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教育の逆説

風邪が再発したのでしばらく寝込んでいました。
現在はもう平常通りです。
ただ、あまりにも寒いので動きたくないのですが。それどころか、起きていると暖房をかけない訳にいかず、電気代がかかりそうなのが気がかりです。

さて、「プロ教師の会」の諏訪哲二氏の著作はよく読んでいて、このブログで紹介するのも何度目かになると思いますが、最近出たこれも読みました。



まずは読書メーターに書いたレビューの転載から。
と言っても、本の内容に関してはこれで概ね語っています。

基本は著者のいつも通りの議論。学校教育とは近代的市民を作るためのものであり、まず学ぶ主体を作る強制的なものであるが、そこにおいて教師の力が及ぶ範囲は限られている。しかし日本が「消費社会」化して、学校にも「等価交換」の論理が入ってくるようになった…表題に関して言えば、教師は人間的に優れているからではなく、役割上敬意を払われる必要があるが、社会の変化によりそれが通用しなくなってきたとのこと。今回の特徴は著者の経歴の話が多いことか。概ねは同意するが、理論面では主体を作るという逆説をもっと追究したくなるが…。


やはりポイントは、「主体を作る」ということです。

A:「もっと自分で主体的に考えて行動しろ」 B:「はい、仰る通りに主体的にやります」では、Bは全然主体的でないのは明らかです。
このように、主体を作るというのは逆説を含みます。

もちろん、私が私であり、主体的であり、自由であることは、私自身が主体的に、自由に選んだことではないというのは当たり前のことであって、これは哲学的には自然な帰結です。しかし、神ならぬ人間が他人を形成する「教育」という場面においては、その逆説が表面に出てきます。
実際、諏訪氏は一方では「教育は近代的市民としての主体を作るものであり、強制である」ことを強調し、他方では「子供たちはすでに主体として学校にやって来るのであって、彼らが主体的に学ばなければ教師が何をいくら教えても学べない」と述べます。
それは「近代」そのものに対する両義的な評価に繋がっており、日本では'70年代に「近代化」が完了し、「近代的個人」としての子供たちが登場したことこそ現代の教育問題に通じている、と言う一方で、別の著作では「本当の近代的個人とはこのようなものではないとも思った」と書いています。

もちろん、諏訪氏は「逆説」を強調するわけではなく、ましてやどこかの哲学者のように「現実とは矛盾なのだ」と言って済ませることはしません。そういう撞着表現は便利である代わりに、何でも言える形式に堕しがちですから。
ただ、氏が語ろうとしている事態はやはり、逆説的です。

諏訪氏の議論が何とでも言える撞着表現に陥らないのは、氏の教師としての実感に支えられて、そこから空虚な形式として暴走することがないからです。裏を返せば、ひとたび理論的に考え始めると、微妙な問題は付きまといます。

あるいは、これは外面と内面の区別で説明できるかも知れません。
たとえば、今回の著作にある例ですが、子供たちが喫煙などの悪事を働いて、たとえ叱られても内心では悪いと思っていない場合――諏訪氏によれば、教師はそう思っている子供の内面にまで手を入れることはできませんし、またそうすべきではありません。ただ、外に現れる行為において「そういうことをしないように」と教えるのです。
とは言え、そうした規範を教えることは、やはり究極的には規範の内面化に繋がりますし、またそこを目指さざるをえないように思われます。実際、学びに関して「学ぶ主体を作る」というのは、そういうことでしょう。

ですから、諏訪氏の主張はその具体性においては概ね賛同できるのですが、理論的には難しい問題を残していきます。
(そして、哲学の徒というのは実践の役には断たない理論的なことを気にしたがるものです)

諏訪氏の論の両義性は、ヘレン・ケラーの事例を語る箇所によく現れています。
「外部を持たない」で「野獣のよう」に生活していたヘレンに対してサリヴァン先生が、たとえばナプキンを付けてスプーンでお菓子を食べるといった「不自然」な「文化」を教え込み、そのために幼いヘレンを力尽くで屈服させる過程を、諏訪氏は「教育とは強制である」ことの事例として挙げます。
ただ、氏の語るヘレン・ケラーのイメージはあまり映画『奇跡の人』のイメージに引きずられています。

実際のサリヴァン先生の書簡を見ると、当初のヘレンは「めったに笑いません」し、「ひどく短気で、わがまま」(『ヘレン・ケラーはどう教育されたか ―サリバン先生の記録―』遠山啓序・槇恭子訳、明治図書、1996年改版、p. 13)という記述はあり、またヘレンの成長を語るのに「二週間前の小さな野生動物は、やさしい子どもに変わりました」(同書、p. 24)とも書いていますし、また食事の時に何でも、他人の皿からでも手摑みで取って食べていたこと、そんな彼女に食事を作法を教えるために格闘したこと、まず「服従」を教えねばならなかったことも書かれています(同書、pp. 19-20)。しかし、他方で出会ったその日から「持ち物を片付けるのを手伝ってくされました」(p. 12)という記述もあり、また、うなずくことが「あげる」合図になっていたともあります(つまり、ちゃんと自分と他人の所有権を理解している)。「外部がない」「野生動物」のような生活だなんて、とんでもない。
それまでの境遇を考えれば、ヘレンが例外的に優秀でよくできた子だったことは、間違いありません。

フィクションとしての『奇跡の人』の主人公は、ヘレンに奇跡を“起こさせた人”、すなわちサリヴァン先生です。
その場合、当初の野獣のようなヘレンからサリヴァン先生の教育によってコミュニケーション可能な少女へと成長した姿のギャップが大きいほど、物語は感動的になります。だから演出家も脚色するのでしょう。
しかし、この面を強調しすぎると、まるでサリヴァン先生が材料をこねてものを作るようにヘレンを「作り上げた」イメージになり、かくして「教育はいつもそう上手く行くわけではない」「子供は意のままに育ってくれるわけではない」ことを忘れがちになります。
諏訪氏もそれをよく分かっているのでしょう、ヘレンの事例について紙面を割いた後、

 サリヴァン先生は強固な意志を持つ教育者ではあるが、三重苦の少女がヘレンでなかったら、彼女の労苦は報われなかったかもしれない。(……)
 (諏訪哲二『尊敬されない教師』p. 150)


 もうひとつ考慮しなければならない点は、ヘレンとサリヴァン先生の関係は一対一の「師と弟子」の関係であり、学校の「(たくさん居るなかの一人の)教師と生徒」ではないことである。(……)
 (同書、p. 151)


と二重に留保を付けます。
氏の論点からすれば、ヘレンの事例はあくまで「教育とは強制である」という事例であって、それが「いつも同じように上手く行くわけではない」こととは何ら矛盾しないのでしょう(実際、論理的には何もおかしなことはありません)。
しかし、「これが教育だ」と言わんばかりに一つの事例に頁を使った後で、「この教育的実験はある普遍性を持つが、同時に、一つの偶然性でもある」(同所)と、そのモデルとしての意義に留保を付けられては、読者としては煮え切らない思いでしょう。


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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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