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ライトノベルの潮流について・雑録

そう言えば、『仮面ライダー鎧武』最終話のことには触れないまま新番組『仮面ライダードライブ』の話に入ってしまいましたが、『鎧武』最終回は大筋において予想された通りでした。
敵の残党として登場したのは劇場版の敵・コウガネでした。最終話の脚本が劇場版の脚本を担当した鋼屋ジン氏である理由も分かりました。劇場版を本編とパラレルにしないでおいたのも功を奏した感じです。
劇場版のサッカー世界の記憶をはっきり持っているのはやはり紘汰だけらしいのですが、相手のことは記憶になくとも、ヒーローらしく立ち向かう光実。けれども力及ばず絶体絶命というところで、紘汰が帰ってきます。
とは言え、本当にコウガネを倒すために戻ってきただけらしく、再び紘汰が地球に住めるように……という展開にはなりません。

ちなみに、「ドライブ」との共演もなし。正当派のエピローグとなっています。

冬の映画(MOVIE大戦)では、異星に移住した紘汰と舞たちのその後が描かれるようですが……それもまた楽しみなことではあります。
紘汰はやはりあの、白髪に白鎧の超越者としての姿で登場するのでしょうか。

 ~~~

前回の『ラノベのなかの現代日本』の話に少し補足をしつつ、同書のレビューに留まらずにもうちょっと色々論じてみようかと思います。
そもそもこの書はSF・ファンタジー作品を取り上げる比率が低く、あるとしてもほとんど『涼宮ハルヒ』のように現代日本での学校生活をベースにしたものだけです。
タイトルからして「ラノベの全て」ではなく「ラノベのなかの現代日本」である以上、作中で「現代日本」が描かれている作品に絞るのは自然なことで、悪いわけではありません(「ラノベ」とはこればかりではない、という但し書きはあってもいい気はしますが)。

ただ、SF・ファンタジー作品には作中固有の用語が多く登場します。
もちろん、作品の外のどこを探しても説明のないオリジナル用語だからこそ、作中で説明があるのが普通ですが、まさに「そういうものが自然な世界」であることを示すため、説明は最小限にして当然のようにそれについて語っていく、という技法もあります。そして説明があっても、漢字にカタカナルビを振った用語をあまりに多用されると引っ掛かったりもします。
他方で、現実に存在する言葉(スラング)であっても、「リア充」のような言葉に説明を加えている作品もあるわけです。
こう考えても、――外国語学習者目線が入る私の方がレアケースとは知りつつ――「見知らぬ言葉で書かれているからついて行けない」という図式は(少なくとも、現代日本を舞台にした作品のみで考える場合よりは)緩和の余地があるのではないか、と思ってしまったりするのです。


それから、今度は波戸岡氏がキーワードとする「ぼっち」の問題に移ると、以下のような論がありました。

 村上龍と異なり、渡〔航〕の描く二〇一〇年代の「ぼっち」は、「変化すること」の意味を、「若者と変化」や「進歩と変化」という組み合わせの中で考えようとはしない。そもそも、ライトノベルの世界にあって、いつまでも変わらないでいることは主要はテーマであった。青少年はすべからく変化すべしという「大人」の側の教えを金科玉条とした、従来のジュブナイル小説とも異なるラノベは、九〇年代より、同時代の社会学者である宮台真司がいうところの「終わりなき日常」を地で行く物語を好み、それを量産してきた。
 だが一方で、ハルヒ以後のラノベには、「終わりなき日常」がいつか終わるということを意識した「ぼっち」たちが溢れるようになった。「自分が変わらずにいても、世界は、周囲は変わっていく」という八幡青年の感覚は、まさにその「ぼっち」的日常の不安定さを物語っている。
 (波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』、講談社、2013、pp.138-139)


ここでも私などは、「日常も変化し、終わる」という感覚と「ぼっち」との結び付きはかくも当然のものなのだろうか、という疑問を抱いてしまいます。
当然、両者の結び付きが緩いように思われる作品を挙げることも可能なのですが、ただ、マイナーどころを探せば例外も見付かるのは当然です。
少なくとも、本書も当然論評している「ぼっち」系の代表作――『僕は友達が少ない』と『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』の両方に両者のセットが見られる以上、この組み合わせを一つの潮流と見て良いのではないか、と言われると、反論は容易ではありません。

ただ一つ、ラノベ読者や学徒たる以前にテキスト解釈者として感じるのは、波戸岡氏と私とでは「ぼっち」という言葉に読み取る含意が大きく異なっているらしい、ということです。
この件に関しては、今のところはこれ以上立ち入りません。よって「ぼっち」の話題はここまで。

そもそも、「日常系」という語は一方では、『けいおん!』のような作品の、青春の特徴とされてきた恋愛や達成や挫折に関わるドラマのない、緩やかな日常を描く様を指して使われたものでした。
