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改めて『絡新婦の理』

京極夏彦氏の『絡新婦の理(じょろうぐものことわり)は、実家に置いてありますが、ほとんど実家に帰る度に再読してしまう本の一つです。
私がこの「百鬼夜行シリーズ」を知った時には『絡新婦の理』の前の『鉄鼠の檻』までしか出ていなかった記憶がありますから(当時私は中学生)、初出時にリアルタイムで読んで以来18年余りになります。

お陰で、読み潰されて真っ二つになっています。
背表紙の外側に貼ったテープでくっ付いてるだけです。

絡新婦の理

「百鬼夜行シリーズ」については随所に触れてきた他、コミカライズに関してはずっと追ってきましたが、どうしもコミカライズについて語ると原作の再現度や質の高さに話が行きがちで、作品の全体についてはあまり触れない傾向がありました。
この際、今更ながらこの作品について語っておこうかと思ったわけです。

絡新婦の理 (講談社ノベルス)絡新婦の理 (講談社ノベルス)
(1996/11/05)
京極 夏彦

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上↑が最初の版、下↓が文庫版。
文庫版 絡新婦の理 (講談社文庫)文庫版 絡新婦の理 (講談社文庫)
(2002/09/05)
京極 夏彦

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さらに、なにぶん講談社ノベルズ版で800ページ超えの分厚い本なので、4分冊の文庫版も出ています。
分冊文庫版 絡新婦の理(一) (講談社文庫)分冊文庫版 絡新婦の理(一) (講談社文庫)
(2006/01/13)
京極 夏彦

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分冊文庫版 絡新婦の理(二) (講談社文庫)分冊文庫版 絡新婦の理(二) (講談社文庫)
(2006/01/13)
京極 夏彦

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分冊文庫版 絡新婦の理 (三) (講談社文庫)分冊文庫版 絡新婦の理 (三) (講談社文庫)
(2006/02/16)
京極 夏彦

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分冊文庫版 絡新婦の理 (四) (講談社文庫)分冊文庫版 絡新婦の理 (四) (講談社文庫)
(2006/02/16)
京極 夏彦

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さらにこらち↓が電子書籍版。
絡新婦の理(1)【電子百鬼夜行】絡新婦の理(1)【電子百鬼夜行】
(2012/09/28)
京極夏彦

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絡新婦の理(2)【電子百鬼夜行】絡新婦の理(2)【電子百鬼夜行】
(2012/09/28)
京極夏彦

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絡新婦の理(3)【電子百鬼夜行】絡新婦の理(3)【電子百鬼夜行】
(2012/09/28)
京極夏彦

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絡新婦の理(4)【電子百鬼夜行】絡新婦の理(4)【電子百鬼夜行】
(2012/09/28)
京極夏彦

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本作は『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』『狂骨の夢』『鉄鼠の檻』に続くシリーズ第5作です。
シリーズ過去作品のネタバレはそれほどありませんが、順に読む方がお勧めかと思われます。

舞台は昭和28年の日本。
本作で起こる事件の構造は非情に複雑ですが、語りとしては四人の視点人物のパートが交互に来る構成になっています。一人称の語り手である関口巽はエピローグまで出てきません。

● 東京警視庁の刑事・木場修太郎(きば しゅうたろう)のパート。女性の目を鑿状の凶器で突き刺して殺す「目潰し魔」による連続殺人を追っています。
物語開始時点で被害者はすでに四人目。犯人は指名手配中で、何も難しいことはないかと思いきや、現場にいたのは手配中の容疑者とは別の人物で、しかもそれは木場の友人である川島新造(かわしま しんぞう)らしいという話に……
● 千葉の女子校・聖ベルナール女学院を舞台にした、女子中学生・呉美由紀(くれ みゆき)のパート。上述の「目潰し魔」の三人目の被害者はこの学校の教師だったこともあり、その教師は呪いによって殺されたのだ、という噂が学内に流れていました。そして、それと関連して、女生徒たちの売春の噂も……
教師に陵辱されて泣き寝入りしている友人が「呪い」に興味を持ったことから美由紀は不穏な連中に関わり、そして目の前で殺人事件が起こるに至ります。
● 釣り堀屋・伊佐間一成(いさま かずなり)――『狂骨の夢』の主役の一人――のパート。千葉でぶらりと釣りの旅に来ていた彼は、ひょんなことから土地の資産家・織作(おりさく)家に関わります。
織作家は上述の聖ベルナール女学院の経営者でもあり、当然彼も事件に関わることに。
● 前作『鉄鼠の檻』で登場した元刑事・益田龍一(ますだ りゅういち)のパート。彼は前作の事件がきっかけで刑事を辞め、探偵・榎木津礼二郎に弟子入りすることを決めました。
が、彼が探偵助手として最初に受けた人捜しの依頼は目潰し魔事件に関わっており、さらに探偵事務所に持ち込まれたもう一つの依頼を介して聖ベルナール女学院の事件にも関わることになります。

