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何ゆえにかくも哀しいか

※ 今回は私のこだわりというかツボがかなり妙なところにあるという話です。
ですので、話としてあまりまとまってはいませんし、共感できないのは当然と思っておいてください。

唐突ながら、京極夏彦氏の作品で私が一番好きなのは、再三言っているように『絡新婦の理』で、次は――アンケートを取れば『魍魎の匣』という人が多いかも知れませんが――『狂骨の夢』です。

ただ、一番泣けたのは『鉄鼠の檻』であるように思います。
それも、最初に読んだ時にそうだった覚えはありません。それが今は何度読み返しても泣けます。
(コミカライズ次第では、今後また印象が変わってくる可能性もありますが)

鉄鼠の檻 (講談社ノベルス)鉄鼠の檻 (講談社ノベルス)
(1996/01/05)
京極 夏彦

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文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)
(2001/09/06)
京極 夏彦

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『鉄鼠の檻』についての真面目な紹介はまたの機会に譲ろうかと思いますが、この小説の題材はです。
箱根の山中にある知られざる奇妙な禅寺。そこを舞台に起こる連続殺人。
寺の成り立ちに関する謎と禅に関する厖大な蘊蓄は、果たして事件と関係があるのかないのか――
この壮大な語りは確かに見事であり、作品の「面白さ」はまさしくそれによって成立しているのですが、私にとって涙するポイントはそこではありません。

『鉄鼠』の舞台は禅寺なので、登場人物の多くは僧侶です。
そしてお坊さんと言えど、たとえ修行を積み高い地位に就いていても、様々なことで悩んでいます。そんな人間模様が、この小説の見所の一つです。

そして『鉄鼠』は、同性愛・小児性愛・近親相姦などの様々な性的倒錯者たちの葛藤や迷いを描いた話でもあるのです(断言)。
そうした要素は京極氏の他の作品でも結構見られますが、『鉄鼠』の場合、それが事件の主役の物語とは限らないことに大きな特徴があります。
「異常犯罪者=性的異常者」というありがちな図式はもはや何の力も持ちません。
もちろん、犯罪者に「異常者」というレッテルを貼り、そうした「異常性」から犯罪を説明することに対する批判は、シリーズ他作品にもしばしば見られますが、『鉄鼠』においては、もはや明言して批判するまでもなく、その図式が解体されるのです。

もちろん、葛藤と言っても、それは別に美しいものではありません。
かくのごとき欲望を抱えた自分を誤魔化し、逃げ、言い訳をして、そのことで他人から説教されて、ようやくそんな自分を受け入れる――そんな物語に泣けるのです。

「あの探偵は良い眼をしておる。所詮己は凡夫、何の修行もなっておるものか――そう云われておるようで怖かったのだ。しかし驕っておった。自分を凡夫と、そう認めることから修行は始まるのであった。そうであったな」


とある和尚のこの台詞は、何度読んでも、思い返すだに泣けます。

そもそも、修行をしても悟っても、それで煩悩が無くなるはずはありません。
人間に達成できる偉大さとは、そうした煩悩を抱えた自らを受け入れて、そうした浅ましき身でありながら立派になれることにこそあるはずです。

私としては、性的倒錯者の葛藤を描いた文学としても『鉄鼠』に最高の評価を与えたい思いです。

 ―――

さて、いささか話は妙なところへ飛ぶようですけれど、先だって紹介したライトノベル『二度めの夏、二度と会えない君』のことです。
この作品において、主人公の智は、もしかして燐が自分のことを好きなのではないか、と思うたび、それは「自分に都合のいい妄想」だと自分に言い聞かせようとします。

 いくら自分に言い聞かせても、そんな都合のいい考えが次から次へと湧いてくる。
 そんなだから、あのとき、燐を傷つけてしまったのではないのか。
 相手のことを考えず、ただ自分が楽になりたいがために想いをぶつけて、それで最後に壊れてしまったのではなかったか。
 思い知っているはずなのに、どうして同じ過ちを繰り返そうとしているのだ、俺は。
 バカか。
 こんな奇跡、二度とない。
 時間が巻き戻るなんて、やり直せるなんて、普通はあり得ない。
 そんな望外の幸運を、身勝手な感情で台無しにするつもりか。
 そうやっていくら自分を抑えつけても、身勝手な感情は次から次へと湧いてきた。
 人を好きになるという気持ちは、どこまでもおぞましい。
 こんなに汚いものだから、人は愛を歌うとき、過剰なほどに美しく飾るのではないかと、半ば本気でそう思った。
 (赤城大空『二度めの夏、二度と会えない君』、小学館、2015、pp. 211-212)


読者としては、智の考えは単なる「妄想」ではないことを十分に察していますし、それどころか告白して拒絶された「一巡目」でさえ、必ずしも「過ち」とは断ぜられないのではないか、と考える余地すらあります。
だからこそ、全てを内に抱え込んだままの彼の姿はもどかしくも悲痛なのです。

さて――話を台無しにするようなことを言いますが、彼が性的倒錯者で、一般的には恋愛対象になり得ない相手に対して恋愛感情を抱いているとしたら、どうか。この心理描写はほとんど違和感なく当てはまりますが、「実は相手も自分のことを…」という思いが「都合のいい妄想」とは言い切れないという機微は描きにくくなるでしょう。
しかしそれ以上に、物語としての美しさという点でアウトです。
『この恋と、その未来。』のように、相手が性同一性障碍で心が男の美少女ならばまだ美しくも切ない話になりますが、主人公がホモやロリコンだったら心証的に不可というのは、要するに美的感情の問題です。

私としても『二度目の夏』は感動的な作品で、泣くに値する作品だったと思います。
けれど、この作品に対して感じる「涙」は、ヒロインとの悲劇的な別れについてというより、『鉄鼠』で感じたのに近いもののように思えるのです(※ 私の場合に限り)。

「告白したのは間違いだったから、想いを隠し通すのが正解」と考えているのは、必ずしも正しいとは言えません。
ただそれは、彼が燐の気持ちについて読み誤っているためだけではないでしょう。
そして、彼の考え自体は正しいと言えなくとも、自分の気持ちを伏せ続ける彼の姿は、やはり心に沁みます。
それは彼の気持ちが「身勝手な感情」だからではありますまい。

むしろ智の錯誤は、感情は抑え付ければそれで済むと思っていることにあります。
何十年も修行している高僧だって、感情に蓋をするだけでは何にもならなかったのですから。
こう考えると、『二度目の夏』が「今度は恋愛が成就する」という次元に物語のカタルシスを持ってこなかったことの意味も理解出来ます。
問題はあくまで、自分との折り合いなのです。


この変態性欲との類比は、赤城氏が『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』の作者であることと関係があるかと言われたら、まあないだろうと断言できますが。

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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