オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
予備的「萌え」考
谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』の台詞にこんなのがありました。
「学校を舞台にした物語にはね、こういう萌えキャラが一人は必ずいるものなのよ。言い換えれば萌えキャラのあるところに物語は発生するの」(p.129)
突っ込み所が多いのは作者の意図するところでしょうが、私はここである1点を気にしたいと思います。
すなわち、「萌えキャラのあるところに物語は発生する」のか、それとも「物語があるから萌えキャラは萌えキャラである」のかということです。
物語の中、特定のシチュエーションにいてこそ「萌える」のだ、といった嗜好のことは脇に置いておいて良いですから、以下のような思考実験をしてみてはいかがでしょう。すなわち、何も「物語が発生」しないということは「物語られない」ということであって、誰にも語り伝えられないのですから、「萌えられる」こともありません。
ここで、誰も「萌えて」いなくても、ある性質を備えた人物は潜在的には「萌えキャラ」であるのだ、という反論が考えられるでしょう。すなわち問題になるのは、「対象がそれ自体の特性として“萌えキャラ”であるから萌える」のか、「萌えたから対象が“萌えキャラ”であったことになる」のか、ということです。
ハルヒは無論、前者の考えでいます。上記の台詞の続きも引用してみましょう。
「みくるちゃんというもともとロリーで気が弱くて、でもグラマーっていう萌え要素を持つ女の子をさらにメイド服で装飾することにより、萌えパワーは飛躍的に増大するわ。どこから見ても萌え記号のかたまりよね。もう勝ったも同然ね」
つまり「ロリー」「気が弱い」「グラマー」「メイド服」といったものは「萌え記号」であり、それを備えているキャラはそれ自体で「萌えキャラ」であるという訳です。
東浩紀『動物化するポストモダン』での「萌え記号」という言葉も同じような意味で使われていました。そもそも「萌え記号」という言葉自体、ネット上で「萌え」を語る人々が日常的に使っていたもので、こうした考えは「萌えオタク」を称する人にとっては周知のものだったのではないかと思います。
しかし「萌えとは何か」と語ろうとする時、まさにこの点にこそ混乱があるのではないか、と思うのです。
(機会があれば続くつもりです)
(芸術学2年T.Y.)
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