オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
呪いの解ける辛さ――『姑獲鳥の夏 4』
掲載誌の休刊と移動もあって2巻と3巻の間は少し空きましたが、4巻は3巻からわずか3ヶ月での刊行となりました。
ただ、コミカライズということで原作の再現度を問題にしがち、その回や巻の内容に絞った話になりがちだったことを最近になって改めて感じたので、今回はまずこのコミカライズ4巻のことをざっと述べた後で、改めて――原作のことを念頭に置きつつ――『姑獲鳥の夏』という作品の総評を書かせていただきます。
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(前巻の記事)
前巻で京極堂の憑物落としの最大の山場があり、ついに死体も登場して、メインの謎はすでに解明されたかに見えましたが、これはまだ出来事の一部に過ぎず、世間的に問題になっている「嬰児連続失踪(誘拐)事件」の方もまだ解決されてはいませんでした。
というわけで、今巻はもっぱら京極堂による解説、そして事件の幕引きとなります。
私もとりわけ気に入りの『狂骨』や『絡新婦』に比べると本作の原作はあまり読み返していなかったのですが、さて今こうして見ると印象深いのは、まさしく呪い――因襲――に囚われた久遠寺家の姿、中でも子供を教え諭すためと弁明しつつ、上の世代にやられたことをしたの世代にやり返すことで呪いを引き継いでしまった一人の母の姿です。


(京極夏彦/志水アキ『姑獲鳥の夏 4』、KADOKAWA、2015、pp. 46-47)
昭和の都会で起こった事件は、古い因襲の内にその根(原因)を持っており、「異人殺し」のような古い伝承に連なる現代の新たな伝説でした。
その意味で彼女は呪いに操られていたようなもの――しかしだからといって、責任を免除されるわけではありません。
むしろ、厄介な因縁を断ち切ろうとして故郷を捨てて東京に出てきたのならば、その時に呪いも断ち切るべきだったのです。引き受けてしまったのは、誰のせいでもない自分のせいです。
――そもそも本作が昭和27年を舞台としているのも、こうした近代と前近代の継ぎ目を問題にするためでしょう。
すでに明治以降の西洋近代的思考が一般的なものとなり、さらに戦争という大きな断絶を経験しながら、なおもそこかしこに前近代の遺物が顔を出す――もちろん、そうした「遺物」は平成の世になっても生きていることはあり得ますが、戦後7~8という設定は、そうした近代と前近代のモザイクを迫真性あるものと感じさせるための有効な舞台装置となっています。
そして父の方は、近代合理主義者の入り婿で、そうした因襲や迷信と戦おうとしながら、壁に跳ね返されてきました。
私は最初に読んだのがシリーズ第4作の『鉄鼠の檻』だったので(『鉄鼠』は『姑獲鳥』のネタバレを若干ながら含むので、この順番はお勧めはしません)、院長――久遠寺嘉親に関しても『鉄鼠』の好々爺なイメージが強く、それゆえこのコミカライズで最初に見た時には意外に悪人面だと感じたくらいなのですが、しかし確かに『姑獲鳥』での彼は、当初は陽気な病院長、しかし合理主義者ゆえに娘をも疑う人物で、娘たちはそれによる家族の歪みに苦しんでいた節もあり、そして最後には合理主義を掲げての旧弊との戦いにもすでに倦み疲れていたことが見えてくると、結構様々な貌と陰を持っていた人物でした。それを改めて感じます。

(同書、p. 39)
「別にこんな病院 儂の代で潰したって良かったんだ」――私も医者の不肖の息子なので、ちょっと考えてしまいます。
もちろん、状況はまるで違っていて、そもそも私の両親は開業医ではないので、「家を継ぐ」ことなど問題にならずに済んだのですが。裏を返せば、家というものがあるならば、その重さに悩まされることもあり得たのかも知れません。
久遠寺老人の言葉は、そんな「家」に疲れた末の言葉です。
同時に、今見ると「憑物落とし」の残酷さも痛い程に感じます。
漫画になると登場人物の感情――とりわけ、古傷を抉られ自分たちのしたことを突き付けられ知りたくもないことを知らされる久遠寺夫妻の恐慌ぶりがあまりにもよく伝わってくるせいもあるでしょう。
そんな酷いことができるはずがない――という意見に対しても、そういう常識は言語と文化によって作られた「呪」であり、それは解体できる、それが通じない「彼岸の理屈」で人が動くことがあり得るのだと、京極堂は冷酷に告げるのです。

