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一体いかなる方向で「キャラを立てる」のか

今日はあまり時間もないので簡潔に行きますが、先だって『姑獲鳥の夏』の話をしたので、それに関連して少々。
本作における「エキセントリックで強烈なキャラ」である京極堂や榎木津と、深い狂気を孕んだ凡人である関口の差異、そして物語の要もその描き分けにこそあることは、「まともでない/エキセントリック/キャラ立ち」の記事で論じました。

もちろん、表面的なエキセントリックさと深い内面性は決して相反するものではなく、両方を備えることも可能です。

人格の深みと「キャラ」の関係に関しては、過去にキャラ(クター)に関して論じた何本かの記事で色々論じた覚えがありますし、今回長々と繰り返すことはしません。この問題のまとめはまたの機会に。
もしかするとブログの外、実生活の方でこの問題を発表する機会があるかも知れないので、それが実現した際にはまたここにも報告を考えましょう。

さて、『姑獲鳥の夏』による京極夏彦氏のデビューはメフィスト賞創設のきっかけとなったので、京極氏は「第0代メフィスト賞作家」と言われることもあります。
この賞のその後の展開を語るほどに私はメフィスト賞作家を読んではいません。
ただ、良きにつけ悪しきにつけ、清涼院流水氏の登場が残している印象があります。

清涼院氏は、それぞれに(必殺技のような)固有の推理、奇抜な名前etc...の濃厚なキャラ付けを備えた多数の「探偵」が登場する『JDCシリーズ』でデビューしました。
斎藤環氏の『キャラクター精神分析』でも、まさに「キャラクター」という面からエポックメイキングな存在として論じられていました。
ただ私としては、このシリーズが「キャラが魅力」「キャラ人気」と言われるのを見ると、「はて、キャラ立ちとはそういうものだろうか」という疑問があったのも事実です。
今にして思えば、これも上述の区別の問題であって、「キャラ立ち」があまりにも「エキセントリックさ」の方に偏していることへの違和感だったように思います。

エキセントリックさと、人生や生活感の奥行きを備えた人格性と――京極氏の作品は両方について大きな可能性を持っていたのですが、その後、その内の前者のみをもっぱら汲み取った潮流が生じたのではないかということは、時に感じます(私がそれを検証できるほどに関わりのある作品を読んでいないのが難ですが)。

もちろん、割り切ってそれを作風として、魅力あるものを作れるのであれば、悪いことはないのですが。

他方で、後者の奥行きある人格性の方を描きたいのに、「キャラを立てる」道具立てとしてはエキセントリックさの方に頼っているがゆえに、求める味わいが出ず、さりとてエキセントリックな方に振り切ることもできず、何とも物足りない、一応に各登場人物に固有の特徴を持たせて描き分けてはいるもののキャラが立たない――そういう作家もいます。
私の見たところ、どうも扇智史氏(作品に『最終戦争は二学期をもって終了しました』『再生のための創形魔術』等)がそういう難を抱えているように感じられます。

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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