しかし、同じ「日常系」と言っても、ライトノベルでは男主人公と恋愛要素のないものは主流にはなりませんでした。同じ名前で呼ばれていても内実はイコールでなく、それでいてジャンルの垣根を越えた影響関係もあり得ます。

ライトノベル史をあまり遡って実証することは現在の私の任には耐えませんが、そもそもライトノベルにおける「日常系」が大きな潮流となったのは近年(やはり『僕は友達が少ない』辺りを転機に)のことではないか、という説もあります。
昔からライトノベルは「『終わりなき日常』を地で行く物語を好み、それを量産してきた」が、ハルヒ以降にそれも変化した、という流れを、しかもライトノベルの中でのみ語ってしまうことに、疑問はあります。

それでも、近年のライトノベルの「日常系」作品は、「日常」も変わらず永遠に続くものではなく、自ずから――良きにつけ悪しきにつけ――変化するものだということを描く傾向が見られるのは事実です。
それに関しては、一つ思い当たることがあります。

漫画においては、季節が何度巡っても登場人物は歳を取らず進級しない、俗に「サザエさん時空」と呼ばれる形態の作品が多々ありますが、ライトノベルではほとんどそういう例に心当たりがない、ということです。
この大きな原因は、漫画は雑誌連載されるのに対してライトノベルは単行本書き下ろしである、ということいあるように思われます。
雑誌というのはまさに発売時期に読まれることを想定したもので、だから連載作品も現実の季節を追って、季節のイベントを盛り込みがちです。それに対して、たとえコンスタントな刊行が要求されていても、単行本はそこまで発売時期と内容との強い結び付きを要求しません。
結果としてライトノベルでは、作中の時期――主要人物が学生なら、それはまずは○年生の何月、という形になります――を一貫した時系列の上に位置付けることが優先されるのではないでしょうか。

もちろん、当の『サザエさん』だって、現実の日本社会の変化を反映しており、それにより磯野家の生活も変わらないわけにはいきません。『サザエさん』に見る世相や生活様式の変化が一つの研究主題にも資料にもなるくらいです。
逆に、「サザエさん時空」でなく主人公たちが進級しても、その日常が基本的には変化しないことも可能です。

ただ、少なくとも学生生活は卒業したら終わりなわけで(卒業後もそれぞれの生き方が本質的には変わらないとしても、各自を取り巻く状況は変わらざるを得ません)、そのリミットをいくらでも先送りにして無限に同じ学年を繰り返せると考えるか、「いずれリミットが来る」と考えるかは、その道行きにも影響を与えないわけにはいかないでしょう。
「サザエさん時空」の作品も、最後に進級・卒業することはありますが、そのことに対する自覚について大きな差が出てくる、というわけです。

ライトノベルの刊行形態という下地――それが全てとは言いませんが、「日常は変化し、終わる」という感覚に対しても少なからず影響しているように思われるのです。


さらに波戸岡氏の著作からは離れますが、波戸岡氏は触れていないものの最近の一代潮流として、オンラインゲーム物があります。
現実世界とゲーム世界のどちらに重点を置くかがまず大きな分かれ目となり、「オンラインゲームをキーとしたゲームプレイヤーたちの日常生活」を描くものから、完全にゲームの世界に閉じ込められ(従って、登場人物たちにとってはゲームの世界が現実そのものになる)その世界での冒険を描くものまで、様々です(もちろん中間もあります)。
ゲームだと明言はしていなくともゲーム的世界観のSF・ファンタジーも、後者に近いと言えるでしょう。

前者の場合、オンラインゲームは現代生活を象徴するギミックの一つだと見て良いでしょう(多少、単純化が過ぎるかも知れませんが)。
しかし後者の場合、内容的にはかなり普通の「ファンタジー世界の冒険」に近くなってしまいがちです。

かれこれ10年前、オンラインではなくプレイヤーが一人のゲームから生まれた「ゲーム的想像力」(東浩紀)の傑作の一つ『All You Need Is Kill』は、ゲームのリセットに相当するタイムループの繰り返しを通してまさしくリセット不可能なもの描きました。すなわち、ゲーム的世界観を通して、もっともゲーム的でなく、ゲームの内に回収できない現実(プレイヤーの生、と呼んでいいでしょう)を浮き彫りにしたのです。
別に、現実がゲームでないことを描くのがゲーム的世界観の唯一の目的だ等と偏狭なことは、決して言いません。
ただ、「ゲーム的世界観であってこそ描けるもの」は何か、という話です。

もっとも、オンラインゲーム物の場合、私がこの点についてあまり多くを見いだせていないのは、単にオンラインゲーム物を読んだ点数が足りず、代表的作品からも遠いままであるせいである可能性も高いでしょう。
この問題についてはまた追い追い考えていくことにしましょう。

ただ、ゲーム的世界観がもっぱら「能力やパラメータを可視化できる」といった便利さのためにしか使われていないように見えるケースを見ると、少し寂しいのですが……

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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