というわけで、主立った刑事事件は木場パートの目潰し魔と美由紀パートの学院における売春・殺人の二件。
一見すると別々の事件ですが、しかしこれらは平行する横糸のように一つのもっと大きな事件を織り成しており一つ事件の真相を解明すると別の事件に繋がる眺望が開けてくる、という構造になっています。
全ての中心には、――蜘蛛の巣の中心に蜘蛛がいるように――事件全体を計画した真犯人がいます。
一つ一つの事件もシンプルながらミステリとしての完成度は高く、一つ解決すると次のステージに、という弁証法的な構成は見事の一言です。

作者の京極氏は、物語作りの手本として滝沢馬琴を念頭に置いているとか、「ミステリ小説」という近代文学の枠組みのみで捉えられることを拒否する発言もしていますが、しかしミステリとしてに絞っても、本作には十分に語るべきポイントがあります。

ミステリにおいては通常、真犯人の他に「偽犯人」(犯人ではないけれど、その嫌疑をかけられる人物)が一人は必要です。
他方、あまり犯人候補が多くなると、「その内の一人が犯人でなければならず、他の者は犯人ではあり得ない」ことの論証が疎かになりがちです。
もちろん、犯人候補が何十人もいるミステリにも傑作も多々ありますが、そういう意味で、犯人候補を少数(最小で二人)に絞ったシンプルな形で書けるかどうかは、一つの試金石になり得ます。
また、物理的なトリックに凝るのも悪いわけではありませんが、たとえば大掛かりな仕掛けで密室を作っておいて、「それで犯人は何のメリットがあってそんなことをしたのか、よく分からない」では本末転倒です(これも出来の悪い作品にありがち)。

ミステリのアルファにしてオメガは、「いかにして捜査者は――それに読者も――真相を見逃すのか」という心理的盲点の作り方に尽きます。
京極氏は最初からその点を突き詰めた作家でした。
そして本作『絡新婦』は、全体は複数の事件が組み合わさって複雑で遠大なものになっていながら、一つ一つの事件はシンプルで、それゆえによくできているのです。

目潰し魔の事件では、連続殺人犯は最初から指名手配されていますが、現場にいたのは別の人物だった、ということが問題になります。犯人候補は二人だけ、という究極の単純さです。
また、現場は内側から施錠された密室でした。ただ、場所は粗末な連込宿の部屋のこと、「婆ァが襖を蹴り外したくらいで消えて無くなる密室」ですが。
だから、小細工をしようと思えば外から施錠することもできたでしょう。ただ、犯人がそんなことをする意味が分かりません。
その他、不審なことは探せば多々あるのですが、理屈を付けようと思えば何とでも言えます。捜査する側としては、犯人がはっきりしているならその他は些細なことだ、と思いがちですから。

木場修太郎は行動が暴走しがちな肉体派の刑事で、名探偵ではありません。
ただ、武骨な割に細かいことを気にする彼は、些細な矛盾を理屈で解消していく捜査本部の方針に反発を抱き、医学的初見から道具の扱いまで詳しい人に聞いて回り、疑問の解消に努めます。その結果、些細と思われたことが些細でないことが分かり、それまで見えていなかった事件の「貌(かお)」が見えてくる様はまことに模範的です。
仕掛けはだいたい伝統的なものですが、それを見落とす過程の描写と解明する理路が優れているので、色褪せないのです。