そう この男は冷酷にも誰かが縋っているものを次々と払い落とす
絡まった糸を解きほぐすかのように皆の憑物を落とすのだ
(同書、p. 123)
ただし、次作の『魍魎』以降で京極堂は、犯罪者を「異常者」として片付けることを厳しく批判しているので、それとこれは若干齟齬を来すように見えるかも知れません。
けれども、ここでの「彼岸の理屈」も、決して単に異常で理解出来ないものではなく(もしそうであるなら、それによって恐ろしく非道な所業を「私たちの世界とは隔絶した出来事」として扱ってしまうことができるので、聞き手はかえって取り乱さずに済むでしょう)、社会的にも理解される意義を持っていた理屈の延長上に導き出されたのだということこそを、京極堂は語っているのです。
どんな状況であれ、大抵の人は犯罪を犯さない。その意味で、究極的に人を犯罪に駆り立てたのは、その人の内的論理です。しかし、その内的論理を共通の言葉で語り、物語を与え、皆に理解出来るようにすることこそ、京極堂の「憑物落とし」なのです。
いずれにせよ、事件には終幕の時が訪れます。
ここで現実のものとなる妖怪・姑獲鳥(うぶめ)の形象。

(同書、p. 164)
参考までに、石燕の描く姑獲鳥の姿は下のようでした。

(京極夏彦/志水アキ『姑獲鳥の夏 1』、p. 34。ただしこの図は鳥山石燕『画図百鬼夜行』より)
あまりにも鮮烈で美しく、そして哀しい幕引き。
これは全てがここに収束する時でもありました。
もう解決編なので新キャラは登場しない――かと言うと、本作中では生きて姿を見せることのない菅野(すがの)医師がいました。漫画なので過去の人もイメージ映像での登場があります。

(『姑獲鳥の夏 4』、p. 99)
……見た目で判断してはいけませんが、想像以上に品のない顔でした。
設定に合ってると言えば合ってるのですが、「老人」と言われるくらい老けているという話からするとどうなのか、とは思わないでもありません。
―――
それから、巻末の広告ページを見ると、『マガジンSPECIAL』にて2015年初夏から『絡新婦の理』連載開始予定との報。

