オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
桃太郎ネタを巡るいくらかの話
しかし、私の申請分野の結果(今年の場合)を見ると、申請者総数の内、
採用予定者 20%
面接候補者 5%
不採用者 75%
くらいになっています。
全部足すと申請者総数になっているということは、「採用予定者」と「面接候補者」は別、したがって前者は面接無しで通過ということになります。
つまり「面接候補」はボーダーライン上ということなのか……
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『轟轟戦隊ボウケンジャー』(2006年放送)の第36話に、桃太郎の登場するエピソードがありました。
ボウケンジャーの目的は敵組織を倒すことではなく、古代文明の遺産である「プレシャス」を探索・確保することで、プレシャスを巡って複数の敵組織と争うことになります。
第36話のプレシャスは「山砕きの金棒」であり、その金棒を盗む「鬼」を討伐するために山から送り込まれるのが「桃太郎」でした。
桃太郎の入った桃を拾ってしまったのはボウケンレッド・明石暁とボウケンシルバー・高丘映士。映士が「おじいさん」で暁が「おばあさん」と呼ばれることになります。
赤ん坊から少年の姿に急成長するものの、「鬼と戦うのは怖い」という桃太郎(第一、この度の「鬼」はボウケンジャーの敵であるクエスターで、金棒がなくても強大な力の持ち主です)が勇気を見せる物語は、少年の成長を描いた王道でした。
映士はボウケンジャーの仲間たちを犬・猿・雉ときびだんごに指名、そして「今回はおじいさんとおばあさんもお供する。時代が変わったんだ」と言い放ちます。
ボウケンジャーとしては、他のメンバーがお供なら暁と映士も同行するのが当然ですが、それ以前に育ての親として、子供を一人で危険な戦いに送り出すわけには行かないというのがあったでしょう。
「桃太郎」という童話は英雄物語の一番核の部分だけを伝えていますから、余計な要素はカットされていますし、まして登場人物の心境などという近代的な事柄は問題にすらなり得ません。
しかし、現代の私たちが「桃太郎」を現代的にリライトしようと思えば、戦いに赴く桃太郎の心理や、さらには子供を戦いに送り出すお爺さんとお婆さんの想いを問わないわけにはいかないでしょう。
――人ならざる生まれの桃太郎は、人の世に受け入れられるためには鬼退治という相応の実績を示す必要があったのかも知れません。
――あるいは人里を追われて、やむを得ず出て行った先が鬼退治の度だったのかも……
桃太郎を英雄たらしめる第一のポイントは「桃から生まれた」という特殊な出生ですが、(善良な)人間であるお爺さんとお婆さんに育てられなければ、彼は人間の味方にはなっていなかったかも知れません。
川の上流から流れてきた桃太郎は、海の向こうの鬼ヶ島に鬼退治に出かける。海をそのまま流れていけば、やはり桃太郎は鬼ヶ島にたどりついたであろうし、桃太郎も鬼も同質の異界の者である。かれが犬やキジと会話が交わせるのは、犬やキジが特殊なのではなく、鬼の仲間としての彼の特殊能力なのである。しかし、桃太郎は川を流れていく途上で、おばあさんに拾われたことで人間の一員となり、鬼の仲間ではなくて敵対者となる。
(白倉伸一郎『ヒーローと正義』、子どもの未来社、2004、p.184)
だから、お爺さんとお婆さんの存在はやはり重要です。
さて、先日紹介したライトノベル『CtG ―ゼロから育てる電脳少女―』のあとがきに、この作品の当初の構想は「『桃太郎』で桃とお婆さんが修羅場になる」というネタから発生したものである旨が描かれていました。
つまり、ゲームの世界からこの世に生まれてきた少女ハルハはまさしく「桃太郎」だったわけです。
終盤に彼女が戦うことになるのも、そこから理解できます。
敵も、上述のような意味でのハルハとの同質性を備えた存在でした。
もちろん、こちらの「お爺さん」たちも(上のノートからすると、ハルハの親たる美遙は「桃」なのかも知れませんが)、子供を危険な戦いに送り込んで自分たちは見ているだけ、という立場に甘んじることができるはずはありません。
それは確かに親子の関係というものを問い質す一つの場面ではあります。
また、桃太郎という「特別な生まれ」の存在だからといって戦わなければいけないという運命は当然でもないし、戦えるとも限らないという話になれば(この要素は上述の『ボウケンジャー』にもありました)、それは英雄の立場を問い直すにも十分な力を持ちます。
ただ、『CtG』に関しては、それでもなおテーマ的な相応しさに関して疑問を感じる部分はありました。
ハルハは無邪気で、その分両親や、自分と両親との楽しい時間を害するものには攻撃を躊躇わないといった、倫理面ではまだきわめて未成熟なところを見せていました。
そんな子供を「戦って敵を倒して当然の世界」に送り込むことの問題は、親が加勢したからといって払拭されるものではありません。
つまるところ、問題はゲームの倫理と現実の倫理の違いです。たとえばゲームをクリアする時にはいちいちNPCの命のことまで気に懸けないのが普通ですが、現実ではそういうわけには行きません。
この問題を「ゲームの世界では壺は割るもの」といったありがちネタに縮小してしまうのは、物足りなく思います。
そういう意味でも、クライマックスに戦いを持ってくるのが相応しかったのか、と思ってしまうのです。
まあ、この作品はまだまだ続きがあるはずなので、ハルハの倫理面での成長とそれを巡る親の悩みは次巻以降に期待しましょう。
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