同書、p.73)


『涼宮ハルヒ』読者にとっては言うまでもなく、キョンは現実に退屈し、「アニメ的特撮的マンガ的」存在との出会いを(理性では無いと知りつつ)願望し続けてきた少年で、その点において深いところでハルヒに共感して惹かれ、宇宙人・未来人・超能力者とハルヒの能力が関わる騒動も「思ってたのと違う」と感じてつつもどこかで楽しんでいます。
もちろん、他方でそうした願望を公言しあい分別を身に付けたキョンと、「ただの人間には興味ありません」と宣言してしまうハルヒの間には大きな温度差があり、それがキョンが振り回されて「やれやれ」とぼやく理由です。
だから、そのどちらを強調するかは視点の違いであって、正解不正解の問題ではない、とも言えるでしょう。
『憂鬱』の終盤で、ハルヒとキョンが二人閉鎖空間に閉じ込められた時の会話を引いて、

(……)このとき、キョンの口をつく「腹が減っても飯食う場所がなさそうだぜ」という物言いは、まさに東浩紀の言う「ファミレスやコンビニやラブホテル」から成る都市風景を前提とするものであり、あるいは穂村弘や村上隆が言うところの「末期的日本人」にとっての「そこそこな喜び」を代弁するものであった。しかし、そうしたキョンに対して、ハルヒは「全然そのことは気にならない」と、彼の不安を一蹴してしまう。
 フツーの世界よりも、アニメ的特撮的マンガ的物語の世界よりも、闇に包まれた閉鎖空間の方が、ずっと現実的で楽しいと感じられる感性が、ハルヒをして、ラノベならではの「ぼっち」なヒロインの原型たらしめているのだ。
 (同書、p.87)


と分析するのは、筋は通っています。
しかし、入門書であればこそ、いっそう基本的なのはハルヒとキョンの温度差よりもまず共鳴ではないか、という思いも拭えません。
そこを飛ばした上で、少し後の決めのところで「俺、ポニテ萌えなんだ」なんて実生活では(こと、相手の女性の髪型がポニーテールがいいい、と言う意味では)決して言いそうにない台詞を吐くキョンを「非オタク系の青年」と形容してしまうのは、やはり違和感があります。
(キョンの趣味については存外語られないことが、「キョンがどこまでオタクなのか」を語りにくくしている要因の一つかも知れませんが。ついでにSFを読んでいないと言いつつ『涼宮ハルヒ』の地の文にはしばしばSFネタがあるのも謎の一つです)

ついでに言うと、『涼宮ハルヒ』の作中では強調されず、後に成立した「ぼっち」なヒロインというカテゴリーを回顧的にハルヒに当て嵌めることへの疑問もあります。
これは単に解釈上のテクニカルな問題ではありません。「ぼっち」である自分へのある種のコンプレックスと屈折した自負を持っている「ぼっち」キャラクターたちに対し、ハルヒにはそういう方面の自意識はあまり見られません。同じ次元の実存的意識が描かれているとは言えないのです。
ラノベにおける「ぼっち」という概念には、そうした「ぼっちである自分についての自意識」が少なからず含まれているというのが、私が用例を読んでいて感じることです。

ましてその後、『羽月莉音の帝国』も同列上で解釈し、「『現代日本』に辟易した若者たちに見出された、可能性としての『個』の在り方」(同書、p.91)を読むのは、(もはや「一面的ではあるが間違ってはいない」のではなく)完全な見当違いとしか思えません。
似ているのはキャラクター像と物語開始時点でのフォーマットといった“外箱”だけでしょう。政治経済こそを主題とした作品を「個」の問題に矮小化するのは不当です。

これはやはり、「ぼっち」をラノベ全般を貫くキー概念として読もうという読み筋が強引すぎることによる歪曲ではないでしょうか。


著者は『東京新聞』で「ラノベのすゝめ――コンテンツ批評」という書評も書いていますが、それを読んでいてもどうも引っ掛かる点があります。
たとえば、川岸殴魚『人生』を扱った書評の以下の記述。

 個性的な相談員なのに、互いの存在が障害となり個性を光らせられないヒロインたち。
 (「バッサリ解けない人生相談」、『東京新聞』2014年7月29日)


著者が「個性を光らせ」るということで何を意図しているのかにもよりますが、お互いに衝突することで互いのキャラを引き立たせる掛け合い漫才がメインである作品をこう評して、作品の何を伝えたことになるのか、私には分かりません。

言っては悪いのですが、こと個々の作品読解に関しては、「『アニメ的特撮的マンガ的物語』を『卒業した』と言っているんだから卒業したのだ」、「互いに意見が対立しているんだから相容れない」、「キャラやキャラ同誌の関係の構図が似ているから主題も同様」といった皮相な読みが目立つように思えてなりません。
言うなれば、ツンデレヒロインが「あんたのことなんか全然好きじゃないんだから」と言うので「じゃあ好きじゃないんだろう」と判断するような……

もちろん、著者にはもっと深い考えがあって、結果的にこのような読み筋になっているのかも知れませんが、私に読み取れた限りでは、あまり納得できる読み筋が摑めないことが多かったのです。

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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