『マガジンSPECIAL』も最近創刊された雑誌ですが、また掲載誌移動ですか。
しかし、シリーズの順番としては『絡新婦』の前の『鉄鼠』はどうなるのでしょう……『鉄鼠』は『姑獲鳥』キャラの再登場などの要素があるからこそ、そのために先に『姑獲鳥』を描いたのだと思ったのですが。
コミカライズでは先に描かれることになった『百器徒然袋』で探偵助手として活躍している益田の初登場する話でもありますし(『百器徒然袋』を先に読んでいるとイメージのギャップが著しいかも知れませんが)。
まあ、『絡新婦』が読めるならばとても嬉しいのですけどね。
■■■
そして、以下は予告通り『姑獲鳥の夏』全体の話になります。
本作は、まず雑司ヶ谷の久遠寺医院で、入り婿の牧朗氏が密室から失踪し、その妻は失踪直後に妊娠が発覚、以来妊娠20ヶ月になっても子供が生まれないでいる、という風聞から始まります。
そして実際、久遠寺家の長女である涼子(りょうこ)――妊娠20ヶ月と噂の妻・梗子(きょうこ)の姉――が、牧朗氏がどうなったのかを明らかにするよう、探偵・榎木津礼二郎の事務所に依頼してくるのです。
語り手の関口巽(せきぐち たつみ)は冴えない物書きで、この件について何か書こうと考えていたのですが、問題の牧朗氏が自分の学生時代の先輩であったことを思い出したことから、この件に関わることになっていきます。
他方で、久遠寺医院は産婦人科ですが、生まれた子供が何人も誘拐されて消えたという噂があります。
病院側は死産だったと説明しており、また、消えた赤ん坊の両親は訴えを取り下げているのですが、調べてみると確かに事件はあったようで……
この「嬰児連続誘拐事件」が話題になり、久遠寺家が世間から攻撃を受けるのを見た関口は、古い知人で神主兼古本や兼拝み屋である京極堂(本名は中禅寺秋彦(ちゅうぜんじ あきひこ))に、久遠寺家の呪いを解いてくれるよう依頼するのですが……
というわけで、繰り返すようですが本作はミステリとしては特異で、なかなか死体が出てきません。
メインの事件は刑事事件ですらなく、牧朗氏が密室から消えたというものです。
そして警察が動く事件――嬰児連続誘拐事件については、主人公の目的は犯人を捕まえたり真相を明らかにしたりすることではなく、むしろその犯人としての悪しき評判からヒロインを救うことなのです。
話は複雑ですが、ミステリとしての仕掛けは分かってしまえば単純。
そもそも『絡新婦』に関して言ったように、ミステリのアルファにしてオメガは心理的盲点です。本作はその極限のようなものです。
だから本作は、いかに現実というのが我々によって構成されたものであるかという、長い認識論的講釈から始まるのです。
ただ、この講釈が――ことに精神医学や脳科学に関しては――若干の甘さを感じさせる点かも知れません。
他方で、デビュー作にしてすでにはっきりと現れている見事な作りは、何と言ってもこのシリーズの特徴である多層性です。
表向きには牧朗氏の失踪事件と嬰児連続誘拐事件という二つの事件があるのですが、しかしこの両者の関係が明らかになった時に初めて事件の全体像が分かるのです。
その意味で、――これはシリーズのほとんどの作品に関して言えることですが――読み終わった後ですら、これは一体何という事件で犯人は誰だったのか、一概には言えないのです。
もちろん、社会的に犯罪として扱われる事件とその実行犯を特定することはできますが、それだけではほとんど何も分かったことにならないのです。
その大きな理由は、複数の殺人事件が起こる、これは別件かそれとも連続殺人か……というタイプの話とは異なり、本作における複数の事件はちょうど公的な事柄と私的な事柄のように、意味の位相において異なるものとして現れるからです(これもシリーズに――例外はあるものの――共通する特徴です)。
牧朗氏の失踪事件が久遠寺家内部の問題であり、嬰児連続誘拐事件が警察の動く事件であったことを見れば、この点は分かりやすいでしょう。
しかし、そうした多層的な意味の繋がりが全て明らかになった時、単に「犯人は何をしたか」ではなく、「犯人はいかにして生み出され、犯人にとって犯行はいかなる意味を持っていたか」というレベルで、全てが露わになるのです。
そして、そうした多層的な意味をいわば束ねる象徴が、妖怪です。
本作においては、妖怪「うぶめ」に関する京極堂の蘊蓄も二度に渡って展開され、最初は「お産で死んだ女の無念」という説明だったのが、次は「人間的母性と生物的母性のズレから生じたおぞましい矛盾――生理的嫌悪感」というところまで問題が拡張されます。
いずれにせよ確かなのは、うぶめは妊娠・出産にまつわるズレや割り切れないものを体現した妖怪であり(割り切れない気持ち悪さがあるからこそ、人はそこに妖怪の名と形象を与えるのです)、そしてそれは産婦人科、恋人、夫婦、家といった公私に渡る様々なレベルで、昭和の東京を舞台に反復されるのだ、ということです。
何しろ、子供を産むというのはまずは個人の――当人の事柄であるのと同時に、子供を産まねば家も社会も人類も存続できないという、この上なく公的な事柄でもあります。そこに様々なズレや歪みも生じてくるのであり、時には事件として現れることもあるのです。
ちなみに「姑獲鳥」というのは子供を攫う中国の妖怪で、子供を人に渡すとされるうぶめとは同一視するほどの共通点がないのですが、なぜか鳥山石燕は「姑獲鳥」と書いて「うぶめ」と読ませている、というのも指摘されるポイントで、そして最後に現実の場面において、姑獲鳥とうぶめが繋がるところが描かれる、というのも見事です。
後は、筋にはさほど関係ないことですが、この時期の榎木津はまだまともなのが印象的です。
いや、彼は破天荒ではあっても倫理的にはつねにまともですし、しばしば説教もしますが、怒りを露わにするというのは、後の作品ではあまり見られなくなりました。

(同書、p. 15)
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