呉美由紀も、普通の女子中学生です。
彼女は捜査者ではなく事件の当事者であり、また警察のような権限を持つ立場ではないので、独力で事件を解決に導くことはできず、事件解決そのものは探偵・榎木津と京極堂が乗り込んでくるのを待つことになりますが、読者に対しては彼女は視点人物であると同時に探偵役でもあります。
当初は悲惨な場面を目の当たりにした挙げ句、(誤解から)タチの悪い大人たちから手酷い扱いを受け、一時は混乱と恐怖の局地にいた彼女が立ち上がり、呪いやら何やらが渦巻く怪奇事件に合理的な筋道を見出していく様は実に明晰です。

ただ、そうして一つ一つの事件を解決しても、それも全て蜘蛛の巣に絡め取られたごとくに真犯人の手の内……という壮大さ、厄介さが、本作のもう一つのポイントですが。

そして、この物語を象徴するのが妖怪「絡新婦(じょろうぐも)の形象です。
この形象を巡る意味の多層性も圧巻です。

そもそもこのシリーズの基本的な姿勢として、怪異とは説明の体系です。
例えば山中でシャキシャキと謎の音が聞こえた時、そこに何らかの物理的な説明が見出せるならば、それも一つの説明です(たとえ不明でも、何らかの物理的な理に従ってそれは起こっているのでしょう)。
対して、「それは“小豆洗い”という妖怪が小豆を研いでいる」と考えるのは、物理的なものとは別の次元の説明です。
時代や文化などの状況に応じていずれが機能するかは違いますが、一方が他方に優越したり、一方が他方を説明したりするようなものではありません。
そして、ここが重要なことですが、物理的な説明が付けられても、怪異が怖くなくなるとは限らないのです。
正体が枯れ尾花でも、幽霊は怖いのです。

かくして、「(近代科学的合理的に)説明できない不思議なこと」が残るわけではなく、合理的説明はそれできちんと完結しているにも関わらず、同時にそれとは別の意味の層が残る――京極氏が描いているのはまさしくそんな場面であり、そしてその「別の意味の層」には妖怪の名が与えられるのです。

さらに本作『絡新婦』では、事件そのものが多重構造で、別の視点からは全く別の顔を見せるような状況なので、「蜘蛛」の形象もまた、様々な層で反復されます。
まず、作中には「蜘蛛」を名乗る人物が何人も登場しますし、織作邸の通称も「蜘蛛の巣館」、学院の十字架裏の大蜘蛛なんて伝説も出てきます。
そして、上述のような事件全体の構造もまた、蜘蛛の巣に喩えられます。
さらに、本作は女性を巡る物語でもあります。織作家は旧い女系の一族であり、三女の葵は急進的なフェミニズムの論客です。
神話の時代から続く男系社会と女系社会の緊張関係、キリスト教の女性蔑視と魔女狩り、売春、現代のフェミニズム――そうした様々な女性を巡る問題が、「絡新婦」の形象に集約されるのです。というのも、作中で京極堂が述べるところによれば、――蜘蛛が糸を紡ぐことから――絡新婦とは機織り女の末裔ですから。

多方面にわたる厖大な蘊蓄が事件を説明する上でも全て意味を持つ様は、圧巻の一言です。

これだけ説明しても、どれだけ本作の凄みが伝わったかは心もとないのですが、これ以上は読んでいただくしかないでしょう。


並外れた美人揃いの織作の女たちを筆頭に魅力的な登場人物も多いのですが、私としては美由紀が京極作品の中でも一、二を争う気に入りのヒロインであり続けています。
勇ましい行動力と、状況を理解し、筋を通し客観的に考えを語れる聡明さが魅力的です。
彼女のことを偏見をもって見て、言うことをさっぱり理解しなかったり、いやらしい接し方をしてくる大人たちについては地の文で蟲だとか蜥蜴だとか散々な形容をして、

 正に益山の云う通りなのだ。他の奴等は、大人の癖にその程度のことがどうして解らないのか、美由紀は理解できない。(……)
 (京極夏彦『絡新婦の理』、講談社、1996、p. 488)


とか言う辺りも非常に痛快。
榎木津に対しては不思議と信頼する感情があるのも微笑ましいところです。

多くの悲劇に遭遇し、辛いことばかりだった彼女ですが、普通に成長して幸せになって欲しいと切に思います。

この辺の思い入れは昔からあまり変わっていません。上述のミステリとしての出来もあって、再読する時は木場パートと美由紀パートを集中的に拾い読みしてしまいがちなのも昔から。
他方、昔以上に今読むと改めて心に沁みる箇所は下記のようなところでしょうか。

