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改めてハーレムの話をしよう

一夫多妻制(ポリガミー polygamy)というのは、世界各地に見られます。
複数の正妻を認めるにせよ、正妻は一人で他に非正規の妾を置くにせよ、一人の男性が複数の女性に対する権利を持ち、その女性たのところを回るというのが基本形です。

対して一妻多夫(ポリアンドリー polyandry)というのは聞きません。そもそもそんな言葉からして、(日本語でも英語でも)一夫多妻に対応させて作ったように見えます。
社会学者の上野千鶴子氏によると、(1980年代当時で)一妻多夫の制度が確認されているのは「チベットとネパールの奥地ぐらい」とのこと。

(……)そこは非常に貧しい山岳牧畜民の社会です。そこでは結婚するための婚資に二、三十頭の家畜を花嫁の親族に渡さないと嫁がこないのですが、数十頭の家畜を殖やすのに最低三年ぐらいかかります。そうすると、兄に一人嫁を取ると、次の弟に婚資を用意するまで最低三年待たなければなりません。それでも飢饉などがあったらそんなにたくさん家畜を用意できるわけではありませんし、貧しいですから、弟が我慢しなければいけません。兄が嫁を取ったときに、弟は兄嫁と同衾することができる、というのがポリアンドリーの実際の規則です。ただし弟が嫁を取ったとたんに弟は兄の妻に対する権利を失います。だからそれは、婚資との関係で弟に忍耐を強いる代償としての花嫁使用権のようなものです。
 妻を共有していても、共有のルールにはいろいろあります。牧畜民なので家畜と一緒に移動しますから、妻を残して玉の上に行って数ヶ月間帰ってこないときがあります。兄の妻に対する弟の使用権はそうした兄がいないときだけに限るとか、そういう形でうまく競合を避けています。
 (上野千鶴子『スカートの下の劇場』、河出文庫、1992、pp. 116-117)


ここから上野氏は、男を共有する女性同士のシスターフッドに比べ、女を共有する男同士の「ブラザーフッドは対立的構造を持つ」と結論しています。

そもそもこの直前に氏が論じているところによれば、「女同士の関係でいちばん理想的なタイプの関係は、男を共有した女性との関係」(同書、p. 114)だというのです。

 その逆に、関係した女同士が反目しあうというのは、男による性の分断支配の一番都合のいい形です。女たちが「女部屋」の連帯をなしとげてしまったら、男にとっては一番脅威でしょう。
 シスターフッドがちゃんと確立したら、不倫の果ての愁嘆場などというのもなくなるかもしれません。不倫というのは、いまのところまだ独占型の性愛というのが幅をきかせているから成り立つ概念であって、たとえば妻持ちの男と私が関係を持ったら、その妻と私が、一番理解しあえるような気がします。原理的にはそうなのですが、実行はむずかしそうですけれど。
 (同書、p. 115)


「実行はむずかし」いのであって、そう上手く行くかどうかは別にして、上野氏の理屈は、男性側の理屈からすれば概ね正しいと思われます。
ブラザーフッドが対立するというのも、「忍耐を強いる代償として」弟に「花嫁使用権」を与えるというのも、男性側の問題です。

しかし、女性中心で考えた場合どうかというと、そもそも一妻多夫というのは制度として必要ないのではないか、と思われるのです。

つまり、男の立場からすると、女が他の男と関係を持っていたら生まれた子供が誰の子供が分からなくなってしまうので、女を「自分のもの」として「囲い込んで」おかねばならないのです。
それに対して、女にとって生まれた子供はつねに100%自分の子供です。
男を囲い込む必然性がないのです。

「女が婚外の、場合によっては通りすがりの男の種を受け入れる」という社会習慣ならば、一妻多夫よりもずっと広く存在するのではないでしょうか。日本にもそうした習慣はありました。
先日触れたライトノベル『魔弾の王と戦姫』でオルガが語る「騎馬の民」の習慣という設定も、そうしたことを踏まえているのでしょう。

「しかし、それだと父親のいない子供になるんじゃないか? いまの話を聞くと、父親となる者が全員そこに留まってくれるとは思えないが」
「もちろん、そうして生まれた子はたいていの場合、父を持たない。でも、一族の子として祖父や祖母、叔父やオバにわけへだてなく育てられる。父がいないからといって蔑まれることはない」
 (川口士『魔弾の王と戦姫 11』、KADOKAWA、2015、p. 62)


現代社会において、シングルマザーというのは大変な生き方の代表のように扱われていますが、それは核家族を基準にして「そこから父親を引いたもの」を母子家庭と考え、その場合には母親が両親二人分の責任を背負わねばならない、と考えるからではありますまいか。
子育てが「共同体や親族の皆でやること」と認知されているならば、その数いる「共同体や親族」の中に父親一人がいなくても、負担という点での影響は随分と小さくなるのではないかと。

まあ、すでに機能していない制度や習慣を懐かしんでも始まらないのであって、現代を嘆くのは程々にしておきたいと思いますが、何でも親だけで引き受けるのが「親の責任」だと思うことは、推奨できません。

それはそうと、誰の子供か問題になるのは、家や財産の相続に関する場面ですから、つまるところ事態は相続が男系か女系かにかかっています。
男系と女性の対立は、社会の根本に存在する対立軸の一つなのではないか、と。

この点に関して興味深い話として、京極夏彦氏は『絡新婦の理』の中で、『古事記』の天孫降臨の神話にある一エピソードを「女性原理を男性原理によって読み解いたもの」と見なしています。

『古事記』において、天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘・木花佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と出会い、彼女を娶ることにします。
木花佐久夜毘売は姉の岩長比売(いわながひめ)と一緒に輿入れしてくるのですが、岩長比売の方は醜いからといって返されてしまいます。
その後、木花佐久夜毘売はすぐに子供を身籠もるものの、邇邇芸命は「佐久夜毘賣、一宿(ひとよ)にや妊める」と、自分の子ではないのではないかと疑う。対して木花佐久夜毘売は「吾が妊みし子、もし國つ神〔=佐久夜毘売の地元の神、つまり他の男〕ならば、産むこと幸(さき)くあらじ。もし天つ神〔=邇邇芸命〕の御子ならば、幸くあらむ」といって、家に火を放ってその中で出産する……という物語です。

『絡新婦』における京極堂の解釈によれば、木花佐久夜毘売の側は女系社会の原理で、尊い客人と一夜を共にして種を受け取ればそれでいい、ところが男系社会の邇邇芸命側からすると、娘は嫁にくれなくては困る、ということになります。
大山津見神にとって、姉の岩長比売は跡継ぎなので余所にはやれない、しかし邇邇芸命からすると価値の高い姉を「貰えなかった」のは屈辱なので、――歴史を書き残しているのは邇邇芸命側の立場ですから――貰ったけれど醜かったから返したのだと言い訳をした、というのです。

確かに、火を放ってその中で出産した、というエピソードには、征服民である邇邇芸命と土着民である木花佐久夜毘売との緊張関係がはっきりと窺えます。


――今回はかなり強引に話を締めておきますが、私はかねてから、ハーレムというのはこうした婚姻制度という社会的問題に絡んでくる面があると考えています。
ただ、そうした社会的面を描くことは恋愛と必ずしも相性がいいとは限らない、さらに言えば、そうした大きな社会的な問題は急に話を畳める類の事柄でない、というのがネックになりそうですが。

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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