「慥かに私は悩みました。高高数年長く生きていると云う、たったそれだけのことで、自信満満に子供を叱ることが出来るものですか? 子供と大人では大人の方が偉いと云う、無条件の特権がなければ、そんなことは出来ないです。それならば――」
 (……)
「――その特権は何を基準に与えられるのですか。それが解らなくなると――凡てが解らなくなりました。例えば男と女はどちらかが偉いのですか?(……)
 (……)
「教えて下さい! 自分と世界を分つ境界と云うのはどこにあるのですか?」
 中禅寺は云った。
「そんなことも解らないのですか」
「そ――そんなこと誰も教えてくれませんでした。国のため陛下のため死ぬことだけが美徳だと、ただそれだけを教わって、戦争が終わるとこんどは金を稼げと云われた。経済的に自立することが社会人の条件で、社会に適応できぬ私のような者は人間の屑なのです!」
 (同書、pp. 645-646)


彼の駄目人間っぷりに共感する、と月並みなことは言いますまい。
京極堂も、こうして「自分は駄目だ」と卑下するのは逃げだと切り捨て、「あなたはそうして自分を貶めることにそろそろ嫌気が差している筈だ」(同書、p. 657)と言っているくらいですから。

ただ、たいていの人がある程度は経験しそうなアイデンティティ不安を前にして、理論武装した挙げ句にこじらせている彼の気持ちは、少し分かる気がするのです(だから、彼の憑き物が落とされる場面は泣けます)。

それから、今読むと昔に比べて信仰の問題が印象に残るのは、『狂骨』の時にも感じたことですが(まあ何しろ専門ですから)、本作でもうそうでした。

 それこそ――笑ってしまう。
 学内では笑ってもいけないのだと云われ、笑わぬようにはしているが、可笑しい時には笑うのだし、可笑しく思うなと云われてもどうして良いのか解りはしない。大体、笑わぬ友人達などこの学校にはひとりも居らぬ。皆屈託なく笑う。
 それでも、この堅牢な建物の中に居る時だけ――自分達は敬虔な基督教の信者なのである。
 そう云う態度こそを、背徳と呼ぶのか。
 ならば、美由紀は神からはかなり遠い。
 (……)
 神が本当に在(い)るのなら、そんな美由紀を絶対に許してはくれぬ筈である。これでは、わざわざ地獄(インヘルノ)に堕ちるために信仰をしているようなものである。
 (同書、p. 81)


そして、神を冒瀆するために売春をしていた女子中学生に関して、その首謀者の言葉。

「本気で神を冒瀆する気がないのなら、何故あんなことが出来るのです? 私にはそちらの神経の方が理解出来ませんわ。身籠ったら何の躊躇いもなく堕ろす――そのくらいの覚悟も出来ていないのにあんなことをするなんて、心底世界を馬鹿にしています。道徳だとか倫理だとか、人間としての感情や愛情が僅かでも残っているのなら――あんなこと絶対にしてはならぬことではありませんか?」
 (同書、p. 611)


深い罪の自覚から、そのように罪深い人間を救う恩寵への目覚めというのが、一つの「回心」のあり方でしょう。
そう考えれば、遊びで神を冒瀆するような愚行に走っても、そこで回心して悔い改めれば、恩寵は開かれているのかも知れません。
しかし、それは原理の話。恩寵を見いだせなかった者に対して、何を言うことがあるでしょうか。

京極堂は救済を与えません。
彼の「憑き物落とし」は、ただ言葉により物事を解体するだけです。
しかし、絶望して信仰を失った者に対し、――それが悪魔であろうと――残ったものすら解体してしまうというのは、残酷なことです。そう思うと、彼の言う「悲しみ」もある程度は分かります。

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いよいよ始動

本日(5月20日)発売の『マガジンspecial』Vol.6からいよいよ京極夏彦『絡新婦の理』のコミカライズが連載開始されました。漫画家はもちろん引き続き志水アキ氏です。 角川書店から講談社へ、掲載誌ばかりか出版社も移動してのシリーズ新作です。  (原作小説についての記事) 実は今回、(保存するには良いかと思い)雑誌を電子書籍で買ってみたのですが、ビューアを立ち上げた際...
プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
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